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【7】 運命の風

 一方、霧を発生させてシグルスの目をくらませたリュイーシャは、リオーネと共にレナンディ号の船倉へと移動していた。誰にも気付かれることなく。

 追尾してくる船を振り切るため、シグルスの手下達は総員が甲板へ召集されていたので、船室には誰も残っていなかったからだ。

 リュイーシャは先程まで入れられていた船倉に戻ると、きょろきょろと辺りを見回した。

 大丈夫だ。誰もここにはいない。

「さ、リオーネ。もう一度だけ樽の中に入って」

 シグルスが用意した衣装箱の後ろには、リュイーシャとリオーネ、二人がなんとか一緒に入れるぐらいの樽が置かれている。

「で、でも姉様」

 蓋を開けると樽からは木の腐った臭気に加え、酸っぱい酒の臭いが漂ってきた。両手で鼻を押さえて、リオーネはさも嫌そうに眉をしかめる。

「お願い」

 リュイーシャの押し殺した声にリオーネは渋々うなずいた。固く強ばったその声からリュイーシャの緊張感を察したのだろう。

 リュイーシャは妹の体を抱えて背の高い樽の縁に手をかけさせると、中に入るのを手伝った。

「リュイーシャ姉様も早く」

 樽の中でリオーネが不安を隠しきれない様子で見上げている。

「ええ」

 樽の縁に手をかけて体を持ち上げ、下にいるリオーネにぶつからないよう注意して中に入る。

「姉様。一体どうなってるの? どうなるの、私達」

 リオーネの問いにリュイーシャは黙って首を振った。

 今はじっと待つしかない。上の騒ぎが収まるまで――。

 リュイーシャはリオーネの肩に手を回してその体を自分の方へ引き寄せた。

 握りしめた妹の手はすっかり冷えきってしまっている。

 どうしてこんなことになったのだろう。

 リュイーシャは自分の両手でリオーネの手を包み込み、冷たくなったそれを温めてやった。

 甲板で海風に当たったせいで冷えたのではない。

 リュイーシャもまた、先の見えない不安に心がおののくのを感じていた。

 形振り構わずいっそ泣きわめけば、気持ちがすっきりするかもしれない。

 でもそれは危険な行為であった。

 自分達の存在は決して知られてはならない。海賊たちにも、そしてシグルスを追ってきた者達にも。

 リュイーシャは叫ぶ代わりにぎゅっと唇を噛みしめた。



 ◇◇◇



 どれくらい時が経っただろう。

 暗闇の中でリュイーシャは天井(甲板)からの音に耳をすませていた。

 甲板で戦闘が起きたのは確かだ。

 霧で海賊達の視界をきかなくさせ、その後徐々に風向きを変えて、彼等が怖れている追跡船の方へ向かうように仕向けた所、思惑通り鉢合わせする結果になったからだ。

 剣と剣がからみ合う金属音や、負傷した人間の叫び声は、船倉まで延々響き渡っていた。

 しかしそれが少し前から途絶えた。

「リオーネ」

 リュイーシャはそっと妹へ声をかけた。リュイーシャにもたれる形で座っていたリオーネの目蓋が静かに開く。

「私、外へ出て様子を見てくるわ。だからリオーネはここで待ってて」

「姉様」

「私はまだ……やることがあるの。でもそれが終わったらすぐ戻ってくるから、リオーネはここでじっとしてて」

「リュイーシャ姉様っ!」

 リュイーシャはゆっくりと立ち上がった。用心のため顔だけ出して周囲を見回す。けれど船倉には誰も降りてきてはいないようだ。

 今のうちだ。

 リュイーシャは樽の縁に手をかけて体を持ち上げると外に出た。

「リュイーシャ姉様……」

 弱々しく呼ぶリオーネの声にリュイーシャは小さく溜息をついて樽の中をのぞきこんだ。

「黙ってここに隠れているのよ。私が戻るまで。いいわね?」

 リオーネをひとりぼっちでこんな樽の中に入れるのは忍びなかった。けれど自分がいなくなった後、誰が船倉にやってくるかわからない。

 リュイーシャは傍らに落ちていた樽の蓋を取り上げた。

「蓋を閉めておくわ。すぐに戻るから、ここにいてね。約束よ?」

「……うん……」

 今にも泣き出しそうなリオーネに向かって、優しく微笑しながらリュイーシャは樽の蓋を閉めた。

   

