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【6】 白き霧の中で

『……さま』

『リュイーシャ、姉様……』


 かすかな声がする。自分を呼ぶ声が聞こえる。

 それは助けを求める島民のものではなく、もっと身近で知った声だ。

 それに導かれるまま、リュイーシャは静かに目蓋を開いた。



「リュイーシャ姉様っ!」

 首筋に誰かが手を回して抱きついている。そちらへ顔をゆっくりと向けてみると、新緑の瞳に涙を一杯に溜めた妹リオーネの小さな顔があった。

「リオーネ!」

 リュイーシャは身を起こして、咄嗟に妹の華奢な体に腕を回した。

 ぎゅっと抱き締めるとリオーネもぐっと抱きしめ返す。

「よかった。無事でよかった」

「わ、私だって、姉様のこと、すごく心配してたんだから……!」

 リュイーシャとリオーネはお互いがそこにいることを確認し合った。

   



「ここはあの眼帯の男の船?」

 ようやくリオーネから腕を離し、リュイーシャは辺りを見回した。

 船に乗せられている事はわかる。船腹を叩く波の音が聞こえるし、上下左右問わず辺りはひっきりなしに揺れている。

 ここは船倉の一つだろうか。かびくさい湿った臭いが立ち込めている。

 低い木の天井に吊り下げられたランプがぎしぎし音を立てて揺れながら、橙の光をあちこちに投げかけている。その弱い明かりは、船壁に沿っていくつもの樽や木箱が積まれている様子を照らしていた。

 樽の一つはリュイーシャぐらいなら中に入る事ができるほど大きい。

 それにじっと視線をこらすと、リオーネが溜息をつきながらつぶやいた。

「あの片目のおじさんったら、私と姉様を樽に入れてこの船に運んだのよ」

「片目の……おじさん? ……樽?」

 リュイーシャは一瞬それが誰かわからなかった。

 けれどシグルスの顔を思いだして、ああそうかとうなずいた。

 リオーネはまだ十三才。シグルスは三十前。

 幼いリオーネからみれば、あの男ははや『おじさん』と呼ばれる年なのだろう。

「そうよ。私、姉様の所に行きたいなら、どんなこともがまんしろっておじさんに言われたの。だから、がまんしたわ。樽の中、すごくお酒くさくて頭がくらくらして、はきそうになったけど、姉様が一緒だったからがまんしたの」

 ああ、そのせいだろうか。

 先程から辺りに立ちこめる湿気た不快な臭いは。

 リュイーシャは急にきれいな水が欲しいと思った。

 清水じゃなくていい。海に飛び込んで泳げたらどんなに良いかと思った。

「あ、姉様、お腹すいてない? お水も少しだけど、あのおじさんが持ってきてくれたの」

 リオーネは後ろの暗がりから籐籠の包みを引っぱりだした。白い素焼きの水瓶と新鮮な果実の匂いがする。焼きしめた香ばしいパンの匂いもする。

 リュイーシャはそれを黙ったまま見つめた。

 絶食していたので急に空腹を感じたせいでもあるが、思いのほかリオーネがしっかりしているので安心したのだ。

 いや――妹は自分を心配させたくなくて、それで幼いながらも、何でもないように、気丈にふるまっているに違いない。

 昔からそうだった。

 ともすれば風や海の語りかける声に夢中になり、時が経つのを忘れ、海岸に出ずっぱりの自分を心配して呼びに来るのはリオーネだった。

「姉様。あのおじさんね、服もいくつか持ってきてくれたの。姉様の後ろに木の箱があるでしょ? あの中に入っているから好きなのを着ればいいって」

「うん……」

「食事が終わったら、姉様の髪、梳かなくっちゃ。すぐ元のきれいなお月さまの光みたいに光るようにしてあげる!」

「うん……」

 リュイーシャはリオーネの言うことに小さく返事をした。

 今はリオーネがやりたいと思った事をさせたほうがいい。

 その方が何も考えなくて済む。

 島で起こった数々の悲しみを思いださずに済む。

 そして何よりも、これから自分達がどんな風に生きていくのか、それを考えずに済む。




 リュイーシャはロードの船に乗せられ島を離れて以来、まともな食事を口にした。といっても、一度に沢山は食べられなかったので、葡萄の房から何粒かつまみ、水瓶の水を飲んだ。島長の館の裏に湧く泉のように新鮮な水だった。

