第55話 【独壇場】木場課長のファッション講義開演!
時間は夜の20時を過ぎていた。
クローゼットの前に立ち、シャツを手に取り、デニムに合わせる。
違う。
パーカーを羽織ってみる。
もっと違う。
組み替えて、試して、また戻す。
――だが、どれをどう組み合わせても、しっくり来ない。
今の俺にとって、それは決して正解にたどり着けない‘’パズル”だった。
(……詰んでる)
俺は数分間、スマホの画面を見つめたまま、文字を打っては消し、打っては消しを繰り返したが、意を決して送信ボタンを押す。
『木場課長、夜分にすいません。今、少しだけお時間いいですか?』
返信は「秒」だった。
『大丈夫よ。ちょうどお風呂上がりでパック中。何? 仕事の話?』
スマホの向こうで彼女がくつろいでいる姿が容易に想像できた。
俺は深呼吸を一つ。
『いえ、仕事ではなくて。その……友達の話なんですけど!』
一拍置いて。
『その友達が、今度、気になる女性と映画に行くことになりまして。何を着ていけばいいか、死ぬほど悩んでるんです。……どんな感じがいいでしょうか?その友達』
「友達の話」という、人類史上最も透け透けな嘘。
画面の向こうで「ははーん」という吐息が漏れた気がした。
次の瞬間、画面が切り替わる。木場課長からの直電だ。
「……もしもし、八天くん?」
「あ、はい……すいません、こんな時間に」
「いいのよ。で? その『お友達』は、2ヶ月で5キロ痩せたっていう、弊社の社員……じゃなくて、お友達なのよね?」
完全にバレている。
だが、彼女はそれ以上追及しなかった。
楽しそうに笑いながら、声のトーンが本気の「ファッションアドバイザー」へと切り替わる。
仕事モードの、あの頼れる課長だ。
「いい、八天くん。……いえ、お友達さんに伝えなさい。まず、背伸びして慣れないブランドに手を出さないこと。全身ユニクロで十分」
「ユニクロ……ですか?」
「そう。大事なのはブランドじゃない。『シルエット』よ」
課長の声に力がこもる。
「体型を隠すサイズ選びは、絶対ダメ。 面倒がらずにしっかり試着して、今の身体にジャストなサイズを選びなさい。」
頭の中に、さっきのダボダボの自分の姿が浮かぶ。
「アイテムは清潔感のあるネイビーのジャケットに、白のシャツ。いわゆる『ジャケパン』。これが安定ね。変に色気を出さないこと」
俺は必死にメモを取る。
「それと――もっと大事なこと」
課長の声が、少しだけ低くなった。
「『おしゃれ』より、『減点』されないこと。プラスアルファなんて狙わなくていい。清潔感、サイズ感、不快感のなさ。それが、一番大事よ」
「減点されないこと……」
「そう。だから、絶対髪を切りなさい。できれば当日の直前に美容室へ行って、ちゃんとセットしてもらって。清潔感の8割は“先端”で決まるのよ。髪、そして靴」
「……髪と、靴」
「そう。買い物に行ったら、鏡に映った自分の写真を私に送りなさい。チェックしてあげるから」
「……ありがとうございます、課長。友達に、しっかり伝えておきます」
「ふふっ。八天くんの……お友達さん。うまくいくといいわね、応援してるわよ」
電話が切れた。
スマホを握る手が、少しだけ汗ばんでいた。
「服を買いに行くための服がない」問題は……もう考えない。
三桁の鉄塊を挙げた。懸垂もできた。あの日、俺が手に入れたのは筋肉だけじゃない。
俺は、クローゼットの中に残っていた「古い自分」を脱ぎ捨て、新しい装備を求めて新たなる戦場へと旅立つ決意を固めた。