 ――ごめんね、リオーネ。

  あともうちょっとの辛抱だから……。


 リュイーシャは船倉の暗闇の中で、どきどきと鼓動を刻む己が胸に手を当てた。その高まりは正気が保てなくなるのではないだろうかと思うくらい、どんどん強くなっていく。


 ――落ち着いて。

  焦らないで。そっと、甲板の様子を見に行くの。


 リュイーシャは手探りで船倉から外に出る扉へとたどり着いた。

 それを開けると人ひとりが通れるくらいの細い通路が伸びている。そこをまっすぐ歩いていくと、上の甲板に上がるための梯子へたどり着く。

 この通路にも人の気配はなかった。リュイーシャは梯子まで歩み寄ると、それにとりつきゆっくりと上がっていった。

 船倉の上の甲板はシグルスの手下達の居住区になっているようだ。甲板の真ん中には太いマストが柱のように突き抜け、船壁には細い綱で編まれたハンモックが、二つに折り畳まれた状態でずらりと吊り下げられている。

 リュイーシャがいるのはちょうどレナンディ号の真ん中あたりの場所で、マストの後ろには後部上甲板へ行くための開口部が開いている。ここも梯子が立て掛けられており、その時リュイーシャは人の気配に気付いた。

 聞き慣れない言葉がして、誰かが梯子からこの下甲板へ降りてくる。リュイーシャは咄嗟に回れ右をして、前部――船首側に向かって走り出した。

 船室をまっすぐ走ると、目の前にだらりと灰色の帆布がタペストリーのように垂れ下がっている場所へと出た。

 リュイーシャは振り返ることなくその布を持ち上げて中へと入った。

 とにかく今は姿を誰にもみられたくない。

 身を隠したい一心で飛び込んだ部屋だが、リュイーシャは戸惑った。油のきつい臭いと湿った布の臭いが同時に押し寄せてきたので、息が一瞬できなくなってしまったのだ。

 けれど暗がりに目が慣れてくると、沢山の帆布や長細い木材がそこかしこに積まれているのが見えた。どうやらここは予備の帆などをしまう倉庫のようだ。

 カビ臭い臭いに辟易し、新鮮な空気を求めて辺りを見回すと、四角い光が前方の床を照らしているのが見えた。倉庫から出てその光に誘われるようにリュイーシャは近付いた。

 船首甲板へ出るための開口部が頭上にあった。都合良く梯子も立て掛けられている。

「……」

 またもや後方で人の話し声がした。さっき聞こえた人声と同じだ。

 リュイーシャは迷うことなく梯子にとびつき上へと上がっていった。


   

 ◇◇◇



 黄昏の光は弱くなり、宵闇が辺りを包み込もうとしていた。

 うねる海面と水平線の境目だけが、白っぽく光っている。

 船首部の開口部からそろそろとリュイーシャは這い出した。咄嗟に槍のように突き出た舳先の根元へ背中を押し付けて身を隠し、甲板の様子をうかがった。

「……!」

 人が倒れている。ここから少し離れた、丁度船の真ん中あたりの甲板に。

 一人や二人ではない。見た所十数人。ある者はうつぶせに。ある者は船縁に寄りかかるように。

 彼等はシグルスの手下達だろう。もっとも、彼等の姿は甲板に出た時ちらりとしかみなかったが、雰囲気でそれと知れた。

 おそらく彼等は死んでいるのだ。微動だにしないその体を、白い服に濃紺のズボンをはいた数人の見慣れぬ男たちが、戸板に載せ、船縁から海に向かって黙々と投げ込んでいる。

 リュイーシャは思わず両手で口を覆い、出てきた嗚咽を飲み込んだ。額から冷たい汗が流れ落ちる。彼等はリュイーシャの目論みのせいで死んだのだ。

   

 ばしゃん。

 甲板に倒れ伏していた最後の一人が舷側から暗い海へと投げ込まれた。

 白い服を着た男達は、その作業を中央のマストのそばで見守っていた、背の高い士官の命令で、自分達が乗って来た船に帰っていく。シグルスの船と彼等の船の間には、細長い板が渡されて、自由に行き来ができるようになっているようだ。