 リュイーシャはかいがいしく世話を焼くリオーネに勧められるまま、彼女いわく『片目のおじさん』と異名をつけられた、シグルスの用意した服を物色した。

 その大半はきらびやかな生地で織られた、見たことのない異国の服だった。

 裾は大きくふくらみ、背中がざっくりと開いている。透かしの入った綺麗な布が幾重にもひだになってついていて、その見慣れない衣装の形にリュイーシャとリオーネは戸惑いを覚えた。

 クレスタの女性の衣装は、それぞれの家に伝わる独特の模様で染めた一枚の大きな布だ。それを何種類かある巻き方で体に巻き付け、お気に入りの石がついた宝飾具で留める。もしくは、布を肩から羽織って腰の所で、飾り帯びか紐で結ぶ。

 リュイーシャは結局箱の中にあった一枚の布を選んだ。異国の服は普段着として着るには華やかすぎて気がひけたのだ。

 艶やかな光沢を放つ瑠璃色のそれはマントなのだが、リュイーシャは手早くそれに身をつつみ、肌身離さずつけていた宝飾具で余った部分の布を肩で留めた。リオーネも体に合う大きさの服がみあたらなかったので、実はストールなのだが、薄緑色の手ごろな長さのそれを体に巻き付けた。

 シグルスが何か文句を言いそうだが、まあ、今はこれでよしとしておこう。

 薄暗い船倉で、リオーネとリュイーシャは顔を見合わせて微笑んだ。




「おい、起きてるか?」

 扉を叩く音がしたかと思うと、男のくぐもった声が聞こえた。

『片目のおじさん』――シグルスだ。

「……起きています」

 リュイーシャは咄嗟にリオーネを手元に引き寄せ、その肩を抱いた。

 目の前の扉がゆっくりと開く。右手にランプを手にしたシグルスが、リュイーシャとリオーネを見て、薄い唇に笑みを浮かべた。

 この隻眼の海賊は相変わらず黒衣をまとっている。ランプの光がなければ周囲の闇に溶けてしまっているだろう。

「離れ離れになっていた姉妹は、無事に感動の再会を果たしたと言うわけだな」

 リュイーシャは油断なくシグルスの顔を見つめていた。

「ロードの船ではないのですね。ここは」

 シグルスの笑みが嫌味ったらしく引きつった。

「疑り深いな。妹は実に素直でいい娘なのに。ああここは俺の船レナンディ号だ。ロードの船とは一昨日おさらばした」

「……そう、ですか」

 リュイーシャはほっと息をついた。

「大丈夫よ、姉様。片目のおじさんは本当のことを言ってるわ」

 リオーネがリュイーシャの右手をそっとつかんだ。小さくうなずく。

 一体どちらが姉なのか。

 励まされているのは自分の方ばかりだ。

 ただ、リュイーシャは風の気持ちが読めるが、リオーネは人々の気持ちを感じる能力に長けている。そのリオーネがシグルスに気を許しているということは、あの男はロードのような人間ではないということだ。

「ありがとうございました。あなたは約束を果たして、私とリオーネを船に乗せてくれました」

「まあ、礼を言うのは構わんが、俺としては早速、海神の巫女姫さまにお願いしたいことがあってここへ来た」

 リュイーシャはきゅっと唇を噛みしめた。

 シグルスの顔が困ったように歪むのを見たからだ。

「甲板へ上がってくれ。妹も一緒に来ても構わんが……」

「行く! 姉様と離れたくないもん」

 リオーネがリュイーシャの右手を掴みながら叫んだ。




   ◇◇◇




「ちょっと厄介な事になったのさ」

「厄介なこと?」

「ああ」

  シグルスの後に続いてリュイーシャは上甲板へ出る梯子を登った。リオーネも戸惑いながらそれを登る。上をみると四角い空が見える。雲一つない蒼空。先に梯子を登ったシグルスがリュイーシャに手を貸す。リュイーシャはリオーネの手を引っ張り、甲板へ出る。

 弱い風が甲板に出たリュイーシャの金の髪と瑠璃色の衣(実はマント)を膨らませて消えた。

 レナンディ号――駆ける者。

 古き風の名前をつけられたシグルスの船は、三本マストの中型船だ。

 総帆を広げたかの船はぎしぎしとマストや帆桁をしならせて、北に向かって進んでいる。甲板の上ではシグルスの手下達三十名ほどがせわしなく動き回り、舷側に並んだそれぞれの帆を操作する上げ綱へ手をかけている。上半身をむき出しにした筋骨たくましい金髪の男が、中央のマストの下で彼等に向かい怒声を上げた。

