11.牧師時折中佐
穏やかな夜がやってくる。月が高く登る8時前。疎らに輝く星々の光が空を彩っている。
夜のアルタマイルは蓄光石の入った街灯に光が灯る。この街は蓄光石と電気が混在している。ただ、街灯として使われているのは殆どが蓄光石だし、街灯といえばこの造りのものを指す。蓄光石はコストが安い替わりに明るさは日中の光量に左右される為、雨の日の夜は光が弱く、晴れた日は明るい。替わりに電気は日中に光が届きにくい家内の明かりや携帯用の灯りに使われている。吹き抜けで屋内でも十分光が取り込める空間では屋内の明かりにも蓄光石を使っている所もあるとか。とまぁ、そんな情報はさておき。
今日は晴れていた為、街灯が十分に夜道を照らしていた。
あれから私とロハネは一旦家に戻った。私は仕事柄、長時間の所用が入ることが多い。だからコゼットは私がいない間、有り合わせのものや保存食を食べたりしている。元より病気に侵される前はコゼットも一人暮らしをしていたし、調子がいい時は料理だって作ってくれる。
帰った時は無鉄砲が過ぎると少し叱られてしまったが、コゼットは珍しく、温かい夕食を用意して待ってくれていた。勿論ロハネは勧めても何も口にしなかった。そろそろ頑固だ。
夕食を済ませてから8時に教会に着くように、ロハネを伴って家を出る。
「これから会いに行く人は私の恩師よ」
彼がマークに会わせた時のように警戒させてはいけないと思い、行きがけにそう話を切り出した。
「緊張する必要はない。折り紙付きの良い人だから。軍の佐官ではあるけど、貴方を知ったって掌を返したりはしないと思う」
だから貴方も絶対に彼を敵にしないでね。と釘を刺す。
「善処する」
約束はしてくれないのか。
家を出る前に肌身離さず持ち歩いていたカタナは家に置いておくように指示した。案外簡単に手放していたが、あれは然程大事なものでもないのだろうか?ダスクを簡単に断つ武器なんて、喉から手が出る程欲しがる連中も多いだろうに。
ロハネは私の足跡を辿るように付いてくる。
ただ、緊張している様子はない。というよりも無関心の色まで垣間見える気がする。それでいい。その方が互いに話しやすい筈だ。
家からアイアスの教会までは歩いて15分程度。時計塔を超え、真っ直ぐ進んだ十字路の南側にある教会。外装は煉瓦造りの建造物が多い街中によく溶け込んでいる。簡素なランプの吊り下がったゲートを潜り、扉をノックする。
少ししてから扉が開き、中から赤毛に檸檬色の目が特徴的な、穏やかな表情の牧師が現れた。軍服ではなく黒いコートにストラを付けている。首元のロザリオは変わらずかけたままだ。
「待っていたよ。さぁ、入ってくれ」
穏やかな牧師…アイアスは扉を開けて中へと2人を促した。一歩入れば、夜の薄闇を抜け、暖かで優しき光の空間が目の前に広がる。この教会を訪れるのは久し振りだ。
中は静まり返っていた。開放感のある吹き抜けにいくつも並べられた長椅子と蓄光石の間接照明器具。奥に据えられた花飾りと簡素な祭壇。壁を囲むようなステンドグラスの窓と、蓄光石が星のように飾られた天井。明かりは全て魔石を使っているらしく、年季の入った蝋燭入りのランタンが隅で置物になっている。
入口の扉を閉めた音は教会の中全体に響き渡った。
「まずは初めまして。君がマークの言っていた賓客だね」
賓客なんて大袈裟な。絶対にマークはそんな風に紹介しない。
アラムの詮索も他所に、アイアスはロハネに一礼して黒手袋を被った手を差し出した。
差し出された方はそれが何なのか分かってないようで、アイアスの顔と差し出された右手を交互に見比べている。
「シェイクハンドよ」
私が手を取るジェスチャーをすると、ロハネは遠慮気味に左手を差し出し、アイアスと握手を交わした。彼は目を細めてにっこりと笑う。
「私は当教会の牧師にして、アルタマイル軍中佐のアイアス・カリヴァンという。どうぞよろしく」
丁寧な挨拶に対し、驚きのポーカーフェイスのロハネだが、ファーストコンタクトはマークよりはずっといい。
「早速だが適当に座ってくれ。話を聞こう」
挨拶が済むと、アイアスは近くの長椅子を指した。私は言われるがままに長椅子に座る。ロハネは座ろうとしなかった。
だが、無理に座らせる必要はないと思い、アイアスが通路を挟んで対面の椅子に座った時に話を切り出す。
「貴方に会わせたかったのは彼。単刀直入に言うけど、未来から来たらしいの」
「ほう?」
アイアスの片眉が吊り上がる。だが、すぐにいつもの穏やかな表情に戻り、ロハネに視線を向けた。
「あぁ、なんとなく分かった。君は今朝、列車を壊した張本人だろう?」
思わず「えっ」と声が出る。まさか、マークがその事を伝えてしまったのか?
