17.迷うべくもない選択
それから数日。
一夜が明け、朝が来る。
朝8時過ぎ。出窓からふんわりとした光が広がる。コゼットの部屋のカーテンをタッセルで纏め、窓を開けて朝の陽気を一杯に吸い込む。いつもの朝のルーティン。起きてから階段を降りて、顔を洗って、コゼットの部屋の窓を開けて朝日を浴びる。
窓の外では小鳥が互いをつつき合いながら遊んでいる。今日はいよいよ大総統の凱旋が始まる日だ。空もその日を待ち望んでいたかのように、雲一つない快晴を称えている。凱旋が始まるのはまだ先だと言うのに、遠目に紙吹雪がちらちらと舞っているのが見えた。
「おはようコゼット。具合はどう?」
コゼットの真っ白な髪は光を反射してシルクのように煌く。今日はベッドに蹲ったままで、声をかけても上体を起こさない。
「…やっと、朝」
こちらに背を向けたまま、溜息と同時に紡がれる声。声色から分かるが、今日は具合が良くないらしい。
「横になっておく?朝ご飯持ってくるけど」
身体をベッドの中でゆっくりとくねらせて私の方を見た。まぶたの隙間から垣間見える紅い瞳。窶れた表情。目の下には僅かにクマが見える。
きっと昨夜も眠れなかったのだろう。布団からキッチンを指さしながら言う。
「…昨日、留守の間に、ロハネさんと一緒にケーキを焼いたんです。彼と二人で…朝食に」
細く、震える腕の袖からは黒い染みのような痣が浮かんでいた。現れては消える原因不明の痣が、またコゼットの体を蝕んでいる。アラムは目を細めた。
昨夜、アラムが帰った頃には既にコゼットは床についていてリビングにいなかった。だけど明かりのついたキッチンからは香ばしくて甘いバターの香りが漂っていて、冷めた竈を開けるとふわふわのシフォンケーキが入っていた。リビングにいたロハネに問うとコゼットが作ったのだと言う。
そういえば昨日、本部に行くとは伝えたけど帰宅がいつになるかは言ってなかった。その間に軽食にと焼いてくれたのだろう。結局帰宅は深夜になったので食べずに寝てしまったのだが。
アラムはコゼットの頬にくっ付いた髪を払いながら頬を撫でた。
「ありがとう。お粥作ってくるね。待ってて」
コゼットが僅かに頷いた所で、アラムは部屋を後にした。
アラムは2階にある自分の部屋で寝ているが、コゼットの寝室はリビングと隣接している。日中はよく出入りする為、部屋の扉は夜以外開けっ放しにしている。
リビングのソファにはロハネが座っていた。来客用のベッドがないので、彼にはここに来てからソファで夜を明かしてもらっている。初日に寝床をどうするか迷っていると「ここがいい」とソファにどっかり腰を下ろす程のお気に入りらしい。昨夜と全く変わらない姿勢。足を投げ出した状態で組み、片側に寄って肘をついたままこちらを見ている。とてもえらそうだ。
私がコゼットの部屋に行く時もロハネの前を通ったが、その時も目で追いかけてきただけだった。朝の挨拶をしたら、ちゃんと同じ挨拶が返ってきた程度。何か言いたいことがあって目で追っている訳ではなさそうだ。
「それ、いつも付けてるね」
ロハネから向けられる無言の視線に耐えかねて、私は自分の目を指差す。示したのはあのアイウェアだ。ダリィに殴られたりマークに貸した時に外している所は何度か見たが、室内、屋外問わず出会った時から殆ど自発的には外さない。ロハネは少し意外そうに目を丸めた後、普通にアイウェアを外した。掛け続ける理由がある、というわけでもなかったらしい。その奥にある色は彼の持っているカタナの刃渡と同じだと思った。瞳は宝石のような翡翠の色。
大総統と同じ色。
「外すんだ」
「外れる」
いや別段、それが顔に張り付いていると思っていたわけではない。肩をすくめながらリビングを横切ってキッチンに向かった。ロハネは私の出てきた寝室の方をチラリと見てから言った。
「コゼットはどうした」
起きてこないのを不審に思ったのだろう。上体を起こしてアイウェアをソファ前のテーブルに置きながら言う。彼からコゼットを気遣う言葉が出るとは思わなかった。名前を覚えていてくれて少し嬉しい気がする。