「風を逃すな! 追いつかれるぞ! 帆を回せ。ぐずぐずするな!」

「引け! 引っぱれ! 金鷹のエジキになりたいか!?」

 男達は甲板に現れたリュイーシャに気付かないのか見向きもしない。いや、顔をあげる暇もないのだろう。それぞれが皆一心不乱に、帆を吊している四つの帆桁を旋回させるため索を引っ張っている。

 遥か頭上の方で、木と木が擦れ合う鈍い音がする。

 それに目を奪われていると、シグルスがリュイーシャの腕を引っ張った。

「タチの悪い船に追いかけられてるのさ。後ろを見ろ」

 シグルスに言われるまま、リュイーシャは振り返った。隣にいるリオーネはすでにそちらをじっと見つめている。黄昏はじめた淡い橙色の水平線に、レナンディ号より大きな船影が見える。

「日が沈めば逃げ切れるが、あと三時間後だ。このままでは追いつかれる」

「あの船は何? ロードの船?」

 シグルスは右手を上げて頭を掻いた。漆黒の瞳がぐっと細められる。

「ロードより厄介だ。くそっ! こんなところで遭うなんて思いもしなかった。リュニスとの境界は千リール先だぞ! 領海侵犯してまで追ってくるとはエルシーアの金鷹め。さてはずっと俺を探していたな」

「エルシーア……?」

 聞き慣れぬその名前にリュイーシャは小首を傾げた。そして再び後方から追ってくる船に視線を向けた。ロードの黒塗りの船と同じように重厚なそれは、レナンディ号を射程距離に捕えようと、満帆になった帆を夕日に赤く染めながら、確実に追いつきつつあった。

 シグルスはちっと舌打ちして、リュイーシャの肩に右手を置いた。黒い革手袋をはめたシグルスの指にぐっと力が込められる。

 シグルスの額には小さな汗の粒が光っていた。

 隻眼の海賊が珍しく焦りを面に出している。

「とにかく奴から逃げなくてはならないんだ。海神の巫女。あんたの力で突風でもなんでもいい! 風を呼んであの船を沈めてくれ」

「それはできないわ。姉様の力は皆を守るためにあるんだから!」

 リオーネだった。

  リュイーシャの右手をぎゅっと握りしめ、緩く毛先が巻いた白金の髪を揺らし、シグルスを真っ向から睨み付けている。

「……ん、だと?」

 歯を見せてシグルスが狼狽する。

「妹の言う通り、私の力は人の命を奪う事には使えません」

「なぜだっ!」

「海神・青の女王さまに私はそういう誓いを立てているからです。私利私欲でそれが破られた時、海神は怒り、この船もろとも沈める大嵐を起こすでしょう。私の命が尽きるまで、海神の嵐は続きます。誰もその嵐から逃れる事はできない。暗く青き深淵へ皆飲み込まれてしまうのです」

「……くっ!」

 シグルスはぎりと奥歯を噛みしめ、リュイーシャをただ一つ残された左目でにらみつけた。必死にいら立ちを抑えている様子だった。

「じゃ、じゃあ、お前は何ができる!? あいつから逃げるために、何か手はないのか? でも風を呼ぶのは駄目だ。あっちの船の方が俺のレナンディ号より張れる帆の数が多い。追いつかれることに変わりがない」

 リュイーシャはシグルスが腕を組み、いらいらと後方を眺め、さらにその距離が縮んだ事に唇を震わせている様を黙ったまま眺めた。

 密やかにつぶやく。

「霧を呼びましょうか。要はあの船から身を隠す事が必要なのでしょう?」

「そんなことができるのか? じゃあ、やってくれ。三時間もてばいい。日が暮れれば針路を変えて奴をまくことができる」

 リュイーシャは力強くうなずいた。

「早くしろ」

 シグルスがせきたてる。

 リュイーシャは心配するな、という風に青緑の瞳を細め微笑した。

 あなたは何に怯えているの?

 安心して。

 ロードの船から連れ出してくれたお礼は必ずするから。

 額に冷や汗を浮かべるシグルスを一瞥し、リュイーシャはリオーネと手を繋いで右舷の船縁へ寄った。そこから海を覗くと船の立てる航跡が白く足跡のように連なっているのが見えた。

