8 次兄のお掃除
ドナテルは、ブリジットとシャルロットの顔を交互に見て、即座に動き出した。クラス内に設置してあるゴミ箱を持ってきて、床に膝をついた。その姿に悲鳴が上がる。確かに普通の公爵子息なら膝をついてゴミ拾いなどやらない。
だが、ドナテルは、そういう時に身分などは気にしないのだ。必要だと思うことは、公爵子息だろうと、やる。
花畑の花たちをどんどんとゴミ箱へ入れていった。
ブリジットの机の中のものまでキレイにゴミ箱へ入れると、『パンパン』と膝をはたいて、手をはたく。
「はい!リジー、片付いたよ。でも、いつもこれでは、勉強にならないね。明日からは、朝一番に学園のメイドに掃除をしてもらおう。だから、もう心配いらないよ」
ドナテルは、目はブリジットに向けて笑顔のまま、わざと廊下にまで聞こえるように言った。
「あ、そうそう、リジーに伝えるのを忘れていたよ。実は僕は心に決めた女性がいてね、君もきっと気に入ってくれる女性だよ」
ドナテルは、『リジー』と言いながら、視線はシャルロットに向けられていた。シャルロットが頬を染めて俯く。俯いてはいても、口角は少しだけあがり目は優しげで、喜んでいることは、一目瞭然であった。
「そうでしたの。では、週末にでも、お父様にご相談してくださいませね。わたくしが気にいるというその女性を泣かせることでもあったら、許しませんわよ」
ブリジットは、腕を前で組み、仁王立ちのままだが、口調は、穏やかだ。だから余計に怖い。キャリアンナの後ろでみていたコリークライドとその仲間たちはブルッと震えていた。
「ああ、そうしよう。では、またね」
ドナテルは、笑顔のままで、ゴミ箱を指定の位置へ戻して教室を出ていった。帰りは黄色い声はかからなかった。
こうして、まだ何も決まっていないのに、学園内では、公爵子息と王女の恋は暗黙の了解となり、ブリジットの机の中がブリジット以外の者のために使われることはなくなった。
ドナテルが夏休みに動いていたことも、ブリジットとシャルロットの知るところとなった。
ドナテルとシャルロットの正式な婚約は、イリサスとアナファルトのこともあったので、この半年後の春まで待つことになったのだが、学園内では公認の仲なので、ブリジットが気を揉むようなことは、起きなかった。
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ブリジットが水彩画を習うようになってから、すでに数カ月。ブリジットも筆使いや色の選び方に違いがわかってきた。
「ねぇ、マリーナ、リンゴは赤ではないのよ」
「光って不思議ね。どうやって色を作っているのかしら?」
自分でリンゴの絵を描くほど、見本の『リンゴの絵』の色の捉え方に感心する。それを参考にすべての物をみるようになると、今までとは違う輝きがブリジットを取り巻いた。
何かに気がつくたびにブリジットは嬉しくなった。
「色を知るってステキね。この『リンゴの絵』は、わたくしをどこまで連れて行ってくれるのかしら」
ブリジットは、いつも見ているはずの『リンゴの絵』にも関わらず、いつも何か発見する。それをとても楽しんでいた。
ブリジットも、年が明ける前には、自分なりの『リンゴの絵』を描けた。
「ふむ、背景も暖かくてとても穏やかな気持ちにさせる絵だね」
「先生に褒められるのは恥ずかしいですわ」
「ハハハ。ねえ、リジー、この絵をいただきたいのだけれど、どうだろうか?」
「え?こんな絵でよろしいのですか?」
「僕の友人がね、どうしてもと言うんだよ。その友人は、この絵の作者でね」
ガタリッチ侯爵が指したのは、ブリジットが参考にしていた『リンゴの絵』であった。
「まあ、こんなにお上手なのに、変わった方ですのね、ふふふ。でも、この方だと聞いてしまっては、お断りできませんわね。笑わないでくださいね、とお伝えください」
「こんなに優しさに溢れる絵を見て、笑うものなどいないよ」
ガタリッチ侯爵の視線には愛情が籠もっていた。ブリジットは、その視線を美術への深い愛情だと思った。もちろん、それも嘘ではないだろう。しかし、もっと深い、父性溢れる愛であることには、ブリジットは気が付かなかった。
「次回までに、新しい題材を決めておくよ。年が明けたら、また来るといい」
「はい、先生」
「ハハハ、君にとっては、僕よりこの作者の方が身近な先生であるような気もするがね」
二人は目を合わせて笑い合った。
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そして、今日、新しい題材として、スズランの花を描くことになり、そのお手本として、また、一枚の絵を手渡された。これも、ガタリッチ侯爵は、くれるというのだ。
「リンゴの絵のお礼だと思ってくれ。僕の友人は、君の絵をとっても喜んでいてね、この絵を僕に送ってきたんだよ」
ブリジットはそれならばと『スズランの絵』を受け取った。
ブリジットは、公爵邸に戻り、部屋へ入ると、鍵のしていない机から『リンゴの絵』を出した。そして、大事に飾ってある『空と草原の絵』とそれを交互に見比べる。また、『スズランの花の絵』とそれらを見比べる。
