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【8】 船底の魔女

 外はすっかり日が暮れ、宵闇に覆われていた。

 レナンディ号からアドビスの船――フォルセティ号へとやってきたリュイーシャとリオーネは、互いに手を繋ぎながら、アドビスの部下である若い士官の後をついて歩いていた。

 彼の背はアドビスより頭半分ほど低く、灰色を帯びた金髪を首の後ろでひとくくりに束ねている。

 くっきりと伸びた眉に誠実そうな翠の瞳。年は二十代前半だろうか。

 青年はハーヴェイと名乗った。

 ハーヴェイは上甲板のミズンマスト(最後尾)の後ろにある昇降口の扉を開き、そこにある短い螺旋階段を降りていった。

 階段を降りた所には扉が一つあり、そこには白い剣帯を肩にかけ、水色の制服を纏った海兵隊員が銃剣を持って立っている。

 ハーヴェイがうなずくと、海兵隊員は背にした扉から体をずらし移動した。

「お部屋をご用意いたしました。こちらをお使いになられるようにと艦長の命令です」

 ハーヴェイは流暢なリュニス語を話した。

 一瞬それに驚き、彼の顔を見つめていると、ハーヴェイが困ったように眉間をしかめた。

「あ、あの。私は何か変なことを申し上げてしまったのでしょうか? リュニスは東西に点在する島々の総称ですから、東海と西海じゃ言葉が微妙に違うんですよね」

 リュイーシャはハーヴェイの顔を見ながら小さくうなずいた。 

「あなたは他国の方なのに、何故私の国の言葉を? あの方も……私の言葉を聞いて、私の国の言葉で話しかけて下さいました」

「あ、ああ、そ、それはですね」

 ハーヴェイは照れたように頭をかき、目の前の扉を開くため手を伸ばした。

「数年前からエルシーア海で暴れていた海賊たちが、南――リュニスへ逃亡するようになりまして、それを私達が取り締まっているんです。情報収集のためにも、リュニス語ができる人間が求められたわけで。ちなみに私は、母がリュニス本島の出なので、言葉は母から教わりました」

「まあ」

「さ、海賊に囚われていてお疲れでしょう。部屋にお入り下さい」

 ハーヴェイに勧められ、リュイーシャとリオーネは中に入った。

 室内はこざっぱりとしていた。

 いや、はっきりいって『何もない』といったほうが正しいだろうか。

 室内の奥は船尾の張り出した四角い窓が並んでいて、そこはちょうど腰を下ろせる長椅子にもなっている。そしてランプが載っている小さな円卓が一つと椅子が一つ。

 床に敷物はなく甲板と同じ木材が張られており、壁紙もなく殺風景だ。

「まるで誰かが急いでお引っ越ししたみたいね」

 リュイーシャの服の裾を掴んだままリオーネがつぶやいた。

「あ、す、すみません! 必要最小限のものしかまだ用意してなくて」

 ハーヴェイの頬が見る間に赤く染まった。

「あ、そうそう。部屋は今、取り外しができる板で二つに区切ってあるんです。勿論外す事もできますが、どうなさいます?」

 ハーヴェイの言う通り、部屋の中央は四枚の板で区切られていた。彼はその板をつかみ引き戸のように引っ張った。するとそれらは一枚目の板に重なるようにするすると折り畳まれた。

 板で区切られていて今まで見えなかった部屋には、二組のハンモックが吊されている。

「うわぁ。すごい」

 リオーネがリュイーシャから離れてハンモックへと駆け寄った。興味深気に帆布でできたそれを触り、よいしょっと、かけ声を上げたかと思うと、船の横揺れにあわせてその中へすべりこんだ。