 今、レナンディ号の甲板に残っているのは背の高い軍服の男が一人。

 そして後は、下の甲板に降りているのが数人か。

 リュイーシャは早まる鼓動を必死に抑えながら、ちらと前方のマストへ視線を向けた。

 追跡を振り切るため、レナンディ号は三本のマストにすべての帆を広げていたが、今それらはだらりと力なく垂れ下がっていた。

 風は微風で、帆のすそを小さくはためかす程度の強さしかない。

 リュイーシャはやおら立ち上がった。


 ――今だ。


 右手を頭上へ高々と差し上げ、あらんかぎりの声で風を呼ぶ。

 この風に乗って逃げるのだ。

 何もかもすべてから。


『駆ける者よ――今こそそなたの翼で飛ぶ時が来た!』



 レナンディ号の右後方から突如激しい風が吹き出した。穏やかだった宵闇の海に、強風にあおられて白い鋭利な三角波が生まれていく。

 生気を失っていた帆は勢い良くそれをはらんだが、レナンディ号の甲板はぶつかってきた波のせいで大きく左右に揺れた。

 男達が叫び声を上げる。彼等の船もまた突風のせいで安定を失い、激しく船体が揺さぶられたのだ。

「ああっ」

 思ってもみなかった船の揺れに、リュイーシャは甲板へ半ば倒れるようにうずくまった。ざらついた甲板に両手を付き、崩れた体を支える。背に流していた金の髪が乱れ、顔にまとわりつく。

 それらを払いのけながら、リュイーシャは目の前の光景に愕然となった。

「どうして……?」

 帆が風をはらめば船は前進すると単純に思っていた。

 けれどレナンディ号の帆は折角起こした風をうまくはらんではいなかった。

 雷鳴のような音を立てて、帆が波打ちながら激しくばたついている。

 こんな状態で船は前進しているのだろうか。けれどそれよりももっと恐ろしい光景に、リュイーシャの目は釘付けになっていた。

 マストに対して垂直に取り付けられている帆桁から伸びた上げ綱が、甲板を鞭のように打ちつけ、狂ったように跳ね回っているのだ。

 上げ綱は人力で大きな帆を上げることができるよう、木製の滑車がついている。中にはリュイーシャの頭ぐらいある大きなものがある。

 しかもそれらが強風のあおりを喰らって、ぶらぶらと振り子のように揺れていた。

 一つや二つではない。百以上の滑車がめくら一方に揺れている。これらが万一落下すれば、人間の頭蓋など容易く割れてしまうだろう。

   

 風を止めなければ。

 甲板に座り込んだリュイーシャは、せめてその強さを弱めようと顔を上げた。が、背後でびりびりと帆が破ける大きな音に驚き、思わず振り返った。

 灰色の布の切れ端が上空へ飛んでいく。 

 舳先に上げられていた三枚の三角帆が、風に耐えきれず千切れ飛んだのだ。

 けれど帆が引き裂かれただけではすまなかった。

 それらの帆の上げ綱は、舳先から十歩ほど離れたフォアマストの前の綱止めの棒に、横一列に巻き付けられ固定されていた。けれど帆と一緒に、綱止めの太い棒も引き抜かれ、上空へ舞い上がったのである。


 リュイーシャは恐怖のあまりその場から動くことができなかった。

 棍棒のような太いそれが、まさにリュイーシャの頭上めがけて落下してきたのだ。

 ガツン!

 最初の一本がリュイーシャの目の前の甲板に落ちて前方へ跳ねた。

 ビシッ!

 次の一本が右舷の船縁を掠めてぶつかり、その衝撃で真っ二つにへし折れた。

 折れた破片がくるくる舞い、リュイ-シャめがけて飛んでくる。

「――――!」

 リュイーシャは目をつぶり体を竦ませた。

 うなる破片の音のみがしんとした静寂の中で響き、ふと、死を意識した。

 シグルスを追跡してきた者達を利用して、双方を戦わせたのはこの私。

 だから報いを受けるのだ。きっと――。

 けれど待てども破片がリュイーシャの体に突き刺さる気配はなかった。

 その代わり、耳慣れない言葉が降ってきた。


<じっとしていろ>


 リュイーシャは目を開いた。

 耳に聞こえた言葉は異国のものらしく、何と言ったか理解できなかったが、心に響いた声はそう聞こえた。

 落ち着いた深みのある男の声だった。

 今の声は一体何処から?

 顔を上げると目の前には広い背中があった。

 まるでリュイーシャを庇う盾のように、片膝を甲板についた見知らぬ男がそこにいた。

 男は裾の長い濃紺の軍服を身に纏い、左腕を少し曲げ、それを前方に突き出した体勢で、リュイーシャに顔を向けている。軍服の襟足にかかる濃い金髪は、後方へ無造作にかきあげられており、その横顔は通った鼻梁が猛禽の類いを彷佛させるように鋭利であった。

