18.活色の特異点
同じ言葉を発した時を思い起こす。
「一応聞くけど誰のつもり?」
彼女の目は既にこちらを見ていない。時折注がれる視線は悍ましい蔑みと嫌悪に満ちていた。質問の意図が分からず「不明」と応じる。
「どこまで何を覚えているのかしら」
先程から碌に顔も見せようとしない彼女が私に何を期待しているのか分からない。応答にやるせなさを覚えてなんとなく自分の掌に視線を落とす。左指が5本、右指は6本。
違和感。右人差し指が一本多い。でもどうやって直せば良い?切り落とすか。否、そんな怖い事は出来ない。どうにか5本の指にならないかと考えている間に、指先から両指、ないしは両手が肌色を失って真っ黒に染まっていく。ぼんやり眺めていると突如膝がガクンと折れてその場に倒れてしまった。その衝撃で両手すら地面に水をこぼしたように液化している。足元を見ると足が手と同じように液化していた。自分から真っ黒のインクのようなものが零れている事実がとても人体に起こる事ではないと分かっているのに、痛みがないせいか焦燥は感じなかった。ずっと夢に沈んでいるような感覚で、視界が反転したことすら意に介する気にならない。ここは現実なのか?
そのまま天井を眺めたのち、足の形を思い出しながら仰臥で傾いた視界で周囲を見た。薄暗くて狭い部屋。光源代わりの訳の分からない数字が流れ続けている四角のモニタに天井や壁を這うパイプ。その多くは私が先程までいたポットに繋がっているが、稼働をやめているのか何の音も発していない。
外からは強い風の音。砂塵が壁面に当たる音。当たり前のように聴覚があることを妙に新鮮に感じる。意味もなく眼球を左右に動かし、少し口を開けた。空気を吸い込み、吐き出す。自分の造りを確認する。あぁ、確かに五感が存在している。
少女を見た。彼女は私が後方でどちゃりと音を立てて崩れ落ちても振り向く素振りすら見せなかった。古そうな椅子に座ったまま蹲って微動だにしない。時折咽ぶような息遣いをしている。彼女は机に伏せたまま泣いていた。
何故その仕草を聴いて『泣いている』と分かったのだろう。私には彼女の言葉の意味を理解出来ようと返すべき答えを持っていない。自分の身に起こっている事すら説明出来ない。
人は赤ん坊から人生が始まる事を知っている。自分の姿は赤ん坊のそれではない。そもそも思考できるし、目にした模様が『数字』か『文字』かの区別もつくようだ。ある程度の知識もこの頭に入っているのに、つい先程より以前の記憶がない。何故自分がこの形をしているのかも分からない。人は怪我をすると血が出る。私は全身が溶け落ちる黒い泥で出来ている。この時点で私は人ではないと分かる。客観的思考も出来ている。何だこれはと騒ぐべきだろうか。否。疲れる事はしたくない。液体となった四肢は痛まないから捨て置いていい。どちらかといえばまだ鈍く頭が痛い方が気に触る。
自分を取り巻く状況も、何者かすら分からないのに冷静でいられた。冷静というより単純に興味がなかった。人ではないから何だというのだろう。それは『私』が発生する前に散々考えた事に比べれば些末な問題だ。
無い頭で何を考えていたかなんて覚えていないのだが。
2本足を造る。仰臥した体を返し、造り直した手をついて、膝を折って上体を起こす。左右の指が5本になっているのを目視で確認する。両足で体の均衡を保ち、右足、左足を交互に出して歩く。歩きにくい。今度は足の長さを均一にし忘れた。右足に比べてやや左足が長い。でも歩けるのでそのまま歩いてみる。硬い地面に柔い足を踏み込む度にペタペタと音が出た。突き刺さるような冷たい地面の温度。砂が足にこびり付く。
私は不格好な歩調で少女に歩み寄る。何を悲しんでいるのか分からない。慰める言葉を持たない私は、黙ってその背を眺めた。私の存在を近くに感じたのか、少女は言う。
「頭ではあなたを怨むべきではないと分かってる。全部分かってるのよアヴェル。あなたは私には過ぎた欠陥品に過ぎない」
アヴェル。それが私の名前らしい。何故だろう、その響きに少しの拒絶を感じる。この拒絶は彼女のものか?それとも私のものか?
