15・元王妃の述懐
あの日、目覚めは良くなかった。
いつも私に便宜を図ってくれた司祭は「ご心配なく。全てお任せください」と言った。
寝不足気味で起き上がった私の枕もとには、見慣れてはいても、本来そんなところにあるはずのないものが置かれていた。
私をいつも熱っぽい目で見つめていた金色の髪に青い瞳の聖騎士に、たまたま与えた剣帯飾り。
瞳の色と同じ青い石のビーズと金糸を合わせて編んだ。小さいころ、母に教わった編み紐の要領で。
騎士はとても喜んだ。それこそ押し戴くようにそれを額に当て、私に永遠の愛と忠誠を誓った。
私は驚きながらもうっとりと騎士を見つめていたと思う。
夫とは違う熱量を感じながら。
そこには明らかな「恋」の気配があった。
そして、改めて、夫との間にある感情は、世間でもてはやされているような「恋愛」ではないのだと気が付いた。
あの人は、私に恋してはいない。
だが、騎士が愛してくれるのであれば、それでいい、とどこかで思っていた。
その騎士に渡した編み紐がそこにあった。常に身に着け片時も離さずにいた筈のそれ。
編み紐は汚れていた。
金糸が一部分赤茶色に変色していた。
触れると完全には乾いていなかったのか、指先に赤茶色が移った。
生臭く、鉄臭い臭いが微かに立った。
吐き気がこみあげた。
私を起こしに来た侍女は、背中を丸めてえずいている私を見て慌てたようだったが、私はむりやり吐き気を飲み込んで身を起こした。
そして、大したことは無いので、誰にも言わないようにと口止めした。
握りこんだ編み紐は見られていたと思うが、侍女は何も言わなかった。
枕に血の染みもあった筈だが、それについても言及されず、その晩には綺麗な状態になっていた。
私はその日、最初から神殿へ行く予定だった。
大司教との面談の約束があったからだ。
王都の神殿はこの国における神殿の総本山であり、大司教はその責任者だった。私が首尾よく王太子と婚約できたと喜んでいた。
王家へ介入出来ると安易に考えているのが丸わかりだった。
私は神殿の意向に完全には従うつもりはなかったが、ある程度は沿って動くつもりはあった。
大司教が小娘と私を侮っているのは透けて見えていた為、それを利用してふわふわと身を処してきたのだ。面倒を避けるためにも同じ態度でやり過ごす方がいいのだろうなと考えていた。
その王都の澱の典型のような大司教が。
いつもの面会室とは違う、密談に使用するような奥まった個室へ案内されると、青い顔をして震えていた。
予感はあった。
私の眠っている枕元へ、誰にも気づかれずにあれを置けるような人間がいるのだ。
大司教の部屋には騎士の首が置かれていたそうだ。
私は朝の吐き気が再び襲ってくるのを感じたが、今回はえずく事もなく耐えられた。
大司教は一体どういう事かと私を問い詰めた。
王太子の元婚約者に関しては、王都を去ればそれで良いという事になっていたではないかと。
何を言っているのか。
司祭や私がひそかに動く事を知っていて見逃していたくせに。
大司教が恐れているのは、事が露見して己の立場を失う事だ。
そう思っていたが、殊の外衝撃を受けてもいるようだった。
流石の腹黒も、寝起きに人の生首を見ると多少は怯えるのだな、と思った。
次はお前だ、と言われているようなものだし。
私は血で汚れた編み紐を大司教へ見せた。
「朝起きたら、私の枕もとにありました」と言って。
神殿よりも厳重なはずの王宮の警備さえ、相手は軽々とかいくぐるのだと知って大司教は更に顔色を悪くした。
それが滑稽で笑いが込み上げてきた。
大司教は青い顔のままそんな私の顔を見ていた。
侮っていた小娘の本性が、得体のしれない化け物に見えた瞬間だったのかもしれない。
