第一章02『アイツは空から降って来て』
「はああああああああああああああああああああああああぁぁぁぁぁぁぁぁ……」
朝、九時五〇分。
木造借家の二階の一室で、フェグルスはボロボロのソファーに腰を下ろして項垂れていた。
朝っぱらから最悪だ。
夢見が悪くて気分は悪いし。空気を入れ替えようと窓を開けたら蜂の巣が出来てるし。顔を洗おうと思って蛇口を捻れば、水道が壊れて水が出なくなってるし。
……ついでに、「そろそろ家賃を払わないとさすがに出て行ってもらいます」という旨の手紙も玄関に挟まっている始末だし。
一体何なんだ、次から次へと。
今日だけじゃない。昨日からずっとだ。
「どうにもならん……」
それでも、どうにかしないといけないのだ。
そしてどうにかしたいなら、行動しなければならない。
自分だけがそうじゃない。皆そうだ。皆、何かをどうにかしたくて、今日も忙しく動き続けている。働き続けている。だからこそ社会や世界が上手く成り立っているのだ。
自分だけ、なんて、そんな甘えは通用しない。
いつまでも、立ち止まってはいられない。
「……しゃあねえ」
無いやる気を絞り出し、フェグルスは力なく立ち上がる。
差し当たって、まず最初にやるべき事は―――
「次のバイト、見つけねえと」
―――生きるためには金がいる。
―――服を着るにも、家賃を払うにも、何をするにも例外なく。
しかし、人間にとって普通の事でも、魔獣にとってはひどく難しい。
特に現代、魔法が使えて当然の時代には、魔法も使えない奴を必要としてくれる場所なんて無に等しい。
人間に擬態して、人間に紛れて生きる化物。
そんなイレギュラーが『当たり前』に生きるのは、どうしようもなく難しい。
「はぁーあ……どぉーすっかなぁ」
のそのそと、フェグルスは建付けの悪いガラス戸を開けて、ベランダに出る。
快晴の空になど目もくれず、ボロい手すりに寄り掛かり、深呼吸―――と思わせてただのため息。
はああああああああああぁぁ~……と、重たい鉛のような声を絞り出す。
「……なるようにしか、なんねえよなぁ」
独り言。あるいは自己暗示。そうやって自分に言い聞かせでもしなければやっていけない。
背伸びをして、空を仰ぐ。
目蓋越しに、白く輝く太陽の熱を感じる。
……なるほど。今日も俺は、しっかり生きているらしい。
生きているのなら、生きる者としての義務を果たさねば。
まずは気持ちを切り替えて、仕事探しの覚悟を決める。
フェグルスは目を閉じながら、暖かい日差しを浴び、気持ちを切り替えるため、電線にとまる小鳥のさえずりを静かに聴き―――
「あぶなぁぁあああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああい!!!!!!」
―――さえずりが、耳の中で爆発したのかと思った。
「は?」
唐突に鳴り響いたその絶叫に、フェグルスは思わず両目をかっ開いていた。
そして、己の頭上に迫って来た『ソレ』を見た。
疑問を感じたのは一瞬。しかし理解はできなかった。
視界に飛び込んで来た『ソレ』があまりに意味不明過ぎて、頭の方が理解を拒んでいた。
だって、普通はあり得ない。
空から『女の子』が降って来た、なんて。
「……はあ!?」
慌てたような少女の顔が、視界いっぱいに飛び込んで来た。
で、次の瞬間。
「ぼっ!!!???」
「だあ!!!???」
ゴイィぃぃぃん……!! と、二人の頭がとんでもない勢いでぶつかった。
あまりの衝撃に、世界が回った。天が落ちて地が舞い上がり、目に見える森羅万象が真っ逆さまに反転した。―――そう錯覚した。
実際は、フェグルスと少女の体が、揉みくちゃになりながら部屋の中を転げ回っていただけだった。
「ぬぁぁあああああああああああああ―――がっ!?」
フェグルスの体は反対側の壁まで一直線に転がっていき、思いっ切り壁に高等部をぶつけた事でようやく止まる。
ほんの一瞬、しん……と静まり返る室内。
が、直後に「いっっっ!」―――本物の激痛が襲い掛かって来た。
「……ってええええええええええええええええぇぇぇぇぇ!! っくぅぅぅぅああああ……なんっ……! 何なんだチクショウ……!!」
とんでもない痛みにもだえるフェグルスは、額と後頭部を押さえながらヨレヨレと力なく起き上がろうとする。だが……、
「お、ぁ……」
フラつく体。もつれる足。未だに視界がグルグル回っていて、普通に立つ事さえままならない。
壁を支えに立ち上がろうと思い、暗闇を探るような手付きで近くの壁を探す。
その時だった。
ムニュ、と。
己の掌が、やけに柔らかい何かに触れた。
「ひぁん!?」
「あ?」
壁とは思えない優しい感触が、掌いっぱいに伝わってくる。
そして……悲鳴? 分からない、何がなんだか。
未だに視界がグニャグニャ回っているフェグルスは、掌の感触だけで『それ』の正体を確かめようとする。
なんだこれ? 俺ん家にこんなもんあったっけ? ……そんな感じで、フェグルスは二、三度手に力を込めてみる。
もみもみ。もにゅもにゅ。
「ひ、ぁぁ……」
揉めば揉むほどか細い声が聞こえて来て、いよいよ分からなくなる。
いっそ力いっぱい握ってやろうかと思った……まさにその時。
「ひぁぁあああああ―――――――――っ!!」
耳元で大きな悲鳴が炸裂した。
直後、ドンッ!! と誰かに強く突き飛ばされるような衝撃に襲われ―――
……誰か?
