第47話 【過去】デッドリフトの激痛と、蘇る挫折の記憶
週明けの朝。
身体を引きずるようにして、俺はオフィスへと向かっていた。
デッドリフト――あの種目の“本当の姿”を、今さらながら思い知らされている。
背中一面、そして太ももの裏。身体の「裏側」のすべてに、広範囲のダメージ。
一歩踏み出す度に、背中の筋肉はここですよと激しくも残酷に主張を続けている。
「……おはようございます。先日は、その、助かりました」
デスクに着くと、真っ先に木場課長の席へ向かう。
そこにいたのは、昨日リサイクルショップで出会った女性とは別人のような“仕事の顔”の課長だった。
「おはよう、八天くん。……あら、随分と腰が重そうね?」
「……ええ。ちょっと、やり過ぎました。イテテ……」
俺の言葉に、書類に落とされていた彼女の目が、カッと見開かれた。
「えっ、もう、そこまでいっちゃってるの!? 最近の若い子ったら、早すぎるわ……!」
急にテンションが跳ね上がり、顔を紅潮させて口元を押さえる。……完全にそっち方面の勘違いだ。
「何考えてるんですか。トレーニングの話ですよ」
「失礼」
てへぺろ、と言わんばかりのチャーミングな仕草。だが次の瞬間には、元の隙のない上司の顔へと戻っていた。このオンオフの切り替えは、もはや一つのスキルだ。
そして、すれ違いざま。
「――頑張ってね。応援してるわよ」
周りには聞こえない、けれど俺にはしっかりと届く小さな声。それは背中の筋肉痛を突き抜け、心に確かな熱を運んできてくれた。
デスクに戻り、ルーティンのメールチェックを始める。その中に、気になるメールが一通。
『新規商品 取り扱いメンバー募集のお知らせ』
いつもなら、迷わずゴミ箱行きだ。
こういうのは意識の高い連中か、上に媚を売りたい奴がやるもの。
俺のような「万年一兵卒」には無関係――のはずだった。
だが今日は、そのメールがやけに引っ掛かる。
(……これ)
俺にのしかかっている異次元の営業ノルマ。
それを真正面からひっくり返す可能性が、この公募の中にある気がした。
気づけば、俺は立ち上がっていた。
足は自然と、再び木場課長の席へと向かう。
「……課長。この新規案件の件、少し相談してもいいですか」
キーボードを叩く指が止まる。
ゆっくりと、彼女がこちらを向いた。さっきの冗談めいた雰囲気は微塵もなく、そこには射抜くような“プロの目”があった。
「八天くん……本気なの?」
その問いかけが、封印していた過去の記憶を呼び覚ます。
入社したての頃の自分。
期待に応えようとして、全部一人で抱え込んで。
誰にも頼れず、キャパオーバーを起こして投げ出したあの日。
それからだ。傷つかないために頑張らないと決めて、無気力と諦観を鎧のように纏うようになったのは。
(……また、ああなるんじゃないか)
失敗の記憶が、見えない足枷となり、俺の踏み出そうとする足を床に縫い付ける。
じっとこちらを見つめる彼女の双眸を前に、俺はゴクリと喉を鳴らした。
「……やっぱり、俺には」
目を背け、逃げの言葉を口にしそうになる。
その瞬間。
――「一緒に、頑張りましょう」
――「応援してるわよ」
みさきさんと木場課長。二つの声が、脳裏で重なった。
あの時とは、違う。
多少なりとも経験は積んだ。
何より考え方も、少しだけ前を向いた。
そして今は――。
「……一人じゃない」
小さく、けれど自分に言い聞かせるように呟く。
けれど同時に、怖さも消えない。
できるという「期待」と、また壊れてしまうという「不安」。
その両方が、張り詰めた一本の糸のように、俺の胸の内で激しくきしみ合っていた。