ただ伏しているだけのように見えたが、彼女は伏した状態でペンを走らせていた。紙面に何かを記録しているらしい。
ちらりと机の上を見た。私の知る文字で『この⬛︎⬛︎⬛︎から取り出すことは不可能』と記しているのが見える。主語は涙で滲んで読めない。後は彼女の肩に隠れて分からない。あまり覗き見するのは良くないだろうか。
「これが唯一の望みだったのに、もう何も取り返しがつかない所まで来てしまった。全部終わった。終わりよ、全部」
そこまで言ってから、彼女は堰を切ったように大声を上げ始めた。髪をぐしゃりと抱えては振り乱し、細い腕が折れんばかりに何度も机を叩く。ペンが机から落ちたかと思えば先程まで書いていた紙を破り始める。本を薙ぎ倒し、手の届く距離にあったペンチを投げる。狭い部屋にはパイプにペンチが当たる轟音がよく反響した。
暫しの沈黙。彼女の荒い呼吸と嗚咽、外でゴウゴウと嵐が叫ぶ音が聴こえる。
「…もう嫌……」
強い絶望に囚われた背に一歩、二歩と近付いた。
何も知らない私が不用意な言葉を掛けるべきではないと思った。大丈夫とか、それは大変だとか、そういう類の同情や無責任な言葉。
何を言うべきか迷ったまま、少女の頭に軟く触れた。彼女の嗚咽が止み、その肩が驚きに跳ねる。構わず私は髪を撫でた。
どんな意図があるのかは自分でも分からない。だが、本能に近い部分でそうするべきだと思った。何故か記憶の奥底にこうして誰かを撫でていた既視感を感じる。
「希望を」
口を開くつもりはなかったのに。
誰かが私の口を借りて喋っているような。
「希望を捨ててはならない」
強い口調で批難されると思った。
だが、彼女はあれだけ自暴自棄になっていたのに何も言葉を返してこなかった。ただ静かに涙を溢している。破れた紙がポロポロと落ちる彼女の雫を吸い取ってシミを作っている。
「…どうして叱ってくれないのかしら」
どこを見るでもなく少女は言う。独白じみた言葉。それは私に向けて発された独り言ではあるだろうが、厳密には私の『中』に向けて言ってるのだろうと察しがつく。だが私は彼女がこの中に誰を見ているのか分からない。私は誰でもない。自分の性格すらよく分からない。本当にこんな事を言うに値するのか?
当然目の前にいる人の事も知らない。つい先程、5分前に初めて会って、初対面から睨んできた少女。私にとってはその程度の認識でしかない。彼女がここに来るまでに抱えてきた努力も絶望も、どんな気分で私を見ていたのかも知らない。恐らく私が何も知らない事は相手も分かっているのだろう。だからこそ自分の感情と葛藤している。それが現状推察できる限界。私はあまりにも無知だ。
彼女は私の手をゆるく払うと、振り返った。その目は腫れていたが、涙は引いていた。
「理解したわ。……えっと。名前が無いと不便ね。新しい名前を付けましょう。今がアルタマイル歴の687年だから…ロハナ?…は少し語呂が悪いね。ロハネにしましょう。今日があなたの誕生日」
ちらりと石壁を見た彼女の視線を追うと、机周りの石壁には何本もの線が刻まれていた。
「あなたが死んだ後もこの暦を数え続けているのはおかしな話ね」
石壁と独り言を一瞥したのち、私は彼女を指差して「不便」と言った。名前がないと不便なのはお互い様だから。
「私?私はもう…何年も」
石壁の傷を再び見上げ、その傷を指で撫でる。
「そう。8年も経ってる。ずっと独りでここにいて…自分の名前を意識する事が無くて忘れてしまった。でもその顔を覚えてる」
彼女は呆けたようにこちらをじっと見た。私は特に目を逸さなかった。
「アルバートと呼んで」
不自然な間があった。気に留める程でもないほんの僅かな沈黙。
「承諾」
私がそう発すると、少女は床に散らばっていた一冊の本を拾い上げる。表紙に空想の生き物が描かれた絵本。
「人には素晴らしいものを生み出す力がある。人の才智は時間さえ超越することを私が証明する」
先程から私を真っ直ぐに見る瞳から憎悪は消えていた。何か吹っ切れたのだろうか。
「これから時間遡行の装置を開発する。まずは未来を切り離さなくてはね」