「今日はちょっと調子が悪いみたい」
鍋に昨夜の炊いた小麦と牛乳を入れ、魔石の熱にかけている間に桃を刻む。
「何故」
問い掛けが返ってくるのに少し間があった。
「コゼットはいつも悪い夢に魘されて寝不足なの」
「夢」
「そう。ずっとよ。ああなってからほぼ毎日ダスクに殺される夢を見ているって」
「ああ、とは」
「髪も肌も白くなって、目からも色が抜けて血の色になってからってこと。全身は傷むそうだし、肌も敏感になって日の下に長時間出たがらない。体が弱っているから下手に薬は試せないし、不規則に現れる痣が外傷由来ではない事以外分からない」
コゼットの悪夢は、身体から色が抜け落ちた日を境に始まったと聞いた。それは単なる悪夢なのに現実の痛みが痣となって伴うのだという。酷い日は真夜中に飛び起きて発狂する日も少なくない。疲れ果てて記憶が朧げで夢を見たのかすら覚えていない朝もあるけど、それでも漠然とした不安と全身の痛みが残り続けるらしい。日中は気丈に振る舞ってこそいるが、身体は日に日に窶れ、今では外も出歩く事すら恐ろしいと。
今日のように立ち上がれないほど精神が参ってしまう朝も珍しくはない。
「アルビノの後天的発生など有り得ない」
「だけど事実コゼットはあの通りよ。可笑しな話でしょう。今じゃまるでずっと咲き続けるナイトクイーンのようだと思わない?」
皮肉を込めて鼻で笑う。私は刻んだ桃を鍋に入れてからキッチンを出て、リビングの棚の上に飾ってある写真をロハネに渡した。
「彼女、数年前まで黒髪だったのよ」
ロハネは写真に目を落とす。修道服を纏い、和かな笑顔を浮かべる黒髪の女性。その傍らで顔の半分ほどを握り締めた本で隠し、こちらを睨み付ける少女の姿が写っている。これはコゼットとアラムが、孤児院のドア前で撮影した写真。
「…何故」
ロハネは写真を見ながら独り言のように呟く。聞こえないフリをしてキッチンに戻った。私だってその答えを探し続けている。何故コゼットがこんな前例すらない奇病に掛からなければならないのだ。理不尽に苛立ちすら覚える。
コゼット自身も病は自分の天命なのだと受け入れてしまっている。その不幸すら嘆くことなく。
だけど一度。たった一度。
私は彼女が深夜に「どうして私だけがこんな目に」と泣き崩れた日がある事を忘れていない。忘れられない。
私の父なら…カリアなら何か分かるだろうか。時折そんな取り留めのないことを考える。だけどその面影を思い出す度にあんな奴に頼ろうとする自分に嫌気と怒りが噴き出しそうになる。
背中にロハネの視線を感じる。
「何を怒っている?」
振り返って顔を上げたところで目が合う。鮮やかな色の眼が私を見つめていた。
「…怒ってないよ。何も」
感情表現が拙い癖に、他人のものには変に聡い。アイアスと似てて若干キモい。そんな私の内心とは打って変わって、ロハネは手元の写真に再び視線を落としながら言葉を紡いだ。
「何故コゼットを病院に行かせない。不治の病なら尚更だ」
驚いた。病院の存在を知っているのか。
煮える麦の鍋底が焦げないよう、ゆっくりと混ぜる。無意識に唇を引き結んでしまう。ロハネにとっては当然の疑問ではある。だけど寸分の狂いもなく真っ直ぐ突き立てられた質問に、胸を射抜かれるような息苦しさを覚えた。
少し間を置いてから答える。
「アルタマイル…ひいてはこの世界には才能や魔術といった神秘が存在する。魔術は『していた』という方が正しいかな。それ故に医学や科学は発展せず、未だここが建国される前から存在する伝統のあるやり方と学説を守り続けている」
私は指を4本立てた。
「人間には粘液、血、黒胆、黄胆の4つの体液が存在し、不調や病は神の定めた体液の不均衡によって現れるものだとするのがこの国の医者の一般常識。コゼットを最初に診てもらった時、瀉血を勧められたわ。瀉血って分かる?」
掌を上に向け、腕を切り裂くジェスチャーをする。
