16.暗き光、悪運巡る
翌日、天候は曇り。穏やかな気候。時刻は午前の正午より少し前。
「うん、大丈夫。もう殆ど塞がっているね」
アラムは注視していた頭の縫い目を見て頷く。その姿は本部の医務室にあった。
彼女が診ていたのは、先日ダスクの襲撃があった際、頭を負傷したアグナス巡回兵の傷だ。一日安静にしていたお陰もあってか出血や膿みも殆どない。
「迅速な処置のお陰です。貴女は命の恩人だ」
「大袈裟ね。元々命に関わるような重症でもなかったわ」
アラムが縫い痕に薬液を染み込ませたガーゼを貼り、頭に包帯を巻いていると、横から甲高い訛り言葉が聞こえた。
「んな訳あるか!ホンマに肝が冷えたんやぞ!」
「ハインツ、金切り声で騒ぐのはやめて。病室よ」
「滅茶苦茶血が出て怪我の程度も分からんし、コイツが死ぬかもしれんと不安で堪らん所にお前が来てくれてどんだけ助かったか…」
ぐしぐしと大袈裟に腕で両目をこすっている。本当に挙動が大袈裟でたまにウザい。周囲の患者の視線も痛い。
「改めて礼を言わしてくれアラム!ワシの可愛い部下を助けてくれてありがとぉ!」
「少尉、お静かにお願いします」
「何やお前ら…ワシは健気に心配しとるだけやのに…」
傷を負って弱っている人とは思えない程の毅然とした視線に気圧されて下を向くハインツ。どっちが上官なんだアンタ達は。
包帯を巻き終えた所で、アグナスはこちらを見た。
「私の他に、貴女が添え木を当てて運んでいた方は無事でしょうか」
彼の発言に記憶を遡って一拍置いた。彼が言っているのはアラムが一番初めに助け出した民間人の事だろう。
「あぁ、本部に来る前に街の病棟に寄ったけど、会わせて貰えなかった。丁度診察の最中だから通せないってさ」
「そうですか」
それを聞いた彼は視線を落とした。家族でもあるまいに、怪我を負った人の安否が分からないことに心を痛めているのだろう。
「とにかく、もう少し安静にしていてね。食欲があればいつも通りに食べる事。なくなった血を補わなきゃ」
そこで、医務室の片隅から不快な視線を感じた。目の端で2、3人の軍医たちが好奇の目でこちらを見ている。
視線は向けない。彼らとは目を合わせず気付かない振りをする。
アラムは軍の医療従事者に携わった時から、他の軍医とは医療方針が合わずに孤立していた。
軍医たちは教養を受けてここにいる。対してアラムも同じ教養を受けてはいるものの、父の手記や手腕を間近で見て、アルタマイルの医術ではなく父の特異とも言える方法に倣って治療を施している。
彼らの目には、いつだってアラムの処置が奇怪に映っている。
「流石はあのカリア教授の娘やな。やっぱお前も何かの才覚者やないんか」
「やめて。貴方とは違うし、ほっつき歩いている奴とも一緒にされたくないの」
その会話を聞いていたアグナスが、ハインツに目を向けた
「カリア教授も何かの才覚者だったのでしょうか?一度もそのような所は…」
「何や、知らんかったんかお前」
ハインツがこちらを見て「説明してやれ」とでも言う風にアグナスを顎で指した。自分は説明するより身内から説明した方が詳しいとでも思ったのだろうか。アラムはため息をつく。
「…虚の才覚者。父は人に知覚出来ない世界を覗く力だと。功績はあなた達が知っている通りだと思うけど、私から見れば帝都も責任も家族も放ったまま帰ってこない、雲の上の人よ」
先程、アグナスの頭に塗布した薬液に目を向ける。自分で作った薬液ではあるが、その材料や調合は父の考案した手記に記されていたものだ。
父はある『禁忌』を犯した事を境にアルタマイルを去ったと、亡くなった母から聞いた。
都市そのものから追放の振れがあった訳ではない。寧ろ大総統や当時の大将はその手腕や判断を歓迎していた。だが父は多くの同業者から批判を受け、自ら帝都を去ったのだ。
本当に家族を想っているなら、幾ら帝都に帰りたくなくても母の死に目に来てくれた筈。母が亡くなった後にわざわざ自分を孤児院へ預けたりなんてしなかった筈。
何の連絡もなく、吹き込む風のようにアルタマイルに帰ってきては孤児院の子供達を診察し、アラムの顔を見るだけ見て手記を残して去っていく。
最後にその顔を見たのは7年も前。今はミストオーナルに出かけたきり、連絡も手紙も寄越さず帰ってこない。
ハインツやアグナスが慕っている通り、昔はアルタマイルに従軍し、数々の兵士を死の淵から救いあげた名医だった。それがいつからか、席を残したまま理由も告げずに帝都を去り、現在に至る。