目を見合わせる私とロハネの様子を見て、牧師はカラカラと笑う。通話越しに聞いたあの声だ
「安心してくれ。中尉から何か聞いたわけではない。ただ、朝の中尉の顔が少し赤かった気がしてね」
あんな熱で煤けた顔に赤いも青いもあるのか。
「そこからは簡単な推察さ。そんな突飛な出生だとは驚きを禁じ得ないが、大佐と剣を交えて逃げ延びた侵入者には興味があったんでね。会えて嬉しいよ」
あぁ、この言い方。絶対信じてない。白々しい言葉のニュアンスで信じてないぞと仄かしている。わざとらしい言葉の選び方をしていることまで分かる。
「それで、まさか出頭しに来た、なんて言うわけでもあるまい」
出方を伺う視線。私は首を縦に振る。
「そこまで分かってるなら話は早いけど相談したいのは別の事。彼がその未来から来た目的と予言についてよ」
「予言?」
私は一呼吸置いた。間を置くと話すのを躊躇ってしまいそうだ。そうなる前に言葉を絞り出す。
「彼が言うには、4年後にこのアルタマイルは消失してしまう」
私は銅像のように突っ立っているロハネに視線を向ける。
「ねぇ、映像を見せるアレ、もう一度出来るって言ってたよね。アイアスに見せられる?」
ロハネは首を振った。
「サイが無い」
サイ?あのカタナか。
いや、それでも置いてきて正解だと思う。あれは同時に武器でもあるのだから下手に相手を刺激するよりマシだ。
「そういう訳で直に見せる事はできないけど、帝都にない技術、ダスクを断つ武器。そして彼の存在自体。4年後に街が滅びるなんて冗談みたいな話だけど、私はその言葉が真実だと判断するに値する証拠を沢山見た。お願い。私が言う事を信じて欲しいの」
流石のアイアスも黙ってしまった。足を組んで呑気な表情だったものが一変し、中佐として書斎の奥に座っている時と同じ眼になる。遠くからしか見たことがない顔。直視を躊躇ってしまうような恐ろしく冷たい瞳。
「それで、私に何を求めているんだ?」
だけど、アラムは顔を逸さなかった。アイアスだって分かってくれている。アラムを当人以上に理解している。アラムが意味もなく嘘を振り撒くような狂人でもないくらい。でなければここまで真剣な眼にならない。
「最悪の予言に繋がる手掛かりを知っていたら教えて欲しい。何でもいいの。ダスクの動向が変だとか、軍部や人におかしな動きがあるとか」
沈黙は嫌に長く感じた。実際はそれ程長くはなかったと思う。アイアスは「ふむ、」と呟くと、ゆっくりと立ち上がった。
「成程。それは私の手にも余る冗談だ。ではその譫言を信じるべきだと証明してもらおう」
流石恩師。言うことが私と全く一緒。
「まずはミスター。名は何と?」
ロハネは自分に向けられた言葉にアイウェアの奥で一つ瞬きをすると、問い掛けに応える。
「ロハネ・アンデルス」
それを聞いてか聞かずしてか、アイアスは内ポケットに手を忍ばせ、内ポケットから引き抜いた手をロハネに向けた。その手には黒光りする銃が握られていた。自動拳銃。引き抜くと同時にカチリと小気味いい音まで聞こえたが、見れば撃鉄は倒れている。正真正銘、発砲可能な状態だ。
アラムは驚いて頓狂な声を上げてしまったが、銃口を向けられたロハネは微動だにしない所か、表情一つ崩さない。武器を見て少し顎を引いた程度だ。アイウェアの奥の据えた双眸でアイアスを睨み付ける。
空気が凍り付く。だが、一転してアイアスは含み笑いを浮かべた。銃のガードを使って掌でくるりと銃を返し、グリップをロハネに向ける。
「この銃口を自分の頭に当てて引き金を引いてくれ」
『死ね』の言い方が遠まわし過ぎる。どこまで回りくどい言い方をするんだ。
「ストレートに言いなさいよ」