そう言うと目を細める。笑っているのか?どこか楽しげにすら見える様子で言う。
「手伝ってくれる?ロハネ」
応じる前に具体的な内容を聞くなど一考するべき所ではあったかもしれない。だけど私は、彼女の『開発』という単語にもさしたる興味を覚えられなかった。その瞬間明確に理解する。少女が持ち、私が持ちえないもの。
熱意だ。興味関心から来る情熱。私には熱がない。どこまでも空洞で、人の形と思考を持つだけの何か。
想像は出来る。意味も理解出来る。でもそれは単なる情報の羅列にしか見えない。構わない。何も不思議はない。そもそも関心を持った所で私に出来る事は何もない。
無関心である内は満足する豚であるべきだろう。
「協力する」
◆ ◆ ◆
正午を少し過ぎた頃。
色とりどりの紙吹雪が風と踊っている。鮮やかな喧騒に満ちた石畳の上、道を覆うアーチやフラッグガーランドが大通りに足を運ぶ人々を歓迎している。
「凱旋とは言うけど、要は街を上げた大売り祭りと大総統のお散歩よ」
この日はアルタマイル軍本部から時計塔までの大通りがミストオーナルや街の人の露店や花であふれ返る。まだ大通りにも着いていないのに、音楽や賑やかな喧噪が耳に届く。視界端で鮮やかな色をした星が煌めき、青空に溶けこんでいるようだ。
「古くは言葉通り、パレードのような凱旋をやっていたらしいんだけど、いつからか大総統が徒歩で街を回るようになったんだって。勿論護衛はついてるけど大総統の回るルートは混雑を避けて毎回ランダムなの。この日にしか手に入らないミストの輸入品も色々あって、大総統じゃなくて出店が目当ての人も多いのよ」
「なに?」
ロハネに怪訝な顔で二度見された。そうだよね。自国の大総統より出店が大事と言えば二度見もするよね。特にあなたは総統だけが目当てではるばる未来から来た訳だし。
アラムとロハネは通りを望める小高い場所を目指していた。流石に会場となっている道の全てを一望出来る訳ではないが、適度に人の往来が見える場所を知っている。大総統を探すなら、通りそのものに出向くよりも視点は高い方がいいと思ったのだ。はぐれる心配もない。探すも何も大総統は軍人を伴っているし白い軍服を着ているのでそれなりに目立つが。
「おや、アラムじゃないか」
落ち着いた男性の声に飛び留められる。振り向けばリュックを背負った白髪の青年が手を振りながらこちらに歩いてきた。
風除けのストールに外套を羽織っていて、目深くフードを被っている。町人というより旅人といった風貌だ。何より目を引くのは、スリッドのついたフードから突き出た枝角。先端に向かうにつれて水晶のように透明で青み掛かった美しい模様の浮かぶ角に金の装飾まで散りばめられている。アラムにとっては目新しくはなくも久しぶりに見る顔だった。
「ジン。戻ってたんだ」
ジンと呼ばれた男はフードを脱ぐ。その下から現れたのは、頭から枝角を生やし、耳が見えるまで刈り上げた短い白髪に金の丸眼鏡、瞳孔が縦長の蒼い瞳の青年だった。青年はにこりと微笑んで頷く。
「今朝の便で戻ったばかりだ。僕も出店するんだよ。蔵の古書を売りに」
彼はアラムの隣に居るロハネに視線をやると、旅人の装いには不似合いに感じる程洗練された動作で一礼した。
「ジン・ウォルタースコットだ。初めまして」
そうして差し出された右手は青く、金のピンキーリングが光を反射する。爪はやや鋭くて黒い、キラキラと鱗が浮かぶ不思議な手をしていた。ロハネは一見人のものとは異なる手に狼狽える事無く右手を差し出してシェイクハンドを交わした。牧師との経験が活きている。
「彼はアルタマイル一番の大図書館の司書なんだけど、こうして時々ミストを行き来する行商ハンターもやっているのよ」
アラムが軽くジンの紹介を挟むと、ロハネは目を細めてから言った。
「図書館?東にある…スキエントか」
思い出すかのように切れ切れに言葉を紡ぐロハネに対し、ジンは深く頷いた。
「その通り。故郷にも正しい知識を伝道するのが僕の使命でね。君はアルタマイルの軍人か?この辺りではあまり見慣れない服装をしているようだが」
「私はロハネ。未来から来た」