実績のある父が説く医術だってこんなにも嫌厭の目で見られている。何故なら『禁忌』を犯す以前に、カリアの医術自体がアルタマイルの医療方針にそぐわないものだから。
手記を寄付しようものなら燃やして廃棄されるに違いない。他の軍医にしてみれば、才覚者が自分の才能にかまけた目に見えない概念の事について記されたものだ。
医術は神の定めた均衡を取り戻すものとされているアルタマイルでは誰もそんなオカルトを信じはしない。
アラム以外は。
「見せてもろたことあるけど、どういう才能なんか分からんかったわ。でもスゴいんやで!あの人が結うた傷は抜糸もいらんし、そのまま綺麗に治るんや」
興奮気味に言葉を紡ぐハインツに対し、アグナスは人差し指を唇に当て、アラムは「分かった分かった」とたしなめる。ハインツは顎の下を触りながら言葉を続けた。
「今頃何したはるんやろうなぁ。アラムが軍に入る事なった時も牧師の中佐が手紙送ってた筈なんやけど」
「届いてないでしょう。アイアスも隣国まではきっと届かないって言ってたわ」
そこで会話が途切れる。妙な沈黙の中にきゅっとハインツが唇を引き結ぶ音がした。
「せや、今日はあの藍色の奴はおらんのか?妙な出で立ちの…あの、」
藍色で妙な出で立ちと聞いて、ロハネを指している事は真っ先に分かった。
アラムは「あぁ…」と言い淀む。ハインツにどこまで伝えたものか。ダリィが冤罪を被っているせいで軍から目をつけられている訳ではないが、
彼は先日起きた列車の襲撃犯その人だ。そうでなくとも素性がややこしい。下手に情報を明かすのは危険を孕む気がした。
「今は私の家で留守番してる。最近コゼットの調子が良くて。話し相手になってくれているの」
「話し相手?軍には所属しとらんのか。傭兵か何か知らんけど変わった武器を持っとったよなぁ」
ハインツはアラムがあからさまに情報を絞った事に気づいている様子で、じりじりと顔を近づけてきた。彼の髪の奥で青い瞳が嫌らしく笑んでいる。ウザい。
アラムは顔を背けるように広げた鋏や包帯を取り集め始めた。
「アグナスさんの怪我、順調に良くなってる様子で良かった。そろそろ帰るね」
廊下の方で靴音がしたかと思えば、医務室のドアが開く音がした。それに気付いたアグナスがドアを方向を見て、畏ろしいものを見たかのように肩を強張らせた。
「あ…アルバート大総統…!?」
その言葉を耳して、はたとアラムとハインツもドアの方を見た。
「ここに居たか」
そんな声と共に胸の前で手を振りながらやってきたのは、紛れもなく大総統の姿だった。
グレーの髪に翡翠の瞳。日に焼けたようなオリーブスキン。アラムが子供の頃に見た顔と一切変わらない、青年程の整った顔立ちの男性。
白いズボンに灰色のワイシャツ。いつもの純白に金の装飾が彩られた軍服は脱いで手に持っていていた。
その場を掌握する風格…とは言い難いが、人も侍らせず突然現れた総統に対し、その場に居た人が(患者を含め)全員で敬礼をした。
「止せ、畏まるな。余は礼を言いに来ただけだ、ハインツ」
「…はい、え…?」
名を呼ばれたハインツは敬礼しながら頓狂な声を上げている。アルバートはハインツに歩み寄りながら続けた。
「先日街中にダスクが襲撃して来た際、そなたが一番に市民を守ってくれたと聞いた。礼を言う」
アルバートはハインツの前で立ち止まると手を差し出す。シェイクハンドの構えに気付いたハインツは、そそくさと両手で大総統の手を取った。
「め、めめ滅相もございません!此のような一兵卒に態々ご足労頂いて光栄です」
ハインツがかしずいた事を見ると、アルバートはアグナスに目を向けた。
「そなたもよくやってくれた、アグナス。怪我は大事ないか?」
「はい。こちらの軍医殿のお陰であります」
「あぁ、生きていて何よりだ」
大総統の真っ直ぐな視線には普段冷静なアグナスでさえも緊張を感じざるを得ないようで、「勿体ないお言葉です」と呟き、深々と頭を下げた。アルバートは少し部屋を見渡してから続けた。
「クレアとケビンはどうした」
その言葉に、ハインツははたと顔を上げた。
「え、あ、あの二人はアグナスの負傷に合わせて休暇を…ワシらのエリアは第三巡回班が代わっていると聞いてます」
「そうか。本来であれば報奨を取らせたい所だが、生憎とこの時期だ、誰も余に取り合ってくれなくてな。口頭の礼など気休めにしかならんが、静養し、良く英気を養うと良い」