「刃物で余計な血を出して体液の均衡を促すの。この説に言わせれば傷が膿むことすら『体液が均衡に戻ろうとする働き』なんだって。だから傷口にわざと腐った軟膏を塗って膿ませることもあるの。信じられる?そんな馬鹿げた方法じゃコゼットは絶対に治らない。だから私の家で診ているの」
ロハネは相槌もなく聞いていた。その目は最初からずっと観察するかのように私の表情をよく見ている。感情で上ずりそうになる声を抑えながら続けた。
「私の父はアルタマイルの医術を否定する異端の医師だった。医療に神は存在しないと父はよく言っていた。人は『分からない』を科学で追及せず、神秘によって納得して思考をやめてしまう。だけど人の内側に神秘は存在しない。本当の医学を知れば、人の体はよくできている反面、脆くて弱い相反する二面性の存在に突き当たると。皆して父を指さしながら言うの。アイツは自分の才能に酔っているだけのおかしな医者だと。…まぁ確かにすぐご遺体を暴こうとする野蛮な奴ではあったけど、少なくとも私は父の医療が人を死なせてしまう所を見たことがなかった。そのやり方に倣う私も、今やすっかり軍医の中では異端」
「…………」
「未来から来たなら知ってる?結局医療は何が正しいのか。今のアルタマイルのやり方と私のやり方。あなたの荒野に『正しい医療』は存在した?」
ロハネの視線が伏せる。少し感情的に彼を困らせる質問をしている自覚はあった。本当に正しい返答など期待していないというのに。
彼は首を横に振った。立ち上がったかと思えば、持っていた写真をもとの場所に戻し、私に背を向けながら言う。
「私には何が正しいかは分からない」
予想してた返事だ。あんな未来で医術を含む技術や知恵が活きてる筈がない。ましてやロハネは治療を必要とする人間ですらない。
「お前の言葉節からは嫌悪を感じる。だが彼等が信じるやり方を馬鹿げた方法と否定したり、見下してはならない。それは石を投げられて石を投げ返しているのと同じだ」
「…………」
ロハネは振り返る。美しい色をした瞳が真っ直ぐに私を見つめる。
「人と違う意見を持つのは恥でも異端でもないと考える。少なくとも私は、お前に助けられた一人だ。アラム」
そうだ。意見云々以前に彼はずっと荒野の中で1人だった。衝突するほど密接に他者と関わることがなかったのだろうと思う。その大らかさが私には少し羨ましい。
思い出す。よくマークも似たようなことを言ってくれている。私が診た患者は、私のやり方が今のアルタマイルにそぐわない方法だとしても、その多くが命を救ったことに感謝してくれていた。
これまで助けて来た人も。マークも、アグナスも。患者の存在に心を救われてきたのは私の方だ。
「…あなたには何もしてないわよ。自分で治したじゃない」
「不要。私は人間ではない故」
簡潔に告げると、彼はこちらに歩いてきた。
「昨日のケーキを食べたい」
そんな事を言いながらキッチンにズンズン入ってくる。人間ではないと言い放った次の言葉がソレか。
「待って待って切り分けるから」
「私がやる。どこにある」
「保冷庫よ。竈に入れっぱなしだと痛むから」
キッチンにある保冷庫。常に冷気を失わない氷石という魔石が原材料の、食料を保存するための家具。
彼は扉を開けて中のケーキと4分の1ほどに減ったメロンとサワーチェリーを取り出した。
「これも食べたい」
あんまりにもスイスイ用意するものだから、昨日一緒に作っていた時から相当楽しみにしていたんだろうなと思う。
食事の楽しさを知ってからというものの、ロハネはすっかり食べる事に積極的になった。今やこんな風に自分から準備をする始末だ。
「はいはい、2人分切ってくれる?」と指示を出しながら、お粥の面倒を見つつ紅茶の準備をする。
ロハネは他にも保冷庫から牛乳…ではなく生乳を取り出す。何をしようとしているのか分からず黙ってみていたが、スプーンで上澄みを掬おうとしているのを見てケーキに添える生クリームを作りたがっているのは分かった。…まさか朝からそんな凝ったケーキにしようとしているとは考えもしなかったが。そもそも何故牛乳と生乳を分かっているのだ。コゼットの入れ知恵か?