疑問は一瞬。
突き飛ばされた勢いで、フェグルスは再び後頭部を思い切り床に叩き付けた。その衝撃で完全に五感が覚醒、ガバッと急いで上半身を起き上がらせる。
目の前に、ペタリとへたり込む少女がいた。
綺麗な金色に輝く瞳と、肩まで伸びた瞳と同じ色の髪。
艶やかな頬。朱色に染まる唇。純白のブラウスとミニスカートを身に纏い、より鮮明になる作り物めいた美貌。そして全体的に小柄な体躯。
そんな少女が、だ。
顔を真っ赤に染めて、両腕で胸を覆い、プルプル震えながら鋭い視線でこちらを睨み……胸……?
「お」
いつもは何かと鈍感なクセに、こんな時に限ってフェグルスの脳内はハイスピードでフル回転していた。
そして、
「……ぉおおう!?」
理解した。自分が先程まで何に触れていたのかを。
さらにもう一つ理解した。自分は今、最大の窮地に立たされている事を。
全身から一気に血の気が引いていくのを感じるが、もう遅かった。
「ひ、き……き」
耳まで真っ赤に染めた少女の口からは、今にも「きゃー!」が飛び出そうとしていた。
「……ち、違う! 待ってくれ! 落ち着いてくれ! 悪かった、謝る! だからまずは俺の話を」
とにかく誤解を解かなければ! ……慌てて少女を落ち着かせようとするフェグルスだったが、しかし次に聞こえて来たのは、全く予想外の言葉。
「き、さ、まああぁぁぁぁぁ……」
少女はゆらりと立ち上がる。
次の瞬間だった。
ビュバッ!! と、少女は目にもとまらぬ速度で挙動を繰り出した。
刹那、空気を貫く短い音。
尻餅をついたフェグルスの顔のすぐ横を『何か』が掠め、背後の壁にズドッ!! と突き刺さった。
「……え」
体が凍てつく感覚を、確かに覚えた。
見れば少女の顔は恥辱の赤から興奮の赤に変わり、そして彼女の瞳に宿っていたのは……溢れんばかりの『殺気』。
「ま、魔法使い如きが……よ、よくもあたしに、ここここっ、こんな、恥を、かかっ、かかせて、くれたわね……」
一人ぶつぶつ呟く少女は、壁に刺さった『ソレ』を引き抜いて、もう一度しっかり構え直す。
戸惑うフェグルスの視界に飛び込んで来る、『ソレ』。
少女の手に握られている、全長は七〇センチ程度の、薄くギラリと怪しい光を放つ刃をもった、殺傷能力抜群の『ソレ』。
世間一般では、『日本刀』と呼ばれるソレ。
「……………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………」
なぜだ。どういう事だ。何が起きた。なぜこうなった。
眼前に殺意満々で日本刀を構える少女がいる。空から降って来たという、訳分からん設定付きの。
一体何なんだこの状況は。
何がどうなって、誰がどういう……。
「……は、あはははははは! そうか! おそらく俺はまだ夢の中にいるんだな! 二度寝をしたんだ多分! なるほど、納得!」
「ふんぬっ!」
壁から日本刀を引き抜いた少女は、再び突!
フェグルスが顔を左に傾けた直後、さっきまで顔のあった位置を刃が勢い良く貫いて、またもや後ろの壁にドズッ!! と突き刺さる。
―――断じて、夢などではなかった。
無理やり現実へと引っ張り出されたフェグルスは、もう何がなんだか分からなくなっていた。色んな疑問が一瞬にして脳裏を過る。
この少女は何者だ。どうして空から降って来たんだ。なんで日本刀なんか持ってるんだ。というかなぜ俺は襲われてるんだ!? ……あ、胸を揉んでしまったからだった!