「違う、それを以って証明しろと言いたいんだ。君が異邦から来た存在だと。手段は問わない。まじないでも魔術でも才能でも、何でも使って構わない。敵愾した人をただ一人も殺めなかった君になら出来るはずだ。それを協力の条件としよう」
慈愛と優しさが滲む牧師の顔ではない。合理と規律を遵守する本気の眼だ。本当に撃てと言っている。そこに微塵の冗談も混じっていない。
ロハネは向けられたグリップを掴み、銃の両側面を確認した後、ごく自然な動きでその銃口を自分の側頭部に当てがった。
「ちょっと!」
そのまま発砲してしまうんじゃないかというくらい自然な動きだった。私は思わずロハネの右手を掴む。確かに変容変化出来る怪物なら側頭部を打ち抜くなんて怖くもなんともないのかもしれないが、だからといって何も感じない訳ではないだろう。腕を負傷した時も頭痛を患っていた時も、彼は確かに『痛み』を感じていた筈だ。
「軽い」
制止の為に掴まれた手もお構いなしに、ロハネは引き金を引いた。
パチンッ
銃身から響いたのは薬莢を叩く轟音ではなく、そんな間の抜けた舌打ちのような音。
「弾丸が装填されていない。お前は試す気など無い」
私はそっと腕を離した。ロハネは銃身を反対の手で持って目を丸くした牧師にグリップを差し出す。
豆鉄砲を食らった気分だ。本気にした自分が少し恥ずかしいくらいに。
「…騙したわね」
羞恥を覆い尽くすように湧き上がる怒りの唸り声。対してアイアスは表情を一転させ、カラカラと笑いながら銃を受け取った。
「気を悪くしないでくれ。教会を傷つけたくないし、銃声はご近所にも迷惑だ」
彼は胸ポケットに拳銃を仕舞いながら続ける。
「だが只者ではないのは理解したよ。引き金を引く、までは予想していたけど、まさか撃つ前から弾薬がこもっていないと気付くとは。重さを覚えるまで銃を持っていた事があるのかな?」
「様々なものを持たされた。その武器も然り」
「ほう、興味深い。君はこの帝都で良い傭兵になれるかもしれないね」
一つ間を置き、満足げに、シニカルに笑う。
「その慧眼に免じて話を飲もう。手掛かりを探しているんだったか。私には思い当たる節が無いわけではないんだ」
「本当!?」
アラムが興奮気味に食いついた事に対し、アイアスは人差し指を立てて見せた。
「ただ、君達の探している情報だと保証する訳ではない。上層にすら通達していないが、あくまでも民間の中で起こっている不可思議な事件だ」
ゆっくりとまたたきをし、後ろ手に指を結んだ。
「ここ最近、埋葬した遺体が消える現象が後を断たない。私も墓荒らしを捕まえた時に知ったんだけどね。棺の中を見ても全部空っぽなんだ」
「別の荒らし屋が先に持ち去ったんじゃないの」
「いいや、掘り返した痕跡も棺をこじ開けた破損も無くてね。本当に消えたとしか表しようがないのさ。可笑しな話だろう?」
「何で軍部に連絡しないのよ。そういうのは諜報機関の十八番でしょ」
徐に目を合わせて微笑まれた。あからさまにはぐらかされている。
「愚昧」
ロハネが唐突に口を挟む。檸檬色の視線が再び彼に向けられる。
亀裂の入ったアイウェアの奥の目は苛立ちを隠さない。
「その情報に何の価値がある。アルバートを殺せば事足りる話だと何故分からない」
そこでふと、ロハネを見たアイアスの目が窄まる。そのまま僅かに首を振った。
「…いや、違うか」確かに口の中でそう呟いた。だが、すぐに何事もないようにロハネを指差しながらくるりと私に振り向いた。
「総統…?今、総統を殺すと?」
そんな程度の低い演劇の是非を求めるような目で見られても困る。アラムはわざとらしく肩をいからせ、呆れたジェスチャーを送る。
「駄目だと散々言ったんじゃないか?アラム」
「聞かないのよ。全然」
「…ふうん」
黒手袋を被った手で頬をなぞらえ、その手が顎下を3回さすった所で彼は言った。