ケーキとフルーツを切り分ける際はナイフを使わず自分のカタナを抜刀し始めたため、流石に止める羽目になった。
コゼットに蜂蜜で味を整えた麦のミルク粥を持っていく時、彼女の口にお粥を運ぼうとしたが、自分で食べるから朝食を食べておいでと断られてしまった。私達はリビングで(ロハネが勝手に豪華にした)朝食を済ませる。コゼットのシフォンケーキは程良く身体に染みる甘さで雲のようにふわふわだった。ロハネもかなりご満悦な様子で、食後の紅茶も香りを楽しんでいる。だが視線はずっとお皿に残ったクリームを見ていた。
「舐めたらダメだよ」
「何故」
「行儀が悪い」
見透かしたように注意してみたが、当たっていたらしい。皿を持って残念そうにするな。
ロハネは食事に積極的な割には量を食べない。彼が自分に切り分けたケーキは私のものより少なかった。食事が好きとはいえ、それが実際、必要なものかといえばそうではない事を自覚しているのだろう。彼にとって食事は100%の娯楽だ。
時計を見るとまだ9時。大総統の凱旋が始まる11時までまだ時間がある。流石にあの様子ではコゼットはまた留守番になる。体の調子が良かったとして、彼女は外に出たがらない。
私は軍に所属している身ではあるが、本部に行っても他の軍医から仕事を振られる事は殆どない。医務室を纏める立場にある人も、当然他の軍医も、私を『居ても居ない者』として扱っている。理由はまぁ自覚している通りだ。私もそんな立場を利用して好きにやっている。軍が私の席を除こうとしないのは、父の前例を目の当たりにした大総統を含む上層が父や私のやり方を受け入れたがっているからという事もあるだろう。
遠い昔に魔具を廃棄した事もあり、大総統は神代の奇跡から逃れたがっている。父のやり方は、その奇跡に拠らない医術だった。だが、人が従来大切に受け継いできた方法と信仰を捨て、新たな技術を受け入れるのは容易ではない。心を救う医療と命を救う医療は全くの別物なのだ。大総統からしてみれば父は人類の進歩を押し上げる開拓者の一人だったのだろう。でなければわざわざ父がアルタマイルを去る時、大総統自らが現れたりしなかった筈だ。
今日の凱旋も私の行信する場所は設けられていると聞いているが、場所だけで役割も説明も何の共有もない。本来であれば医務室の上長から共有されるべき情報は、大体関係ない部隊にいるマークやアイアスその他部署が違う人を通して断片的に私へと共有される。ロハネに他のやり方を見下すなと言われてしまったが、それ抜きにしても同じ軍医に囲まれてまで参列したくないな、とぼんやり思う。
外に届いているであろう新聞を取りに行くか、ポータルラジオを聞き流そうか考えている間、卓上に置いていたリンクトークンが共鳴した。
画面を見てみるとマークからの着信だった。
「おはようマーク」
「おはようアラム。朝食は済ませたか」
「えぇ」
「早速で悪いがアイアス中佐を見ていないか?本部に姿がないんだ」
「…さぁ、最近会ってないけど」
「そうか…参ったな」
「何かあったの?」
「いや、何かあったという訳ではないんだが…3日前の夜にリディアが本部で見たのを最後に誰も姿を見ていないんだ。中佐の教会もずっと鍵がかかったままで」
リディアとはアイアスの直属の部下の一人だ。彼の部屋に入るとき、よくノックを忘れて怒られている奴。
私もアイアスと接触したのはダリィを引き渡したあの日が最後だ。それ以降は何の連絡もしていない。彼とは用向きかない時まで日常的に連絡を取っている訳ではないが、重度のお人よしに責任感の強いあの性格だ。無断で仕事を放棄する訳がない。しかもこんな時期に。アイアスの性格を嫌という程知っているからこそ嫌な予感が拭えなかった。手指が寒気で痺れていくのを感じる。
「この大事な日にまで居ないとは…」
トークン越しに独り言が聞こえる。マークも同じことを考えているのだろう。
ふと視界にロハネが入った。そうだ、彼ならダリィの時のように人の痕跡を容易に手繰れる。問題はアイアスが最後に目撃されているのが本部ということは、本部に彼を連れていく必要がある程度か。時間と人物がハッキリとしているならなんとかなるかもしれない。