 裸足の足が空をかく。

「リオーネったら……」

 リュイーシャは軽く溜息をついた。

 妹はこの状況を楽しんでいるようだ。

 リュイーシャは額に冷たくなった手を当て、いまだ慣れない船の揺れに戸惑いながらハーヴェイに頭を下げた。

「ありがとうございます。私達をあの船から連れ出して下さっただけでも、本当にありがたいことなのに。部屋まで用意して下さって」

「あ、いえ」

 冒頭に『あ』と言ってしまうのはハーヴェイの口癖のようだ。

 根はとても誠実そうな青年は、頬を赤らめながら優雅に一礼してリュイーシャに暇を告げた。

「必要なものがあればご用意いたします。部屋の警護も海兵隊員がしておりますのでどうぞご安心を。けれど無粋な軍艦ですので、ご不便をおかけすると思います」

 リュイーシャは微笑した。

「私達のことはどうぞ気になさらないで。それから――あの方にもお礼を伝えて下さいませんか?」

 ふと脳裏にアドビスと名乗った背の高い青年の姿が浮かんだ。

 彼は『他にやることがあるので』と、リュイーシャ達を自分の船に乗せてから船内へと降りていってしまった。

 直に礼を言いたいのはやまやまだが、軍艦の艦長というのは忙しいのだろう。だから、リュイーシャは大人しく部屋で待つ事にしたのだ。

「承知いたしました。グラヴェール艦長に必ず伝えます」

 ハーヴェイは礼儀正しく頭を垂れ、『後から食事をお持ちします』と言って部屋を出ていった。

 一人残ったリュイーシャは、ほうと溜息をつき、静かになったハンモックの方へ視線を向けた。

 リオーネがすやすやと眠り込んでいる。

 疲れていたのだろう。無理もない。

 この数日間、考えられない事ばかり起きた。

 信じたくないことばかりが起きた。

 眠る事でそれらを忘れる事ができたらどんなにいいか。

 リオーネの寝顔を覗き込み、やわらかな髪を何度かなでてから、リュイーシャもまた船尾の窓の前にしつらえてある長椅子へと腰を下ろした。

 船はゆっくりとした周期で横揺れを繰り返し、時々床が持ち上がるように上がったかと思うと、ずうんと下がり、リュイーシャの平衡感覚を狂わせる。

 窓の硝子にリュイーシャは額をつけて目を閉じた。不快感が少しだけ和らぐ。硝子の冷たさが水を思わせるようで心地良い。


 ――私は逃げたかった。なにもかもから。

   だから自分の運命を風に委ねた。


 シグルスと同行する気は最初からなかった。

 あの男は父カイゼルが異母兄ロードに殺されるのをじっと冷酷に見つめていたのだ。

 父の非業の運命を知りつつ黙って見ていたのだ。

 

