第30話 【本能】路地裏の黄色いノスタルジー
仕事終わり。
俺は未だおぼつかない足取りで帰路についていた。このまま近所のスーパーへ直行して晩飯を調達する予定だったのだが――。
「……っ、あかん。この匂いは反則だろ……」
繁華街の路地裏に差し掛かった瞬間、暴力的なまでのニンニクと醤油の香りが、俺の鼻を直撃する。
匂いの元へと視線を向けると、そこには不自然なほどの長い行列。
どうやら、ガッツリ大盛系ラーメン店が新装オープンしたらしい。
黄色い看板が、過酷な労働で疲弊した男たちの本能を激しく煽っていた。
必死に理性を繋ぎ止め、行列の先を目で追った、その時だった。
見覚えのある、少し着崩したスーツの背中。
並びの先頭付近で、神妙な面持ちでスマホを弄っているその横顔は――。
「……京右介?」
思わず声が漏れた。
向こうもこちらの気配に気づき、ハッとしたように顔を上げる。
いつもなら、ここでマウント混じりの嫌味の一つでも飛んでくるところだ。
だが今の京右介は、いつもの刺々しさは全くなく、仕事で疲弊した一人のサラリーマンだった。
目が合ってしまった以上、そのまま通り過ぎるのも気まずい。俺はぎこちなく歩み寄った。
「……どうしたんだよ、お前がこんなところに並ぶなんて珍しいじゃん」
俺の問いかけに、京右介は自嘲気味にふっと肩を落とした。
「いや……今日、マジで仕事がきつくてよ。このくらいガッツリしたもん喰わなきゃ、やってられねえって思ってさ」
そう言うと、京右介は列の隙間から俺の顔を覗き込んできた。
「お前も喰うか? 一緒に並べよ」
「いや……。俺は、遠慮しとくよ」
みさきさんの顔と、朝の体重計の数字が脳裏をよぎり、俺は首を振った。
すると、京右介はどこか寂しげに目を細めた。
「つれないねぇ、八天。昔はよく、一緒に並んで喰ったじゃねえか」
「え……」
「忘れたか? ニンニク背脂マシマシでさ。その翌日、二人揃って口が臭いって木場課長にこっぴどく怒られて……」
そう語る京右介の目は、久しく見たことがないくらい優しげだった。
ハードなデスクワークで脳が焼き切れた後の、ジャンキーなラーメンやハンバーガー。口いっぱいに広がる暴力的な旨味と、その後に急激に襲ってくる強烈な睡魔。
それは間違いなく、日々のストレスを一瞬で忘れさせてくれる至高の幸福だった。
かつては、確かにそれを共有する「戦友」だった事もあった。
「……悪い。また今度な」
「そうかよ」
かつての京右介との思い出。そして、今もなお鼻腔をくすぐるニンニクとアブラの香りが、チクリと胸を刺す。
京右介はつまらなそうにスマホに視線を戻し、「じゃあな」と短く言った。
俺はポケットの中でスマホを一度強く握り締め、黄色い看板に背を向けた。