騎士の首は神殿内の死体安置所へ置かれていた。
そこしか置く所がなかったのだろう。
私は、止める者たちを振り切って、そこへ入った。
布をかぶせられた身元不明の死体が幾つか並ぶ中、何故か首は台の上にぽつんと、剥き身のまま置かれていた。
金の髪はざんばらに切られて乱れ、顔は苦悶に歪んでいた。耳は削がれ、美貌は太刀傷と火傷で損なわれていた。
暴力か拷問の痕か……
私はじっとその顔を見つめた。
襲って辱め、命を奪うよう命じた当の伯爵令嬢はどうなったのだろう。
騎士はそれを見届ける役だったと聞いていた。
命じたのは司祭だ。
純粋で美しい男になんという役目を課すのだろうと思った。
元凶は私であるにも関わらず。
計画の詳細を決めたのは司祭だった。私はその報告を受けただけだった。
ずっと、どこか他人事だった。
気に入らない人間を排除するとは、こういう事なのだと、それを初めて実感した。
手を伸ばし、微かな恋と感じた騎士の首を持ち上げて、緩く胸に抱いた。
剣帯飾りとは比べ物にならないくらいの濃い血の匂いが立った。
もう吐き気は襲ってこない。
私は血に染まった。
伯爵令嬢を完膚なきまでに辱め殺すよう指示したのは、万に一つも生き残っても立ち直れないようにするためだった。
王太子は彼女をとても大事にしていた。
私に対して見せる優しさや心遣いとはまた違った態度だった。
神殿や王宮へ上がってから受けた教育では、感情をあらわにして表情を変えてはならないと教わったが、王太子は明らかに、彼女を見る時の瞳が和らいでいた。
どんなに優しくされ、どんなに愛を囁き交わしても、同じ眼差しは私には与えられなかった。
教育を受けたが故、私は王太子の優しさが完全なる善意ではないと理解するようになった。
私とて、野心がなかったわけではない。お互い様だと思っていた。
少なくとも、おっとりと優しく物静かな伯爵令嬢を上級貴族らしくないと内心馬鹿にしてさえいた。
危機感もなく、「王家には王家の理論がある」という教育をそのまま受け入れてしまっていた哀れな女。
そんな風だから私の様な女に付け込まれ、負けるのだ、と。
だが、恵まれた育ちによるものだとしても令嬢の稀に見る善性は疑いようがなく。
恐らくは私より性質が聖女に相応しいのではないかとさえ思われた。
今思えば、高飛車で高慢な貴族令嬢たちの中にあってさえ、染まらずにいたのだから。
その善人が、聖騎士の首を切って大司教の部屋へ置いた。
不思議な昂揚感が襲ってきたのを覚えている。
実際には、あの女が殺したわけではないだろうし、あの女が首を切ったわけでもないだろう。
だが、あの女もまた血に染まった。
私は、美しかった聖騎士の首を抱きながら笑った。
これで同じ。
そう思った。
その後、計画立案者だった司祭が行方不明となり、数日経って惨殺死体となって神殿の中庭で発見された。
存外小心者だった大司教は更に怯えて、部屋から出て来なくなった。
私は、便利な手駒を失ってしまった事を惜しんだ。
恐ろしくはなかった。
時間を置いて、じわじわと襲撃に関わった人間達が始末されていってもそれは変わらなかった。
手口からそれらをなしているのはあの専属護衛だろうなと確信しただけだ。
当のエルヴィエラは「領地にて療養のため」一切姿を見せず、かといって死亡の知らせもなく。
いずれまた相対するのだろうなと心のどこかで予感していたにもかかわらず、いつの間にか時は過ぎ。
大司教はどんどん病んで行き、私は聖女業に集中した。
事件の関係者が定期的に殺されていった所で、エルヴィエラが現れるわけではなく、私にとっては些末な問題で。