「ちょっと待ってねマーク」
私はリンクトークンを胸に伏せてロハネに話しかけた。
「ねぇロハネ。今日は私と一緒に本部に来てくれる?アイアスの姿が何日も見えないらしいの。あなたの力を貸してくれないかな」
ロハネは突然の提案に驚いた様子で瞳を瞬かせている。眉間に皺を寄せ、俯いてから首を横に振った。
「拒否。私はこの時代でのアルバートの姿を見ておきたい。サイは帯刀しない。必要ならこの眼も置いていく」
彼は机の上にあるアイウェアを指さした。それはどう見ても武器ではないので持って行っても良いと思うが。
「奴を襲撃しないと約束する」
その願いに対し、言葉が詰まる。彼は軍部の人間ではない。私達は本部で極まれに大総統とすれ違う機会はあれど、大総統が街に赴き、民間人とゆっくり交流するのは殆どこの祭日だけだ。
だが、そのロハネをなるべく危険を排して本部に客人として招くことが出来るのも恐らく今日だけ。彼の顔を見ている可能性のある補佐官もオズバーンも、確実に外へ出て本部にいないからだ。
私の提案を通すべきか、ロハネの希望を受け入れるべきか。いや、頭ではどちらを取るべきか答えは出ている。ロハネの希望を通すべきだろう。だって彼はこの日をずっと待っていた。私の指示を聞き、従い、彼自身の使命を潜めて穏やかに待ち続けてくれた。大総統を殺してはならないとする私やアイアスの意見を、あんな荒野から来ておきながら尊重してくれたのだ。
だから彼に不義理は働けないと、ロハネが首を横に振った瞬間から心の中で答えを出していた。
「…分かった」
私は伏せたリンクトークンをもう一度耳に当てた。
「今日はロハネが凱旋に行きたがってる。今大総統を襲わないと約束もしてくれた。私が彼を一人に出来ない理由はマークも分かるでしょう。アイアスはこれが終わってから私も色んな人を当たってみる」
「あぁ。気に病まないでくれ。俺はただ、アラムが中佐の居場所を知ってるかもと思って連絡しただけなんだ。心配なのは俺も同じだが…もしかしたら今日にでもひょっこり帰ってくるかも…だと…いいな…はは…」
尻すぼみに言葉を濁してからマークは言う。最後はお前の希望だ。
「とにかく、今の事は一旦忘れてくれ。ミストオーナルもこの日の為に色々と物資をくれたそうだし、あっちの人もアルタマイルに沢山訪問している。昨日に露店を視察したが、すごかったぞ。ロハネに見せてやれば少しは考えを改めてくれるかもしれん」
それはどうだろう。
「俺も一応行信には参加するから、後で会うかもしれないな。じゃあ、また後で」
「ええ、後で」
トークンを操作し、通話を切る。反射的にアイアスの名前を選択して耳に当てたが、共鳴のコール音すら聞こえなかった。予想していた事だが、俄かに焦燥が膨らむ。すぐに切って大丈夫だと自分に言い聞かせた。何を焦っている?不安に思う必要もない。だってアイアスは自分よりずっと思慮深くてしっかりしている大人だから。
「…あの教会の男か」
視線を上げた先のロハネは目を細めている。
「預かっていた少年はどうしたのだろうか」
「ダリィの事?いずれカウンセリングの後に孤児院へ引き渡すとは言ってたけど…どうだろうね」
出会った時と比べると、随分と人のことを気にするようになった気がする。病院を知っていた事もそうだし、この数日の間にロハネはかなりこの街に馴染んでいるように見えた。まるで初めから道も人も全て知っているかのように。
色々見て思い出しているとは言っていたが、その過程で最初より人間臭くなった印象だ。
実際この街には彼がアヴェルと呼ぶ『過去のロハネ』が潜んでいる。一体あれがどうなってこうなるのか。
「ただ、このままアイアスの姿が見えないなら、あなたの力を借りる事にはなると思う」
「協力する」
即答と気の良い返事に少し心が軽くなる。この不安自体、全て杞憂であればいいのだが。
「とにかく今日は私が大総統まで案内するよ。毎年の事だから大総統が通るルートも知っているし」
空は快晴。
耳を澄ませば、すでにここからでも打楽器の力強く陽気なリズムが聞こえる。
胸を掠める不安を他所に、年に一度の祭日がすぐそこまで迫っていた。