ついに混乱が頂点に達し、フェグルスは自分でもよく分からないまま口を開き、
「ごっ、ごごごごご誤解だ! 触ってない! いやごめん触った! 俺が悪かった! でもほら、あまり大きくないから興奮するとかはないし、」
「死ね!!!!!!」
必死の弁明はただのセクハラになっていた。
殺意の刃が、胸揉み変態野郎を目がけて振るわれる。
咄嗟にフェグルスは頭を下げて、転がるように少女から離れた。フェグルスの頭上数センチを刃が引き裂く。
「ちっ!」
舌打ちと共に彼女は再び日本刀を構え直すと、今にも泣き出しそうなほど顔を火照らせたまま逃げたフェグルスを睨み、刃先を向けて、
「何よ! 何なのよ! どうなってんのよこの街は!? 魔法使いに追われて殺されかけて必死に逃げて落ちてみれば! こんな貧乏ヅラの男に……む、胸を揉まれるわ!」
「それは本当にごめんって!」
「大きくないとか馬鹿にされるわ!」
「ひ、比較的慎ましい方が、むしろ世間的には好感度かと思われ―――」
「やっぱり死ねクソ野郎ぉぉぉぉおおお――――――っ!!」
なんという身軽さ。小柄な少女は力いっぱい床を蹴り、飛び跳ねるようにフェグルスに斬りかかって来た。まさに鬼神の如く日本刀を縦に横に振るいまくり、床も壁も天上も容赦なく引き裂いていく。
しかし、フェグルスも負けず劣らずの瞬発力。右へ左へ上へ下へ、とにかく無我夢中で逃げ回り、少女の猛攻を紙一重でかわし続ける。
「おう! おう!? おうおうおうおうおうおうおうおう!?」
オットセイの鳴き声ではない。フェグルスの悲鳴である。
その馬鹿っぽい声にイラついたのか、
「っちぃ! ちょこまかと―――」
少女はギラリと瞳を光らせ、
「―――逃げるんじゃ、」
偶然目についたちゃぶ台に刀を突き刺し、
「なああああああああああああああああああああああああああああい!!」
それを力いっぱい振り抜いた。
見事、刀から抜けたちゃぶ台はフェグルスの後頭部にクリーンヒット。少年の体はその衝撃に耐え切れず、顔面から床にぶっ刺さって行く。
「ぼっ、ぶぉあああああああ!? っだあああああああ!!」
後頭部と顔面を手で押さえながら、フェグルスは立ち上がって少女と相対する。
彼女は刀をしっかり両手で握り、小柄な体をプルプルと震わせていた。
「あ、あんたもっ、あたしを殺そうってわけ……!?」
「なんっ……ころ!?」
「どうせこんな風に恥をかかせるだけかかせて、辱めるだけ辱めて、その薄汚いクソみたいな欲求をあたしで発散させてから殺すつもりなんでしょ!!」
「待ってくれ! 話が見え」
「えぇ上等じゃないのよやってやらあ!! 捕食者がどっちかってのを教えてやるわ魔法使いども!! そのブサイクヅラ、木端微塵に斬り刻んでくれるわあ!!」
可愛らしい容姿からは想像もできないほどの罵詈雑言を浴びせられ、フェグルスは「え、俺そんなにブサイク?」……ショックで何も言い返せなくなる。
「さて、もう死ぬ準備はできたかしら。できてなくても殺すけど」
「だから待ってくれ! 少し誤解を」
「どあぁれぇええ!!!!!!」
謎の雄叫びと共に日本刀を構える少女。多分「黙れ」と言ったのだろう。
そのあまりの気迫に、フェグルスは思わず尻餅をついて後ずさる。
「殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺すっ……殺してやる! あんたら魔法使い全員っ、粉々に切り刻んで殺してやらぁぁあああ!!」
「待て! だから! ホントに―――」
ヤバい! 殺られる! ……咄嗟に逃げようとしたフェグルスだったが、しかし体が持ち上がらない。少女の殺意にすっかり腰が抜けてしまったのだ。
壁に背中をつき、逃げる力も出せず、フェグルスは突っ込んでくる少女を見る。
そして凶悪に光り輝く日本刀の切先が。
そのまま、フェグルスの顔面目掛けて―――
「かっ、くっ、ごおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおお!!」
「うわああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ!?」
思わず目を閉じ、両手で顔を覆い、腹の底から全力で叫んだ。
そして、直撃―――――――――