標的となる関係者もほぼなくなった辺りで、もしやこれはあくまであの護衛の復讐にすぎず、主人の方はとっくに死亡しているのではないかとぼんやり思うに至った。
そう思うと、あの時感じた高揚感が一気に萎んでいくのを感じ。
ひどくがっかりした事に我ながら驚きもしたのだった。
事件以来、私はどこか壊れてしまったのだろう。
そう自覚した。
それなのに、補佐官に、彼女に知られていると知った途端、私は怯えた。
誰よりも身近な存在となっていた彼女に、己の暗部を知られていた。
その事実が、今更私を苛んだ。
夫に知られるよりも怖かった。
私は、まだ、「人らしい」感情を持っていたのだ。
恐れる心を。
誰かと親しく交流したいと望む少女らしい心を。
非道な人間と知られたくないと願う心を。
私はもう、補佐官の彼女と親しくお茶会など出来なくなった。
心を鎧でがっちりと固め、職務で顔を合わせるしかなくなった。
友を失ってしまった事はいつまでも尾を引いた。
予想外に。
冷たい敵だらけの宮殿の中の小さな心の拠り所。
盲目的に私を信奉する者たちとは違う、対等な、安らぐ居場所。
私は、まだそんなものが必要な人間だったのだ。
補佐官の態度は前と変わらなかった。
友と思っていたのは私だけで、彼女の方には大した影響もなかったのだろう。
上級貴族の娘らしい、と改めて思った。
そういえば、彼女の母はどこかの国の王女だったか。彼女もまた王族の娘であるのだろう。
そうして私は、以来細かな事に気が付くようになった。
たとえば、執務室に飾られている花。
季節によって様々な花が飾られるが、しょっちゅう添えられている白い花。
控えめであり、白であるが故に便利に使われているだけとも言えたが、その小振りな花には全く別の記憶がへばりついていた。
エルヴィエラが温室で育てていたのだ。
元は薬草であり、葉も花もそれぞれ薬効があった。そして香りには鎮静作用も。
一般にそれ程知られている花ではないが、これが例えば貴族家ではよく用いられている花かどうかは私には判らない。知識がなかった。
少なくとも、神殿には無かったと思う。
今では庭師と薬師が世話をしているという。そして定期的に差し入れられていると聞いた。
便利な花。心が落ち着く花。聖女様のために、ぜひとも飾って頂きたく。
と恐らくは他意もなく善意で提供されているのだとすれば、わざわざ拒絶するのも心証が悪い。
たとえば茶葉。
定期的に供される「疲労回復の為の」香草茶。
香草は、やはりエルヴィエラが庭園の一画で面倒を見ていたという。
そしてその配合も彼女が試行錯誤して調整したレシピの筈。
彼女がいる時から、恒常的に供されていたがために、誰もそれを止める事はなく、これもまた善意で目の前へ差し出される。
宮殿のあちこちに、彼女の名残りはあった。
たまに孤児院へ慰問に行けば、収入の為の手仕事として細やかなレースや刺繍の図案等が彼女の手書きで残されていたりもした。手ずから子供達に指導したそうだ。
どこへ行っても何をしても、彼女の名残りは残っている。
それまでもそうしてはいたが、否応なく聖女業に集中するしかなかった。
私は聖女業を理由に、そうした王妃としての仕事を全て補佐官へ丸投げした。
もう触ろうとは思わなかった。
また、彼女も「事務方と調整」したらしく、国王へ申請して、ほぼ王妃の権限を肩代わりできる印章を授けられた。
余程の予算案件であれば国王へ直接裁可伺いを立てる事になったらしいが、年に数える程もない。
「憂いなく、聖女業へ邁進なさってくださいませ」
補佐官は微笑んで告げたのだった。
見に来てくださってありがとうございます。
連休最終日でございますね。
人によっては明日と明後日休みにしていらっしゃるのでしょうか。
心安らかに過ごされますよう。