 青白い宵闇の中、きらりと男の瞳が光った。

 シグルスより若く、けれどシグルスよりどこか年経た雰囲気を持った青年の目――。

 何故こんな船にリュイーシャがいるのかわからない。

 そう言いたげに、不思議そうに、軍服を纏った青年はじっとこちらを見つめていた。

 その時リュイーシャは気付いた。

 彼の左腕には自分に突き刺さるはずだった木片が、肘の少し上の辺りに食い込んでいることを。

 リュイーシャがそれを見ている事に気付いた青年は、唇を一瞬歪めて顔色を変える事なく、何事もなかったように、木片を右手でむずと掴んだ。そして一気にそれを引き抜くと、誰もいない後方へと投げ捨てた。


<ここに座って動くんじゃない>


 青年の言葉はやはりリュイーシャにはわからなかったが、それでも彼が何を言っているのか心では感じる事ができた。

 リュイーシャはうなずいた。

 木片を受けた左腕の傷は大丈夫だろうか。

 リュイーシャの心配を他所に、青年は軍服の裾を翻して立ち上がった。そして跳ね回る上げ綱に近付くと、動じることなく、それらを捕まえては手際良く船縁近くの綱止めへと巻き付けていった。

 一本、二本。

 そして後ろの甲板に向かって何事かを命じるように叫んだ。

 青年と同じ色の軍服をまとった男が二人いて、一人が舵輪にとりつき、もう一人が緩みかけた上げ綱を再びしっかりと結び直している。

 甲板はリュイーシャならまともに立っていられないほど左右にぐらぐらと揺れている。けれど彼等はあの金髪の青年が命ずるまま、着々と乱れた帆を整え、上げ綱を綱止めに巻き付けていく。

 整然と作業に励むその姿には賞賛を贈りたくなる。

 そこでリュイーシャは我に返った。

 風を止めなければ……。

 リュイーシャは心から自分の行為を悔いた。無知さを悔いた。


 ――私は、逃げたかった。

   シグルスから。

   海賊から。

   彼等を追う謎の船から。

   今の自分の置かれた境遇から。

   何もかもに背を向けて、どこでもいい。

   とにかくここから離れたかった。



 リュイーシャは舳先の手前の甲板に座り込んだまま、そっと天を仰いだ。


 ――ありがとう。もういいわ。

   『――駆ける者よ』



 風の勢いはみるみるなくなり、リュイーシャの頬を撫でるそよ風へと変わっていった。

 リュイーシャは頬に手を添え息を吐いた。

 全てはもうお終いだ。

 船を動かす目論みは失敗し、今度はシグルスを追っていた連中の虜となるのだ。

 なんだかとても疲れてしまった。

 何よりも心が一気に磨耗してしまった感じだ。

 けだるい疲労感に身を任せ目を閉じる間際、真っ黒な空に青く輝く星が見えた。

 

<おい、大丈夫か?>

   

 それは星ではなかった。

 誰かがリュイーシャの肩を揺さぶっている。

 塞がりかけた目蓋をなんとか開いてみると、あの軍服の青年がリュイーシャの顔をのぞきこんでいた。

 どことなく父カイゼルを思いださせるような、優しい光が青灰色の瞳に宿っている。青年はリュイーシャのことを気遣うように眉間をしかめながら、穏やかな口調で語りかけてきた。


<見た所、シグルスの仲間ではなさそうだな。あの男に捕まっていたのか? 他に捕えられている者はいるのか?>

 青年はかなり背が高いのだろう。リュイーシャの肩を遠慮がちに支えるその手は若木のように長細くてとても大きい。

 リュイーシャはふと、海に抱かれている時に感じる安心感を目の前の男から感じとった。

 例えるならそれは、何事にも動じず、大波がぶつかっても存在し続ける雄々しき巌――。

「あなたは……だれ……?」

 リュイーシャは掠れた声でそれだけを青年に訊ねた。

 青年は一瞬金の眉をひそめ、リュイーシャの顔を黙って見つめ続けた。

「リュニスの、者か。貴女、は」

 息を飲んだのはリュイーシャの方だった。

 少しつっかえた言い方だが、青年はリュイーシャと同じ言葉で答えたのだ。

 視線が合うと青年ははにかんだように唇を歪ませた。

 その時だけ、落ち着いた印象を受ける瞳が、照れたように細められた。

「リュニスの西海語を話すのは、随分と久しぶりだったから。私のいう意味が、わからなかったら、聞き返してくれないか」

「お話……よく、わかります」

 リュイーシャは肩に載せられた青年の手に自らのそれを重ねた。

「支えて下さってありがとうございます。もう……大丈夫……」

 青年はリュイーシャの顔を心配げに覗き込みながら、意味を察したのか触れていた肩からゆっくりと手を離した。まるで壊れ物を扱うように、慎重な仕種で。リュイーシャのことを気遣っている様子が傍目でもうかがえた。