それを何度も繰り返すブリジットの様子を見たマリーナが、後ろから声をかけた。
「ブリジットお嬢様、気が付きになりましたか?」
マリーナが穏やかな笑顔で後ろから声をかけた。
「やっぱり、そうなの?」
ブリジットは、振り向かず、3枚の絵を見たまま返事をした。
「わたくしも専門家ではございませんので、絶対とは申し上げられませんが…」
それでもマリーナは、自信のありそうな口調であった。
「マリーナ、こちらの絵も、飾ってくださる?それと、もう一枚も……」
ブリジットは、机に視線を向けた。
「畏まりました」
「こちらはこれからわたくしのお手本になる絵なので、手元に置くわ」
ブリジットは、『スズランの花の絵』を持ちあげて見つめた。マリーナは、小さく頭を下げて、早速額を取りに行った。
「ガタリッチ侯爵様はどこまでご存知でいらっしゃるのかしら?」
ブリジットは、机へ向かう。
「ふぅ」
小さなため息をひとつして、机の引き出しの鍵を開けた。ゆっくりと引き出しを開ければ、2羽の鳥が現れる。一本の枝の上で、互いを見つめ合っている。
「あなたの目には今、何が映っているのかしら?スズランの花言葉をご存知なの?イヴァンシフ様………」
ブリジットの消え入りそうな自信のない声は、誰にも届かない。
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花は、リンゴより個々の違いが大きく、それでいて切り花は、命も短いので、ブリジットは苦戦していた。この切り花は、南の領地から届くものだとガタリッチ侯爵は言っていた。
ブリジットには、週に一度では描ききれない。実物がなくても描けるほど上達はしていない。
春休みになる頃には、王都でも鉢植えのスズランを見かけるようになった。
「今日から春休みですの。しばらく毎日伺いたいのですけど、よろしいかしら?」
ブリジットは、ガタリッチ侯爵にお伺いをたてる。
「もちろんさ。リジーなら、いつでも待っているよ。それにしても頑張るね」
「だって、スズランなのですもの。これを描けたら、本当に花言葉通りになってくれそうな気がしますの」
ガタリッチ侯爵は、それはそれは愛しそうな表情でブリジットを見た。ブリジットは、スズランを観察していて、その視線には気が付かなかった。
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春休みが終わる前日、ブリジットが納得する絵が完成した。
「ほぉ、可愛らしいスズランだね」
「ふふふ、本当にわたくしに幸せを運んできてくれそうな気がしてきましたわ」
ブリジットとガタリッチ侯爵の前には、2枚のスズランの絵が並んでいた。
「うん、見ているだけで、僕まで幸せになりそうだ」
「まあ!ふふふ」
「あ、そうだ、リジー、君にお願いがあってね」
ブリジットはガタリッチ侯爵の方と向き合った。
「僕は結婚していないだろう。だから、僕の祖父の妹の孫にあたる遠縁の男の子を養子にすることになったんだ。その手続きが漸くと済んでね」
「まあ、そうでしたの」
「他国からの養子縁組だから、思ったより時間がかかったよ」
「でも、侯爵様もご安心になりますわね」
「ハハハ、そうだね。それで、その子は、明後日から学園に編入するのだけど、学園長にお願いをして、君の隣の席にしてもらったから、悪いけど相手をしてやってくれないか?」
ガタリッチ侯爵は、『悪いけど』などと言いながら、隣の席まで用意しているという。まあ、ブリジットに特に異論はないのだが。
他国からの編入でAクラスになるとは、かなり優秀なのだろう。
「本当は今日紹介したかったのだけど、到着が夕方になってしまいそうでね」
「ガタリッチ侯爵様のお名前で編入なさるのでしょう?それでしたら、お間違えもいたしませんでしょうし、大丈夫ですわ」
「そうか、では、よろしく頼む」
ガタリッチ侯爵はキチンと頭を下げた。
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翌日、ブリジットもドナテルとともに学園の寮へと戻った。ドナテルは、着くなり入学式の準備だと、駆けていった。この春休みに、シャルロットと正式な婚約をしたので、張り切っているのだ。
「王女に降嫁していただくのに、相応しい男になりなさい」
父親シャーワント公爵からの言葉は、ドナテルにとって、何より重く、何より奮い立たせる。
ブリジットは、立ち去るドナテルの背中に手を振り、ドナテルが見えなくなると後ろを向き、女子寮へと足を向け、歩き出す。
そこへ、背の高い男性が現れた。笑顔でブリジットを見つめていた。
「リズ、やっと会えた。貴女の側にいる権利は、まだ他の者に与えられていないだろうか?」
ブリジットは、手に持っていたバッグを落とした。バッグにつけられた青い組紐が揺れた。
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