 ましてや海賊である彼の仕事を手伝う気もなかった。

 寧ろ、あのままシグルスの言う事をきいていたら。

 リュイーシャが風を操る力を目の当たりにした彼は、自由にするという約束など最初からなかったように振る舞っていたはずだ。

 ロードから自分を無断で奪いとったように。

 今日は味方でも、明日になれば敵となる。

 シグルスとはそういう人間だ。


 リュイーシャはふとシグルスがどうなったのか気になった。

 アドビスはシグルスに奪われていたレナンディ号を取りかえすため、彼を追っていたのだと言っていたが。

 その身を拘束したのだろうか。

 あるいは死んだのだろうか。

 レナンディ号の甲板にシグルスの姿はなかった。

 少なくとも、アドビスの部下たちに殺された海賊の死体の中に、シグルスはいなかった。

「……もう、忘れましょう……」

 リュイーシャは波の音に耳をすませ、三日月の島――クレスタの、海神の神殿で潮騒をきいていた日々を思い出そうとした。

 けれど島を思えば思うほど、突き落とされるような深い濃紺の海と、苦い苦い悲しみだけが胸にせり上がってくる。

 島に戻っても誰もいない。

 父は埋葬されることなく、館の別邸で今も冷たい床にその身を晒し続けている。

 島の人々はロードのせいで、どこか見知らぬ場所へと連れ去られた。

 リュイーシャの覚えている島のありふれた日常は――。

 心の奥にしまわれた思い出の中以外、もう、どこにも、ない。



 いつしかリュイーシャは暗い眠りの淵に滑り落ちた。

 その中で夢を見ていた。

 遠く鳴り響く波の音と風の歌声に耳をすませながら、再びレナンディ号の船首甲板に立っていた。


 ――連れていって。

   風よ。私を何処か遠くへ。


 暗闇の中に金色の光が見えた。

 風を呼べば呼ぶほどその光はまばゆく輝き、力強さを帯びて、リュイーシャの元へとやってくる。

 光はやがて、荒ぶる風を翼に乗せて虚空を駆ける鷹の姿となった。


 ――私は、知っている。

   金色の鷹の魂を、内に秘めたるかの人を。



◇◇◇



 アドビス・グラヴェールは五等級の軍艦フォルセティ号の艦長で、二百名の乗組員を統率する人間である。

 けれど艦長だからといって、おいそれと立ち入る事ができない場所が船内にはいくつかあった。

 今いる医務室もその一つである。

 しかしアドビスが第三甲板の医務室まで下りることは滅多になく、あるとしても、病人やけが人を見舞う程度しかなかった。


 そこは船の喫水線より下に設けられた一区画。

 終日灯されているのは樹脂ランプの放つ橙色の朧げな明かりのみ。

 日の光が惜しみなく降り注ぎ、海を渡る風を感じる甲板と比べて、ここは地の底のような別世界――。

 船の下層甲板には、鼻をつまみたくなる独特の湿った臭いが漂っている。その臭いの原因は、船底に溜まる『垢水あかみず』だ。

 甲板から染みた雨水や海水などは、船壁などを伝って船底へと流れ込み、垢水として徐々に溜まっていく。定期的にそれらは手押しの汲み上げ機でかい出してはいるが、航海に出ている以上、全てなくなくことはありえない。

 それ故に、垢水の放つ臭いは船底に近い医務室まで漂い、消毒薬のすえた臭いと混ざりあって、下層甲板独特の暗く陰気な空気を作り出していた。

 例えるなら、土のない墓場のような――。



「……ひっ。それでお前は助けたというわけかい?」

「やむを得まい。あのリュニス人の姉妹は保護を求めていた」

「保護、ね。ひひっ」

「一体何がおかしい」

「別に。それにしてもつまらないケガをしたもんだ。お前さんなら、ぶっそうな軍刀で綱止め棒の一本や二本、払いのけられただろうに」

「私を買い被るな。そんな余裕はなかった」

「ああそうかい。ひっ」

「……!」

 アドビスは青灰色の瞳を細め、医務室の主を恨めし気に睨み付けた。

 医者が何の予告も無しに、縫合した左腕の傷口に、消毒液をたっぷりとしみこませた布を、半ば叩き付けるように置いたからである。

「マヌエル、もう少しそっとやってくれないか」

「おや痛かったかい? 別に骨が折れてるわけじゃあるまいし。ひひっ。ちょっと手がすべったのさ。悪かったね。ひっ」

 医者――マヌエルは、二百人の乗組員の中で、二人しかいない女性のうちの一人だった。

 けれどいつも目深に黒繻子のヴェールを被っており、小さく『ひっ』と笑う口癖があるので、乗組員からは『船底の魔女』とか『まじない婆』と呼ばれ、奇特な目で見られている。

 若いのか中年なのか老婆なのか。

 マヌエルの顔を白日のもとで見た事があるものは恐らく誰もいないし、アドビスでさえ、彼女がどれくらいの年なのか知らなかった。

 彼女はごわごわとした燃えるような赤毛を一つの三つ編みにして後ろに垂らし、黒い繻子織りのヴェールを被っていた。服も黒いゆったりとした長衣をまとっているので、医者というより辻占い師といった方がしっくりくる。