「けれど顔色が悪い。どこか怪我は?」

 先程より流暢になった青年の言葉に、リュイーシャは思わず「大丈夫です」と頭を振って答えた。うっすらと微笑する。

 だが次の瞬間、そんな自分にリュイーシャは恐ろしさを感じた。

 まだこの青年が自分の味方になるか、それとも敵になるのかわからないというのに。

 心の奥底でははや気を許しかけている自分がいる。

 いろんなことが一度に起きたせいで、今の自分は正しい判断が下せない、危うい精神状態にあるのだろう。

 溺れる者は藁をも掴む。

 今の苦境から逃れたいばかりに、後先考えず、手近なものに片っ端から救いを求めてしまう。

 それがどれほど危ない事か。

 シグルスの件で嫌と言うほど思い知らされたのに……。

   

 そんなことをぼんやりと考えていたリュイーシャは、ふと青年の左手から、鮮血が細い川のように伝い甲板へ滴り落ちていることに気が付いた。

 銀の飾り縁で彩られた軍服の袖口が、引き裂かれたようになっている事にも。

 そう。この青年はリュイーシャの命を身をもって助けてくれたのだ。

「ごめんなさい。私のせいで、あなたが怪我を」

 青年はそっと右手を左腕に添えた。ふっと唇の端で笑う。

「腕を掠めただけなので心配することはない。それよりも仕立てたばかりの軍服の袖口の方が、悲惨な事になっている」

 青年は溜息をつきながら、破れて穴の開いた袖口を見やった。

「まあ、こちらも大事ない。エルシーアへ帰るまで、しばらく本部へ呼び出される事もないからな」

「エルシーア……?」

 青年はゆっくりとうなずいて立ち上がった。

 思った通り、船のマストを思わせるような、見上げるように背の高い男だった。

<ハーヴェイ! 風が止んで来た。裏帆をうたせて一時停船だ>

 青年はリュイーシャに背を向けて、こちらへやってくる軍服を着た士官にエルシーア語で命じた。

<了解しました。ウェッジ航海長に伝えます! グラヴェール艦長>

 青年は士官の返答を確認して、やおら右舷の船縁へと寄った。

 どの索がどの帆に繋がっているのか。

 リュイーシャでは到底わからない、幾つもある上げ綱の一つを掴み、猛烈な勢いでそれを引っ張る。

 頭上で木材が軋む音がする。

 どうやら帆の角度を変えているようだ。

 リュイーシャはそれをじっと見つめていた。

 あの青年が何者であるか。

 一つだけ確かに言える。

 それは『船乗り』だということ。



 リュイーシャは船乗りといえば、島に真珠を買い付けに来る商人しか知らなかった。けれど彼等は厳密にいえば、自分の船を動かす水夫を雇って航海しているにすぎず、本物の『船乗り』ではない。

 リュイーシャが知る『船乗り』は、父カイゼルのみだ。

 リュニス本国の島から遠く離れた三日月の島クレスタへはるばる航海してきた父は、子守唄代わりにその時のことを話してくれたものだ。

 この人は『船乗り』だ。

 潮を読み風を読み、船を操る『船乗り』だ。


 膨らみ過ぎていた帆は風が抜け、ばたばたと再び音を立てて鳴りだした。

 風上に舳先を立てたレナンディ号は、船足をみるみる落としていく。

 リュイーシャは船の揺れが今はそれほど酷くなく、何も支えがなくても立ち上がれるほど収まったことに気が付いた。

「あなたは……」

 リュイーシャは立ち上がった。

 一番前のマストに上げられた、三枚の四角い帆の向きを変えた青年は、船縁の綱止めの棒にぐるぐると上げ綱を巻き付け固定している所だった。

 その手際の良さについ目を奪われていると、振り返った青年と目があった。

 青年は作業を終えて、再びリュイーシャの方へ歩いて来た。

 無造作に後ろへかき上げられている髪を、金色の獅子の鬣のようになびかせながら。

「私はエルシーア海軍のアドビス・グラヴェール。このレナンディ号を我が海軍から奪い、逃走していた賊を追ってここへ来た。貴女は?」

 リュイーシャは名乗った青年――アドビスに向かって腰を折り頭を垂れた。

 今はこの青年に自分とリオーネの運命をゆだねるしかない。

 見知らぬ女のために、己が傷つくことを恐れず、命を助けてくれたアドビスに。

 彼が高潔な魂を持つ者と信じて、再度その正義を信じてみるしかない。 

 

「……私の名はリュイーシャ。それから、船倉に妹がいます。どうか私達を助けて下さい。お願いです」

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