「あ、ありがとうございます!」
吃音めかしく慣れない標準語で喋るハインツより、アグナスの方がよっぽど平常心で大総統と話せている。
「アラム」
唐突に名を呼ばれる。森の碧とも、海の蒼とも取れない翡翠色がこちらに向けられた。
「死者が出なかったのは其方の功績でもある。感謝する。我が民の命が、若い其方にこれで何度救われたものか」
ハインツが先程言った通り、アラムの医術の背後にはいつも父の功績がある。勿論、言っている当人に悪気がないのは分かっているが。
だけど大総統はアラムに親の功績を重ねない。アラムを通して誰かの姿を見ることはない。
目の前にいる相手自身を見つめている。多くを見渡す大総統が、自分だけを見つめてくれている。アルバートと目を合わせるだけで、大総統と自分は対等な関係に、同じ視線に立っているのだと錯覚させられる。
それが、数ある秩序や人の信頼を以て帝都と統べる大総統たる所以なのかもしれないが。
アルバートの翡翠色の瞳と視線を合わせるのは数年振りの筈なのに、懐かしさを覚えなかった。それ所が既視感すら感じている。
何か、最近にも同じ色を見たような…
「さて、長居するとまた咎めを食らう事になる。棟を移る傍らで其方らに会えてよかった。ではな」
そのまま大総統は、その場の者が頭を下げる前に踵を返した。
「ま、待って!」
引き留めたのはアラムだった。大総統が振り向く。数多を見据える瞳と再び目が合った時、呼び止めてしまった事を少し後悔した。
「あの…私…アイアスの教会で…」
翡翠がこちらを見ている。言葉を選んでいる最中で、本当にこれを大総統に問うて良いのか分からなくなってきた。
「見たの…あの…黒い…」
「黒い…何だ?」
アルバートが自分の言葉を待っている。大総統が自分を待っている。唐突に緊張が込み上げてきてきて、固い唾を飲んだ
「…やっぱり、良いです。ごめんなさい」
アラムが言うのをやめてしまったところでアルバートは首をかしげた。
「分かった。言葉が定まれば補佐官にでも伝えると良い」
アルバートは、アラムの頭に掌を置いた。ポンポンと頭の上で掌を弾ませたのち、来た時と同じく、護衛も補佐官も不在のままで足早に立ち去ってしまった。
早い足音が病室から聞こえなくなった所で、ハインツが大きなため息をついた。
「ビックリした…色んなモンが口から飛び出す思うたわ」
ロハネが言っていた事をぼんやりと思い出す。
大総統が世界を壊す。そしてそれ自体を酷く後悔することになる。
本当に大総統がそんなトリガーを引くことになるのだろうか。何と引き換えにそんな選択をすることになるのだろうか。
彼は帝都も人も博愛している。アラムが生まれるよりもずっと前から、きっとその座についた時から。アルタマイルがこんなにも栄えた都市となる遥か前からずっと。
「…………」
聞けなかった。
都市のしたを這い回る奇妙な存在を知っているかどうかを。
仮に知っていたら。私があの『アヴェル』を知っている事を伝えてしまっていたらどうなっていたのだろうか。
◆ ◆ ◆
アイアスは光の届かない、真っ暗な煉瓦作りの螺旋階段を下りていた。
片手には蓄光石の入ったカンテラ。もう片方の手で煉瓦の壁を伝いながら、一歩ずつ闇に踏み込んでいく。
入口は人一人通るのが精いっぱいだった階段は徐々に人がすれ違えるまでの幅になっている。
「…まさか城の地下にこのような場所が」
呟いた声が反響する。どこまでも暗闇が広がっている。
階段を下りた先にあったのは、照らせない程天井の高い空間だった。
道幅は広く取られているが、端に嵩のあるゴミが散乱している。感嘆の声すら広い空間に反響して谺を返した。暗くて視界が悪い中をカンテラで照らして周囲をよく観察する。
足下はいつの間にか煉瓦造りから石畳に変わっている。異質なのは、床や壁を含む全てが光を吸い込むように真っ黒だということだ。
靴裏で床をこすってみたが、煤や塗料ではない。上塗りされたものではなく、黒い石で作られている石畳のような有様だ。それは壁面を覆う煉瓦とて同じとて同じように思えた。
少なくとも螺旋階段の足場や壁面は一般的な煉瓦造りだったものが、いつの間にかこのように変わっている。
道の端には不可思議な紋の刻まれた木片や割れた硝子、破れた本や解体された銃器、埃を被った武器が散らばっている。一瞥しただけでも使えそうなものはない。一昔前の時代の遺品が散乱している。