「ミスター、総統は座について100年もの間、この街を統治してきた。それを知っての上で言っているのか?総統を殺すと」
そう、100年もの間、この国の総統は政を取り仕切っている。総統は歳を取らないし、歳月を重ねても姿形が変わらない。老いも、窶れもしないのだ。だけど道徳を重んじ、何よりも民を想う統治を行う総統を化け物だ何だと疑う人はこの街にいない。エデンの林檎を食べたとか年月を重ねない才覚者だとか言われている程度で、誰もそんなことを表沙汰にしない。
ロハネは質問に対して頷いてみせる。
「アルバートが存在する限り、この景色も色彩も全て虚栄のままだ。故に殺さなければならない。それが唯一の使命。私はその為に作られた」
淀みない視線。硬く信じている。総統さえ殺せば、どんな形であれ未来は存続されるのだと。
そんな事絶対にあり得る筈がないのに。実際に未来を目の当たりにした私でさえそう思う。総統のお陰でタラストとの不干渉条約が結ばれ、ミストオーナルとの交易によって互いの発展が促された。本当に、一遍の疾しさも無い偉大な人物なのだ。今の総統が死んで喜ぶ人はいないと断言できる。
嘆息。私は半ば諦観にも似た感情を覚えている。
「そこまで言うなら貴方が総統に直接会えばいい」
いくら駄目だと言った所で、ロハネが使命を固く信じている以上聞き入れてもらえるとは思えない。このまま抑止を続けて勝手な行動を起こされるよりは、目がある場所で合わせたほうがマシだ。
アイアスは渋い顔をするかと思いきや、私の意見に深く頷いて見せた。
「私もそう思っていたんだ。近日に祝祭の凱旋がある。一目見るにはうってつけではないか?」
丁度一週間後、街を上げた年に一度の催しがある。厳密には、ミストオーナルとの交易協定記念日。日々の平穏、そして大総統を讃える凱旋。
そこでなら軍隊を伴った総統が民衆の前に姿を現す。アラムもアイアスもマークも関係者の一人として参加する。
勿論、総統の殺害を目論む存在を許した訳ではない。信じているのだ。殺害など考える間もなく、彼を止められると。
荒野しか知らないロハネに、ダスクを退け続ける帝国の武力を、結託を証明する為に。
「君の主張が真実なら、私達とて滅亡は避けたい未来だ。だが、一言一句鵜呑みにして君の横暴を許せる訳ではない。あくまでも私達は治安を維持する軍部の人間。君が総統を殺すと断言した時点で敵対したとしてもおかしくない立場なんだ。尚も君を信じるのは、信頼する軍医の推薦あってのものだ。それを分かっているね?ミスター・ロハネ」
アイウェアの奥から苛立ちの色が消える。ふっ、と無感情になる。まるで感情の外套で自分を装飾するかのように。苛立っていた表情そのものが借り物のように思える。
「肯定。アラムには感謝している」
だけど、アラムを見る瞳と言葉に嘘偽りはないと感じた。笑顔も愛想もないけど、その無表情の奥に本心があるような気がして。
そう言えば名前を呼んでくれたのは初めてだ。
「看過出来ないんだもの。貴方の正体を含めてね」
未だ判断するのは危険かもしれないが、このロハネは存外に話をわかってくれている。此方の立場もアイアスの立場も、殺そうとしている人間がどれだけの重役人かも、全てに理解の姿勢を見せてくれている。忖度の余地がある。恐らくそれは、彼がこのアルタマイルや自身が過ごしてきた荒野に対して何も知らないが為なのだろう。
見聞は酷く狭い。だが彼は賢明だ。無知だが、賢明なのだ。
もしかしたら見つけられるかもしれない。総統を殺さずに滅亡を防げるような都合の良い結末が。
「牧師様!」
ノックもなく、逼迫した甲高い声と共に入口が開け放たれた。