おっと。口止めするのを忘れていた。
硬直したのち一拍置いてうろたえたジンがこちらを困ったように見たので、「そういう設定」と適当に言う。
「そ、そうかい。夢想に励むのは素晴らしい。君の物語が楽しみだ」
ジンは安堵したかのようにロハネの肩をポンと叩くが、ロハネの視線は彼の憐憫の瞳ではなく頭上に生えているツノに向かっていた。
「その突起物は何だ」
「あぁ、亜人はアルタマイルでは珍しい方だからね」
横からアラムはロハネに向けて補足する。
「彼、ミストオーナル出身の水龍人なの。向こうではアルタマイルのように才能を持つ人が居ない代わりに、人にない特徴や変身能力を持つ亜人が居るんだよ。ジンは人に近い方だよね。人外特徴もツノとその縦長の目くらいしかないし」
それを聞いたジンは困ったようにも呆れるようにも見える仕草で肩をすくめながら舌を出した。手は先述した通りで、加えて舌が青い。彼が首を振れば、枝角についた金の装飾がキラキラと澄んだ音を奏でた。
「まぁ帽子で覆える程度で助かっているんだ。尤もここで隠す必要はないんだが、ご覧の通り水龍のアントラーはバカの狩猟にうってつけ、外では特にね。残念ながら高値で売れるんだよ。煎じれば寿命が延びるとも言われている。ふはは、バカ」
一人で言って一人でウケている。何が面白いんだ。
ふぅ、と一呼吸間を置いてからジンは続ける。
「ミストオーナルはダスクから逃げた者が築いた『国』とされているが、実際の所は敗走と迫害だとされている。ここより古い歴史を持つミストの政はアルタマイルと根本から違うんだ。あちらの老人の中には、この祭日自体お国の大総統が仲良しアピールによって摺り寄っていると思っている堅い連中も多くてね。僕の祖父とか。その忌避感も年々薄れてきている。アルバート大総統の誠意ある政や交易のお陰さ。その甲斐あって僕も故郷とこちらを渡れている訳だし」
角を不思議がられた事に対して、ロハネがミストオーナルを何も知らないと踏んだのだろう。聞かれてもないことを得意げに語るジンは少し嬉しそうだ。彼の気質は教師に近い。誤った知識を信じる愚か者は軽蔑するが、他者の無知は歯牙に掛けない所か、大体の事を聞けば教えてくれる。
聞いてない事まで教えてくれるのが玉に瑕ではあるが、それは他人の無知に対する嫌味なニュアンスではなく、本人も言っていた通り知識を伝導するのが純粋に好きなんだろうと思う。
「まぁそれはそれとしてだ。興味があったら君も是非ミストにも来てくれ。良い所だよ。カリア教授もいるそうだし」
ほくそ笑むジンの視線がロハネからアラムに向けられる。
「なんで私を見るのよ」
「いやなに。向こうでも結構有名人だからね、教授は」
またか、と思う。父親を褒められた所で嬉しくない。精々まだ生きているのか~程度の感想があるだけだ。
「いつでも良い。もし君の気が変わったらいつでもカリア教授の残した本を寄贈してくれたまえ。私が責任を持って保管を約束する」
スキエントで、と言わない辺り彼の個人的な趣味が見え透いている。おおかた禁忌に触れたとされる父が残した本にどんな記述があるのか気になるのだろう。ただの医学書だしジンが読んでも分からないと再三言っているのに、知的好奇心だけは一級品だ。彼がこちらを目に掛けているのも殆どはこの本を持っているせいだ。この街の多くの医者にとっては禁書のような本でも、彼にとっては喉から手が出るお宝にでも見えているのかもしれない。
「気が向いたらね」
「君も頑固だな」
「お互い様でしょう」
「それもそうだ」
今回も軽口程度の温度感で言っていたのか、食い下がることもなくあっさり引いてくれた。本人も簡単にこちらが首を縦に振ると思っていないのが態度で分かる。ジンはふふ、と笑うと踵を返した。
「では友人の待つ小間に向かわなくては。お互い祭日を楽しもう」
アラムやロハネの返答を待つでもなく、そのまま振り返りもせずひらひらと手を振って歩き去っていった。その場に残された二人は示し合わせるでなくお互いを見た。
「良い人でしょ」と眉根を寄せてアラムは言ったが、ロハネは首をかしげて応じる。