「運命の風がお前を呼んだね」

「……何?」

「お前が助けたあの娘のことだよ」

 アドビスは眉をひそめ、ただでさえ鋭い青灰色の瞳を細めた。

 マヌエルが水兵達に『まじない婆』と呼ばれる由縁がもう一つある。

 彼女は時々予言めいた言葉を口にした。そしてそれは良い事も悪い事もぴたりと当てるのだった。

 アドビスは黒いヴェールごしに見つめるマヌエルの視線を感じた。

 底意の見えない、けれど何かを確信するような強い視線を。

 女医は「ひっ」と小さく唇をすぼめて笑った。

「私には透視みえるんだ。人の魂のかたちってやつがね。例えば――」

 腕を引っ込めかけたアドビスのそれをマヌエルは容赦なくつかみ、手際良く包帯を巻いていく。

 女医の手は病的に白く魚の腹のようだった。皺一つ刻まれていないそれを見る限り、やはり老婆という年齢ではなさそうだ。

 けれどその声。

 古くなった滑車が立てるような、きいきいとした声は、うら若き乙女というには程遠い。

「お前は海をさすらう孤高の鷹。誰もお前についていく事はできないし、ついてくることを許さない。お前は高みを目指し飛ぶ事を宿命づけられているが、そのためには風をつかまなくちゃならない。お前がお前らしく飛ぶためにやってくる――運命の風を」

「……マヌエル」

 女医はアドビスの手をつかんだまま、熱にうかされたようにつぶやいた。

透視みえるよ。お前が『駈けるもの(レナンディ)』の甲板で出会った風の姿が」

 アドビスは身動き一つすることなく、ただ、ぽっかりと開いた深淵を思わせるようなマヌエルの黒いヴェールを見つめていた。


『――呼ばれた、気がした』

 アドビスは眼を開いたまま、レナンディ号の甲板にいた少女の姿を思いだした。

 何時からそこにいたのだろう。

 白い波飛沫が舞う船首甲板で、彼女は後方から吹きすさぶ風に月影色の淡い金の髪を翻し、あたかも海からやってきたようにうずくまっていた。

 冴えた青い衣のひだが幾重にも水のように広がっていた。

 真珠の肌に、引き込まれそうな深淵をたたえた――青緑の海色の瞳。

 例えるなら、そう。

 碧海の乙女――。

 

 でも彼女は、あの娘は、その華奢な体からは想像できないくらいの声で叫んでいた。

『――今こそそなたの翼で飛ぶ時が来た!』


 途端、強い意思を伴った風がレナンディ号を走らせた。

 私に追いつけるものなら追いついてみるがいい。

 そういっているような気がした。

 


「さあ、できた。グラヴェールの若旦那」

 包帯を巻き終えたマヌエルが、アドビスの左手の甲をぴしゃりとはたいた。

 はっとアドビスは我に返った。

「私、は」

 白昼夢から醒めた後のように、頭がぼうっとしている。

 アドビスは咄嗟に右手で自身の右太腿をつねった。

 鈍い痛みが走る。

 思わず顔をしかめると、マヌエルがアドビスの前に小瓶を置いた。

「痛むのなら薬をあげるよ。ロメイン草の8%溶液だ。これをワインに入れて飲めば、痛みも感じず穏やかに眠れる」

 アドビスは簡素な木の椅子から立ち上がった。医務室はもとより、船内の天井は低いので、長身のアドビスはいつも前かがみの姿勢でないと、頭を太い梁にぶつけてしまう。

 アドビスは椅子の背にかけておいた濃紺の軍服を取り上げ、急いで袖を通した。

「不要だ」

 マヌエルの顔で唯一見る事ができる赤い唇が笑みを浮かべた。

「この薬はいい……。夢を見ない健やかな眠りへ誘ってくれる……」

 アドビスは辟易しながら頭を振った。

「私は滅多に夢をみない。マヌエル、ロメイン草は依存性が高い劇薬だ。あまり多用はしないでくれ」

 黒いヴェールの頭がゆっくりとうなずいた。

「おや、心配してくれるなんて珍しいね。ひっ」

 アドビスは肩をすくめた。

「あんたのことじゃない。私の水兵達を薬漬けにして、肝心な時に使い物にならなくされたら困るということだ。じゃ、世話になった。私は甲板へ戻る」

「若旦那はお忙しい」

「マヌエル。その言い方を甲板でしたら、いくら貴女でも容赦しないぞ」

 マヌエルはぶるっと体を震わせた。黒繻子のヴェールがざわりと揺れる。

「怖い怖い」

「私は貴女の方が恐ろしいがな――船底の魔女よ」

 アドビスはマヌエルを睨み付け、踵を返して医務室を出た。

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