 額にかかる前髪を白く細い指で梳き、リュイーシャはリオーネにやっと聞こえるほどの小声で話しかけた。

「リオーネ。これから霧を呼ぶわ。とても濃い霧を呼ぶから、私の手を絶対離しちゃだめよ」

 こっくりとリオーネがうなずいた。

「わかったわ。姉様」

 海で霧を呼ぶのは容易い。天気は晴れていても曇っていても構わない。

 空気中に必要な水分は海水で補えるからだ。

 リュイーシャは瞳を閉じた。海神に仕える証である海色の指輪をはめた左手を胸の上に軽くつける。そして祈った。偉大なる海の母に。


『青の女王さま。この海域に白き帳を降ろして下さい。海を往く『駆ける者』にしばし霧の衣を纏わせて下さい――』





 風が弱まっていく。

『おいおい。風がなくなったら逃げられないじゃないか』

 シグルスは焦りを顔に出すまいと、手すりを掴む指に力を込めた。

 けれどそう思うのは早急だったらしい。晴天だった空が薄雲に覆われたかと思うと別の風が後方より吹いてきた。雲がさらに厚さを増すと、西日の光が灰色にくすみ、やがてそれはじめっとした風と共にやってきた白い霧のせいで、完全に輝きを失った。

 レナンディ号の甲板もひやりとした霧に包まれていく。

「霧だ」

「おお、これで奴をまくことができるぜ船長」

「そうだな」

  シグルスは舵輪の側に移動して、後方から追ってくる船の方角を見納めた。

 南南西。約千リール。

 後二時間あれば確実に追いつくことができる距離だ。

 それを確認し終えた途端、霧が流れてきてシグルスの視界を白い世界へと変えていった。追撃者の船影が霧の海へと消えていく。

 すべては幻だと思ってしまうかのように。


『早いな。これほど早く霧が出てくるとは思わなかった。とんだ拾い物だな。海神の巫女はこういう力も持っているのか』


 シグルスは唇を歪ませ密かに内心感嘆した。もはや後は何も見えない。白い霧が暗幕のようにたれ込めてしまっているからだ。

 レナンディ号の平たんな甲板も、船首から三本並んでそびえるマストが朧げに黒く見えてはいるが、それも直に霧に飲まれ見えなくなりそうだ。

 シグルスは傍らに立っていた年嵩の水夫長を呼び、これから日没までの三時間、話をすること、音を立てる事を一切しないように、全員に徹底させろと命じた。

 水夫長はそれを黙ってうなずくことで返事をし、早速シグルスの命令に従ってみせた。

「船長、船長!」

 横から小さな囁き声で操舵手見習いのクロウリーがシグルスを呼んだ。

 シグルスは眉間をしかめ、舵輪の側に寄ると二十代の若き舵手の耳を容赦なく引っ張った。

「俺の命令が聞こえなかったのか? クロウリー!」

 茶色の伸ばしっぱなしの髪を一つにひっつめたクロウリーは、すいませんと小さく謝りつつ、瞳にうっすらと涙を浮かべていた。

 シグルスに耳を掴まれて、それがよほど激しく痛んだのだろう。

「船長、すいません。こう霧が深くては、船がどっちに向かって進んでるのかさっぱりわからないんですよ~」

 シグルスは嘆息した。

 霧はさらに深まり、二リール前方にあるミズンマストすら見えなくなっていた。視界はゼロだ。確かにクロウリーの言う通り、舵取りの方向を指示してやらないと恐ろしい事になる。

「ロジンのおやっさんの具合は悪いのか?」

「はい。一昨日酔っぱらって昇降口の梯子から落っこちたじゃないですか。ロッソの見立てじゃ右腕が折れてるらしく。当分舵輪は握れないって話でして……」

 シグルスは思わず額に手を当てた。

「じゃ、弟子のお前が何とかするしかないだろ。いいかクロウリー。お前は羅針盤だけをじっと見てれば良いんだ。俺がいいというまで、針が北かやや北西を向くようそれだけに集中して舵を取れ」

 シグルスはぐっとクロウリーのシャツの襟を掴んで、綱玉のように光る瞳で舵手見習いを睨み付けた。ドスを聞かせた低音で囁く。

「北か、やや北西だ。わかったな?」

「……わ、わかりました。シグルス船長」

「よし。今から音を立てる事は禁止だ。破ったら即、海へたたき落として、お前とは『さようなら』してやるからな」

「……」

 操舵手見習いは唇を青ざめさせてうなずいた。

 クロウリーの襟から荒々しく手を離し、シグルスは他の手下たちがどうしているか様子を見るため舵輪から離れた。

『そうだ。あの海神の巫女の所へ行って、船室へ案内してやろう。ばたばたしていたから船倉に取りあえず入れておいたが、落ち着ける場所が必要だろう。手下共の目にも触れさせたくないしな』

