第6話 【浄化】残った“熱”を携えて、俺はジムへと歩き出す
なんてことが、起こるはずもなく──。
バチィーン!
俺はやり場のない怒りを、エンターキーへと叩きつけた。
キーボードが砕け散らんばかりの打鍵音に、オフィスの空気がザワつく。
「すいません……トイレ」
逃げるように席を立つ俺を、京右介がニヤニヤと眺めている。
遠巻きに見ていた木場課長が、心配そうに声をかけてくれた。
「八天くん……大丈夫?」
「……大丈夫っす」
聞こえるか聞こえないかのか細い声を絞り出し、誰とも目が合わせぬよう、俺はトイレへ直行した。
個室に滑り込んでガチャリと鍵をかけ、便器に座り、膝を抱えてうずくまる。
──俺は、知っていた。
異世界転生なんてのは、ただの現実逃避。
何も変えられなくて、変われない。
そんな自分を甘やかしてきたツケが、今まさに「因果応報」となって返ってきているだけだ。
無力感。閉塞感。怒り。諦め。
負の感情が渦巻き、俺の中をぐるぐると廻る。
落ち着くまで深呼吸を繰り返すが、熱いものが、じんわりと目の奥に滲んだ。
──もういっそ、ログアウトしてしまおうか。
震える手でスマホを取り出し、検索バーにこう打ち込む。
【退職代行 モーキツイ】
その時だった。
キュルルルル……ドグゥン!
突如として腹部に走る、凄まじい衝撃。
まるで内臓の中に魔法陣が展開され、禁忌の儀式準備が完了したかのような感覚。
……まさか。
思い当たる節は、ある。
昨夜、こっそりと執り行ったダイエット前の「食べ納めの儀」。
あの祭りの残滓が呪詛と化し、俺を冥土へ引きずり込もうとしていた。
「……来る……来るぞ……!!」
腹の奥で渦巻く“闇の力”が、俺の理性を破壊し始める。
消化器がギュルギュルと悲鳴を上げ、全身が硬直。
制御不能となった力のうねりが、今にも地獄の門をこじ開けようとしていた。
もう……抑えきれないッ……!
古より封印されし禁忌が、今、顕現する──。
『冥府開門』
この世のものとは思えぬ轟音とともに、闇の奔流を便器へと解き放つ。
その絶大な余波は、術者である俺の肉体をも蝕んだ。
発射口には灼熱の痛みが走り、赤(血)と青が交錯する。
だが、肉体のダメージとは裏腹に、心はなぜかほんの少しだけ軽くなっていた。
──魔術の開放。
それによってこれはサボりではなく、結果的には心の浄化になったのかもしれない。
トイレットペーパーを手に取り、大魔術の事後処理をしながら、ふと思う。
(ああ、クソの垂れが……)
(くそったれ……)
(クソッタレ!!)
その言葉は、情けない自分への、傲慢な京右介への、そしてこの理不尽な会社へ向けたものでもあった。
ふと、脳裏をよぎるのは《エンチャントジム》のみさきさんの笑顔。
そういえば、今日はカウンセリングだった。
──見返してやる。
未だ心とケツに残る“熱”を感じながら。
俺はヒップをグッと引き締め、モデルのように可憐な足取りでオフィスへと歩き出した。