誤解を解く事も、命乞いもさせてもらえず、哀れなフェグルスは顔面ど真ん中に日本刀を喰らい、無事昇天。その魂は死んだ肉体を捨ててあの世に直行便。そして彼が暗黒大魔王としてこの世に君臨するのは、今から千年も後の事であった。
……なんて、そんな展開にはならなかった。
というか、そもそも彼の顔に日本刀は突き刺さらなかった。
むしろそれ以前の問題。
「……ん……?」
なかなかやって来ない斬撃に、疑問を抱いた。
閉じた瞼をゆっくり開ける。
瞬間、顔面の数ミリ手前まで迫っていた刃が眼前に現れた事に驚愕し、
「ひいいいぃぃぃ!?」
情けなく叫んで震え上がるフェグルス。
しかし異変にはすぐに気付いた。
ゆらゆら……と、少女の体が静かに揺れていたのだ。
次第にその揺れの幅が大きくなり、激しさを増して、足元も覚束ず、握力を失った両手から滑り落ちた日本刀がダスッ! と床に突き刺さり。
そして、ついに。
「……ぅ……」
―――強制終了。
どさ、と少女は崩れるようにぶっ倒れた。真横に。受け身も取らず。
横倒しになった少女はそのまま沈黙。一言も口を利かなくなり、部屋には静寂だけが満たされていく。
……フェグルスは、突然過ぎる出来事の連続に一切ついていけず、ただその場にへたり込んだままだった。
「……お、おい。……大丈夫か……?」
ようやく正気を取り戻し、倒れた少女に声を掛けてみる。
自分を殺しかけた相手を心配するのも変な話だが、なにせ森を出てからというもの、倒れていたり、血を流していたり、泣いていたりする奴とばかり出会ってきた一〇年間だった。
倒れた少女を見てしまったら、思わず声を掛けずにはいられなかった。
だが、声を掛けられた少女の方は……。
「…………」
反応はなかった。彼女は床に倒れたままピクリとも動かない。
体でも揺すってみようかと思い、倒れた少女に近寄ったフェグルスは、
「は?」
その時、ポロリとそんな声を漏らしていた。
とんでもない事に気が付いたのだ。
「なんだこ……え?」
どうして今まで気付かなかったのか―――パニック状態で、細かいところまで目がいかなかったのか。それとも単なるフェグルスの注意力不足のせいなのか。
確かな事は分からない。ただ、目にした光景はどうしようもない事実。
少女の体は、恐ろしいほど傷だらけだった。
もちろん、日常生活を送っていれば傷などつきものだ。
しかしこれは一目で「違う」と分かる。彼女の体に刻まれた傷は、明らかにそんな優しいものではなかった。
腕にも足にも、それこそ無数に、何かで切ったような……いや、刃物か何かで人為的に傷つけられたような傷跡が大量に残っていた。
それもまだ全て、血の滲んだ新しい傷。
「……はあ!? なんっ」
何なんだ、と声を上げようとしたその瞬間、不意にフェグルスは思い出す。
……そういえばこの少女、刀を振り回しながら何か言ってなかったか?
『何よ! 何なのよ! どうなってんのよこの街は!? 魔法使いに追われて殺されかけて必死に逃げて落ちてみれば! こんな貧乏ヅラの男に……む、胸を揉まれるわ!』
『あ、あんたもっ、あたしを殺そうってわけ……!?』
『どうせこんな風に恥をかかせるだけかかせて、辱めるだけ辱めて、その薄汚いクソみたいな欲求をあたしで発散させてから殺すつもりなんでしょ!!』
魔法使いに追われて殺されかけて必死に逃げて落ちてみれば……?
殺そうって……?
……殺す? 『殺す』だと?
「……待て、待て待て待て」
それって、つまり―――――いや、つまりというか何というか。
……いるのか?
この夥しいほどの傷を付けた誰かが。この少女を『追っている』誰かが。
この少女を、『殺そうとした』誰かが。
「だっ、誰が、こんな……!」
混乱が、今まで以上に跳ね上がる。
「おいっ、おい起きろって!」
慌てて、ピクリとも動かなくなったミニマムサイズの体を揺する。
しかし返事は無い。
ただの屍……になっていては困るのだ、本当に。
「嘘だろ……! おい! 目ぇ覚ませ! 返事をしてくれ! 頼む!」
だが。
そんな心配を打ち砕くほど、返事はすぐに返ってきた。
ぐううううううううううぅぅぅぅ~、なんて。
そんな間の抜けた返事が。
少女のお腹から。
「…………」
これにはさすがに、フェグルスも言葉を失った。
少女は今にも消えそうな浮つく声で、端的に告げる。
はらがへった、と。
「……おう……?」
というか、そもそもの話。
自分の体は日本刀程度じゃ傷すら付かない事実をフェグルスが思い出したのは、少女が倒れてから数分後の事であった。