 シグルスは左目をそっとこすった。

『それにしても霧が深いな。さらに濃くなった。どこに何があるかわかっているとはいえ……』

 シグルスは目の前にいた手下の背中をそっと叩いた。

 あやうく汗臭いそれへ顔をぶつけるところだった。冗談じゃない。

「ウルカ。今のうちにほどいた索を綱止めに巻いておけ。転んだら音がするからな」

 ウルカと呼ばれた色黒の手下は、突如現れたシグルスに驚いて声を上げかけたのか両手で自らの口を塞いだ。

「……」

 了解した証拠に目を動かしてシグルスに答える。

『それにしても……』

 シグルスはミズンマストに片手を置いた。

 そのまま右に五歩歩く。マストを横から支える梯子状の静索が、白い霧の中からふっと影となって浮かび上がる。

 シグルスは右手を出して船縁につかまった。霧のせいか湿っている。

『確か、ここで霧を呼んでいたはずだ。あの娘は――』

 手すりに左手を乗せたまま、シグルスは船尾の方へ向かってまっすぐ歩いた。最後尾まで歩きつめる。

『いない……?』

 きりきりという小さな音が耳についたが、それは操舵手のクロウリーが舵輪を回しているため立てている音である。

 船尾は他に人の気配がない。足音もない。

 あの二人は裸足だから、もともと足音など立てない。

 シグルスは目をしばたき、今度は船尾から船首方向へと船縁沿いに歩いていった。

 途中何人かの手下たちと出くわしたが、あの海神の巫女とその妹の姿がおかしなことに全く見当たらない。

 シグルスは息を詰めた。目の前のじっとりとした白い霧が、自分の体を覆うようについてくるような気がする。

『どこに行きやがったんだ? ひょっとして甲板は寒いから船内に入ったのか?』

 シグルスは念のためもう一度、今いる船首甲板から船縁を伝ってぐるりと甲板を一周してみた。

 それほど大きな船ではないので、あっという間に元の位置へ戻る。

 手下達にきいてみたが、誰もあの二人の姿は見ていないと言う。

『やはり中へ入ったか。霧が冷たいからな……』

 シグルスがそう思った時だった。

 音が聞こえた。

 上げ綱が海面を打つようなぴしゃんという音と、意外な事に――それは大勢の人間があげた閧の声だった。

『何っ……!』

 シグルスは目を剥いた。

 絹を幾重にも重ねたような霧が破れ、そこからレナンディ号より数倍長い舳先を黄金の槍のように突き出した船が、真正面から出現したのである。

 剣を持った戦士が互いの体めがけて攻撃を繰り出すように、レナンディ号の黒い舳先と追跡船の金色の舳先が交差する。

『何故だ。何故奴の船がこんなところに――!?』

 シグルスは訳がわからぬまま力の限り叫んだ。

「クロウリー! 取り舵! 目一杯回せーーっ! ぶつかるぞ!! がっ!」

 シグルスは咄嗟に近くの船縁に両手でつかまって、衝突の揺れから体を支えた。転舵を叫ぶ声も虚しく、レナンディ号は前から現れた船と船首右舷側を激しくぶつけた。

 船体がびりびりと震えた。船はお互い接触したまま、船体を擦りつつまだ進んでいる。

 何かが折れる音がする。右舷錨を吊しておいた梁がやられたかもしれない。

『畜生! 畜生!』

 シグルスは西から吹いてくる風が白い霧を押し流し、辺りの視界がだんだん明るくなっていくのに気がついた。

 霧が晴れるにしたがって、多くの黒い影がレナンディ号の舷側にむらがっているのが見える。

 破裂音。断末魔の叫び声。

 手下の何人かが撃たれて倒れた。

<行け! 乗り込め! もたもたするな!>

 二年ぶりにきいたエルシーア語と彼等の鳴らす靴音。

 それはシグルスへ下された死の宣告ともいえる。

『畜生……!』

 シグルスはじりじりと立ち上がった。

「こんなはずじゃなかった」

 こんなはずじゃ……。

 何度もその言葉を繰り返し、怒りに震える手で腰の短剣に触れる。

 霧は水蒸気となって完全に消失した。海に沈む太陽が血のような光で甲板を染めあげていく。

 その中で、一際濃い影を引きずりながらこちらへ近付く者がいた。

 すべてが真っ赤に染まる光の中で、濃紺の軍服の裾を翻し、軍艦のマストのように長身な男が歩いてくる。

 シグルスただひとりを目指して歩いてくる。

 男の右手が持ち上がり、きらりと抜き身の軍刀が夕日を受けて赤く光った。

 それは鷹が獲物との距離を測り、攻撃へと移る合図――。

 金色の髪を炎のようになびかせたエルシーアの鷹は、一直線に、シグルスめがけ跳躍した。


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