造りを見れば分かる。文献でその形を何度も見た。これらは捨てられた魔具だ。百年以上前に大総統の判断でアルタマイルが捨てたもの。魔石が埋め込まれている道具や武器。それらの残骸が、何故こんな場所に廃棄されているのだろう。
疑問が増す度に頭が平常心を欠こうとしている。何より冷静さを削いでくるのは、その場に漂う死臭。
人の入った棺桶の臭い。人が死後常温保管のまま数日が経過した臭い。ほんの僅かではあるが向き合う機会の多いあの臭いだと判断出来たのは、アイアスが墓守である所以だった。
これ以上進むのは、滞在するのはまずい。直感がそう警鐘を鳴らしている。
踵を返して立ち去ろうとした時、眼前に何かが現れた。
「な…ッ!」
反射的に一歩引いた。カンテラの光を眩さすら感じる程に反射するのは、白銀の傷一つない鎧だった。
天使の翼のような凝った模様が描かれており、死臭漂う地下にはそぐわない。神聖さすら漂わせる美しい鎧は、初めからそこに存在していたかのように道の中央に佇んでいた。
階段から歩いた道、それも中央にこんなものはなかった。鎧が擦れる音も地を歩く音も、一切なく背後に現れたのだ。
「ァ……ァア…ア」
そんな唸り声を発しながら白銀の鎧がガダガダと震え始める。鋼が擦れる音と共に、鎧のつなぎ目からどろりとした黒い液体が溢れた。
一歩を後ろに踏み出しながらコートの裏に隠した銃に触れた時、唐突に息ができなくなる。
「ッは…!?」
気が付けば頸部を強く握られていた。それも白銀の鎧そのものではなく、鎧の継ぎ目から伸びる黒い腕に。
声も上げられない。よろけた重心を正す間もなく、アイアスの四肢に無数の腕が絡みついて壁に押し付けられる。足や腕、肩、口元に至るまで押さえつけられる。唐突な衝撃を受け、手に持っていたカンテラを取り落とした。
硝子が割れる音。足下に視線を向ける事も許されない。地面に散らばった魔石に照らされる鎧の継ぎ目から黒い液体が溢れ続けている。呻き声を上げるその鎧は、言葉の通じない化物に相違なかった。
衝撃。
一つ間を置いて鋭い痛み。
胸の辺りから、温い何かが広がる感覚を覚えた。
痛みに耐えられず、口元を押さえつけられたままで叫んだ。口内に血の味が広がり、白い鎧の頭にも赤い液体が飛び散った。
首元からチェーンを断たれたロザリオが落ちる。
「煩いな。何事だ」
暗闇の奥から低い老人の声。姿は見えない。眼前の鎧から視線を背ける事ができない。
鼓動が煩い。自分の音が耳元で鳴っているかのような錯覚。温い血が広がってコートを汚していく。
何かが胸から引き抜かれると同時に黒い腕から開放され、アイアスはその場に倒れ込んだ。
「は……はッ……」
息を吸い込む度に苦しくなる。四肢を動かす事すら出来ない。
「誰だ。寄りにも寄ってこんな時に」
聞き馴染みのない声が響く暗闇の奥を見た。キリキリと錆びた車輪が回る音がする。
近づいてくるのが誰だなんてもはや興味はなかった。ただ必死に、動かせない四肢に力を込めて来た道を引き返す。
階段に向かって這う。背後からキリキリと車輪の音が迫ってくる。致命傷を負っているのは分かっているのに、ここで立ち止まったまま動かないのは死ぬより恐ろしい。
「…主よ…私を……ッ」
絞り出した声も虚しく、鎧の継ぎ目から伸びた黒い棘が無防備なアイアスの背を刺し貫いた。
彼はそれでも地面を這っていた。3度、棘が彼を刺し貫いた所で、遂にアイアスは俯いたまま動かなくなった。
魔石の光が届く手前で車輪の音が止まる。
「あぁ…何という事だ。中佐殿」
錆びれた車椅子に座した猫背の老人が、地を這いつくばる人を見て嘆きながら顔を覆った。
老人が咽ぶ傍らで、息絶えた獲物を飲み込む蛇のようにアイアスに黒い腕が無数に伸びる。
「食うな、アヴェル」
その言葉を聞いた怪物は、音も出さず吸い込まれるように鎧に収まった。鎧の隙間から溢れていた黒い液体も、時間が巻き戻るように収まっていく。
「彼の遺体が消えるのは拙い」
老人が深く溜息をつき、眦を擦った。
「遺憾だが時が来るまで保管する。あぁ明かりを消せ。眩しい」
老人が来た道を引き返すと、白銀の鎧が震える。鎧はおぼつかない動きで歩き始め、カンテラから散らばった魔石を踏み潰した。
周囲は再び、光の届かない暗闇に包まれた。
キリキリと車輪の音が遠ざかる。闇に消えていく老人の姿を、アイアスは瞳孔の開いた眼で見つめていた。