ジンは自尊心が高いが、それに見合う程にストイックな上、やりたい事に真っ直ぐだ。なにより自分の価値観を他人に押し付けない。そんな性格を知っていてアラムは彼の事を良い人だと思っているのだが、ロハネは初対面だ。その反応もジンの性格か亜人の外見から来ているのか知らないが、まぁ分からなくもない。
アラム達は気を取り直して目的の場所へ向かった。
「ここだよ」
道端でジンと話してから、目的地はほんの5分階段を歩いた場所にある。ロハネは柵の向こうで小さな人々が祭日の賑わいを楽しんでいるのを黙って見下ろした。ここはそこそこ景観が良いのでアラムも気に入っている場所なのだが、ロハネは大通りを見下ろしても特に反応がない。恐らくこの場所を彼も知っていたのだろうと思う。店の軒下には感謝祭で使う大きなフライパンや大鍋で料理が振る舞われていて、良い香りがここまで漂ってくるようだ。
「思えば」
じっと柵の向こうを眺めていたロハネが口を開く。
「私はこの街を知っている。だが人の営みまでは想像できていなかった。どうも無人が当然だと思っていたようだが」
視線の先にある人々の笑顔につられたように、彼は少し微笑んだ。
「街が生きている。美しい」
アラムも嬉しそうな横顔を見て、「良かったね」と短く応じた。
「もっとよく見える場所がある。あの建物の屋根だ」
「えっ」
ロハネは右側にある高い建物を指したかと思えば、そのまま自然に柵を超えようとし始めたのですぐに裾を引っ張って静止した。待て。屋根に登るつもりか?まず建物の間は普通に5mくらい空いている。まさかこの高さを飛び越えるつもりだとしても、普通の人が誤って落ちたら死は免れない高さだが。
「ちょっとちょっと!悪目立ちするからやめて!」
止めればすぐに柵にかけた足を降ろす。この聞き分けの良さにだけは救われている。
「猫じゃないんだから。そんな危ない所に行かなくても十分見えるでしょう」
「同意」
「ほら、あそこ」
アラムは大通りの方を指さした。その先には街の真ん中で音楽を奏でる一団がいる。先程からこの一帯に陽気なジャズマーチやスウィングを響かせている楽団だ。その先頭には白い軍服を纏ってトランペットを吹いている、ブロンドヘアを三つ編みにまとめた中年ほどの男性が見える。跳ねたり回ったり、観客に手を振って遠目から仕草で分かる程演奏を楽しんでいるのが見て取れる。
「あの先頭にいるのがルベン少佐。本部の軍楽隊の楽士であり隊長よ。最も城下の人望が厚いとか言われてる人。で、その近くにあるエールの店下に居る女性がリクシード大尉」
ロハネに説明している間に思う。ここから見える範囲でも階級持ちの軍人が結構いる。皆警備も程々に祭日の街の人からの歓待を楽しんでいる様子だった。
ただ、祭日の中心が大総統なだけあって、例年通り道端の一定間隔に軍人が配備されてはいるが。街の人がダスクの脅威から国を守っている軍人達を間近に見たり、交流出来るこの機会にタダで花や食べ物、果ては酒を振る舞う人が多い。ただ、あの一帯は軍楽隊がいるのもあって、歌ったり踊ったりで交流パーティのような雰囲気になっている。ロハネを見れば彼はアイウェアの奥の目を細めてあちこちを見まわしていた。
「お前が紹介した大尉がどれか分からない」
「あれよ。軍服脱いでエール煽ってる豪気な人いるでしょう」
ロハネは「はぁ」と息を漏らす。仕草からにじみ出るレベルで目を疑っている。彼は考えている事が読み易い。
「良いのか。あんな豪快に」
「良い訳ないでしょ」
リクシード大尉を凝視していると、軒下から現れたピンク色の髪をした花を纏う軍服の男が彼女の頭を強く叩く姿が見えた。あの姿はつい最近見た。アヤト大尉だ。
「注意されてる」
「そうでしょうね」
アラムはカバンから懐中時計を取り出して蓋を開けた。針は正午と20分前後。このまま大総統が現れるまで待っても良いかもしれないが、今のように顔を知る軍人や人の紹介を兼ねていても時間に余裕がある。
「行かないのか」
時計を取り出す様を見たロハネが目ざとく問いかけてきた。あの祭りに混ざらないかと問いかけてきたのだろう。