扉の奥から大仰に肩を上下させながら現れたのは、長い金髪をした中年程の女性だ。柄物のワンピースを着こなし、唇に紅をさして耳にはきらりと光るピアスまで付けている。一見して美しい大人の女性、といった印象を受ける。
あの顔を私は知っている。今朝、バザーで果物を売っていたダリィの母親だ。いつもバザーでダリィと果物を売っている。客引きをしているのはいつもダリィで、彼女は店の奥にいる印象がある。私はダリィと話したさによく果物を購入するが、その母親とは顔を知っているだけで話したことは殆どない。
「こんばんは。何か御用ですか?」
余程走ったのだろう。手入れもなく髪が乱れたダリィの母親を見ても普段の調子を崩さないアイアス。言い終わるか終わらないかの所で彼女が叫ぶように訴えた。
「ダリィが…ダリィがいないんです!どこにも!」
「なんですって」
私はアイアスより先に反応して立ち上がってしまった。だって私は今朝会った。早起きして果樹園の果物を収穫して、一人で店頭に立っているダリィの姿を。
「今朝バザーにいるのを見たわ。貴女の代わりに果物を売っていた」
牧師の一点だけを向いていた母親の視線が私とロハネの間を泳ぐ。母親は頭を横に振った。
「でも…今帰ったら居なかったんです!妙な山菜スープがあっただけで姿が、どこにも」
今帰ったら?
それはおかしい。ダリィは今朝、母が風邪だから自分が代わりに立っていると言っていた。それが今帰って、というのは辻褄が合わない。病院に行くにしたってこんな時間になる訳がない。
それにその格好だって風邪気味の人が着る服装だとは思えない。化粧をして、アクセサリーまでチラつかせて、どう見ても外行きの格好だ。
「ちょっと待って、今まで一体どこに…」
問い詰めようとした所を横から口を塞ぐようにぬっと伸びてきた腕に遮られた。アイアスだ。だが、彼の目はアラムに向いていない。一歩、二歩とアラムより前に出て母親に言う。
「状況は分かりました。良くここへ来て下さった。もう大丈夫。貴女のお子様は必ず見つけ出します」
牧師は微笑んでいた。
「その様子では散々探し回ったのでしょう。今日は既に夜も深い。自宅に戻って休まれよ。やがては神が貴女を導きましょう」
水のような声。心に空いた不安を満たす甘い言葉。神なんて自分が一番信じていない癖に。
母親は緊張の糸が切れたように深い溜息をつく。我に帰ったのか、消え入るような声で「どうか、お願いします」と一礼すると、そのまま扉を閉めて教会を去った。
アイアスは言葉で他人を支配しない。優しさで他人を従えてしまう。いっそ才能ではないのかとすら思う。勿論私もアイアスも才覚者ではない、のだけど。
訝しげな視線を送る私に対し、アイアスは振り返ると唇の前に人差し指を当てた。強制力などないのに、しぐさ一つで『静かにしなければならない』と潜在意識に囁きかけてくる。
「アラム。それは『正しい』がモラルがないな」
アイアスは口元にあてた人差し指を首元に移動させながら言う。
「この辺りに複数痣があった。子供を放置して愛人に会っていたのだろう。ああいった人間に正論を説いても逆上するだけだ」
あの短時間で母親の服装、会話と観察でそこまで見抜いたのか。流石に私でも首筋までは確認しなかった。でも、確かにその推察は腑に落ちる。朝からずっと家を開けていたのだろう。まだ幼いダリィをバザーに一人残して。
本当にこの牧師は聡すぎて怖くなる。神への崇拝を謳う癖に、蓋を開ければ中身は合理の化物。ほんの少しだけ牧師としてその発言はどうかとは思うが。
「さて、本来なら失踪事件として通達するものだが。折角だ、捜索に際して手を借りたい」
アイアスは私とロハネを順番に眺めると、微笑んだ。
天の御使いのように朗らかな表情が、私にはとんでもなく嫌らしい笑顔に見えた。




