第48話 【天秤】背中の激痛が呼び覚ます『戦士の誇り』
胸の中で、糸が悲鳴を上げている。
「レベルアップ」への渇望と、「レベルダウン」への恐怖。
二つの相反する力が、拮抗する重さで激しく引き合っていた。
今のままでも、生きてはいける。
現状維持という名の安全地帯に留まっていれば、これ以上傷つくことも、惨めな思いをすることもない。
未知の旅路はかつての挫折の記憶と混ざり合い、実像以上に巨大で恐ろしく見えた。
(……今のままで、いいじゃないか)
甘い声が足首に絡みつく。
いつものように視線が落ち、姿勢が丸まりかけた――その瞬間。
――ピリッ。
背中に鋭い痛みが走る。
昨日、歯を食いしばって持ち上げた『鉄の記憶』が、神経を叩いた。
(……いや。俺は、もう知っているはずだ)
「現状維持」を選んだ瞬間、俺は決定的な何かを失うことになる。
たとえば、あの人の隣に立つ資格。
顔を上げ、木場課長の視線を真正面から受け止めた。
「……やらせてください」
一拍。
「ぜひ、メンバーに参加させてください」
不思議と、声は震えなかった。
木場課長が、わずかに目を見開く。そしてすぐに、ふっと口角を上げた。
どこか誇らしげで、けれど厳格な上司の顔。
「わかったわ。私から推薦しておく」
彼女は手にしていたペンを置き、椅子に深く体を預けた。
「ケツは私が持つわ。それが上司の仕事だから」
その一言が、心に深く染み渡る。
新しい力が身体の隅々にまで静かに満ちていくのを感じながら、俺は昂ぶる感情を抑えて自席へと戻った。
だが、席についた直後。
「……よぉ、八天」
背後から、ぬるりとした声。
振り返るまでもなかった。
「新規のやつ。お前が手ぇ挙げたんだって?」
京右介が、いつもの笑みを浮かべてそこに立っていた。
肩の力を抜いたまま、蛇が獲物を囲むようにじわじわと距離を詰めてくる。
「……やっぱり来たか」
俺の呟きに、奴はわざとらしく肩をすくめて見せた。
「面白そうだからさ。ちょっと助言させてもらおうと思って」
一瞬にして、周囲の空気がわずかに濁る。
日常という名の戦場に、再び不穏な影が差し始めた。