「まぁ…いくつか欲しいミストの薬草はあるけど」
「行って構わない」
「あなたは?」
「ここで待っている。私の為にお前のやりたい事を全て蔑ろにする必要はない」
そう言うなりロハネは柵に肘を置いて、再び大通りを見下ろし始めた。人を眺めるのが楽しいのか、大総統にご執心なのか。あと単純に気を使ってくれた事に少し驚く。そういう事言えるんだ。
アラムは懐中時計の蓋を閉じて鞄にしまう。
「ありがとう。マークと朝話したんだけど、大総統がこの辺りを通るのは多分夕方近くになるそうだから、あなたも飽きたら降りてきてもいいからね。美味しいご飯もいくつかあるし」
「考えておく」
こちらを見もしない。そうか。流石にあなたは食べ物より大総統か。
「じゃあ少し外すね。また戻ってくる」
ロハネが横目に視線を合わせて頷いた事を確認すると、アラムは小走りでその場を後にする。彼女の姿が階段に沈んで見えなくなったことを確認すると、大通りに視線を戻した。
実の所、アラムに通りへ向かうよう促したのは彼女に気を遣った訳ではない。
いや、気を遣ったのも事実ではあるが、それだけが理由ではない。
ロハネは人の喧騒を遠目に眺め始めた時、色鮮やかなパノラマ映像を見ている気分になると同時に少しの違和感を感じたのだ。アラムと会話していた時にはあまりにも漠然としていて何も言わなかったのだが。
こうして静かに瞑想に似た心持ちで眺めていると、より一層にその正体が明確になる。
「………」
やはり自分は、通りを歩く商人、街の人、軍人。多くの人の顔を知っている
勿論、未来の記憶を辿っても彼等と会話した事などあるはずが無い。そもそもロハネの生じた未来では既にアルバートの築いたセーフエリアの外に人間は居なかった。
いや、厳密にゼロという訳ではなかったが、それでも他人と話した経験など殆どない。
なのにあれらの顔に形容し難い既視感を感じている。
初めてアルタマイルに降り立った時、汽車の車窓から飛び降りて湖に落下した時。汀へと這い上がり、四肢に咲き乱れる氷華の冷気で凍えていた時。身を潜めるよう街に入った時。
これは、目にした光景につられて頭の奥底から自分にあるはずの無い記憶が引き出されてきたあの感覚に近い。自分が望む先にいる、既視感を感じる人と会話すれば名前すら思い出せるのではないかとすら思う。マークや先程のジン、アラムと会った時にこんな事は感じなかった。恐らくは目にするものの情報量の多さに比例して、潜在意識が何かを思い出そうとするのだろう。
違和感に意識を向ければ、自分の及び知らぬ所から無限に情報が溢れてくるような気がした。
分からない。何故過去の自分…アヴェルがそんな事を知るに至っている?
自分の中にある『不明』を覗き込もうとした時、唐突に頭を強く打たれたような酷い頭痛に襲われ、思わず呻いてしまう。
またあの頭痛だ。見るな、考えるな。己に誰だと問うな。無知の中にある暗い穴を認識するな、『答え』に気付いてはならないと本能が警鐘を鳴らしている。
あぁそうだ。アルバートが未来の出来事に口をつぐんでいた原因もここにあるのだ。
私は自分の過程を知ってはならない。
その瞬間。
「こんにちは」
穏やかな男の声が真後ろ、いや、耳の隣のような距離感で発される。
驚いて振り向こうとしたロハネの首筋にナイフがあてがわれた。身の危険を感じて反射的に動きを止めると、男はナイフを首に押し付けてきた。こちらがそれ以上後ろを向かないようにする牽制だ。頸部に得物の冷たい温度が触れる。
「不躾な挨拶で悪いね特異点。俺、ここの情報部のモンでさ」
横目になんとか男の姿を見ようとする。薄手のストールに着崩した軍服が見えるが、顔までは流石に伺えない。焦りすら感じさせない仕草から余程人の背後を取る事に慣れているのだろうと感じる。
男は軍の諜報員、クガセだった。
「悪いようにはしねぇからよ。大人しく付いてきてくれるかい」
友人に囁きかけるような口調ではあるが、向けてくる刃物から滲む敵意が否応なく貫いてくる。
度重なる頭が痛くなる事態に、ロハネは深くため息をこぼした。




