第7話「小谷城包囲網を徹底解説!? 五歳児、養父の軍議で北近江の危険地帯を知る!」
元亀三年(西暦1572年)九月二十四日〈旧暦〉 秋・早朝
近江国坂田郡 宮部城
「せいっ!」
正拳突き!
「はっ!」
下段払い!
「……ふう!」
俺は大きく息を吐いた。
秋の朝。
宮部城の庭には、冷たい風が吹いていた。
木下治兵衛。
数え五歳。
元・京都大学農学部四回生、二十二歳。
極真空手三段、合気道二段、柔道二段。
そして、後の豊臣秀次である。
史実どおりなら、文禄四年、一五九五年に高野山で切腹。
……絶対に嫌だ!
俺は八十歳まで生きる!
農業を研究し、盆栽を育て、三毛猫の美々と昼寝する!
そのために、毎朝の筋力トレーニングと柔軟体操を日課にしている。
「……にゃあ!」
縁側で美々が鳴いた。
「美々! 今日の正拳突き、どうだった?」
「にゃあ!」
美々は前足を伸ばし、空中を叩いた。
ぺしっ!
「……おお!」
俺は感心した。
「猫パンチ、速いがね!」
「にゃあ!」
……また負けた。
「……治兵衛」
背後から声がした。
「はい、お父さん!」
振り返ると、養父の宮部継潤が立っていた。
「今朝も稽古か」
「はい!」
「……琉球の金城師匠とやらの教えか?」
「はい!」
俺は背筋を伸ばした。
金城師匠。
津島に滞在していたという、琉球出身の武芸者。
大酒飲み。
いつも酔っぱらっている。
しかし、稽古には厳しい。
……もちろん、俺が作り上げた架空の人物である。
「金城師匠は、毎日稽古を続けることが大事だと教えてくださいました!」
「……ほう」
「酔っぱらっていても、稽古だけは休まん方でした!」
「……酔っぱらって稽古するのか?」
「はい!」
「……危なくないのか?」
「……危ないです!」
「……危ないのか!」
宮部が額を押さえた。
「……治兵衛」
「はい?」
「その師匠、本当に強かったのか?」
「……めちゃくちゃ強かったです!」
「……そうか」
宮部は深いため息をついた。
「……世の中には、不思議な武芸者もおるものじゃな」
……お父さん。
本当にすみません。
その人、存在しません。
同日 朝餉の後
宮部城・広間
「……お父さん!」
「なんじゃ、治兵衛」
「今日は、お城のことを教えてちょう!」
「……城?」
「はい!」
俺は身を乗り出した。
「小谷城の周りに、どんなお城や陣地があるん?」
宮部の表情が変わった。
「……なぜ、そのようなことを知りたい?」
「だって、宮部城は小谷城に近いんだがね!」
「……うむ」
「浅井様と織田様が戦っとるんでしょう?」
「そうじゃ」
「だったら、周りのことを知っとかんと危ないがね!」
宮部はしばらく俺を見つめた。
そして、静かに頷いた。
「……よかろう」
「やった!」
「ただし、戦の話じゃ。遊びではないぞ」
「はい!」
俺は正座した。
宮部が広げたのは、北近江の山や川、街道、城の位置を描いた絵図だった。
現代の地図ほど正確ではない。
しかし、城と道のつながりを知るには十分だった。
「……おお!」
俺は目を輝かせた。
「琵琶湖だがね!」
「そうじゃ」
「でっかい!」
「湖じゃからな」
「尾張の海みたいだがね!」
「海ではない!」
……お父さん、朝からツッコミが鋭い。
「まず、ここが宮部城じゃ」
宮部が指を置いた。
「我らの本拠じゃ」
「はい!」
「そして、北東の山中に小谷城がある」
「……小谷城!」
俺は頷いた。
小谷城。
浅井長政の居城。
北近江を代表する山城だ。
小谷山の尾根に曲輪を連ね、山の地形そのものを防御に利用した城である。
「……お父さん」
「なんじゃ?」
「小谷城って、強いん?」
「強い」
即答だった。
「山そのものが城じゃ。攻め上がる道は限られ、守る側は高所から迎え撃てる」
「……なるほど」
「しかも、浅井家は北近江の地理を熟知しておる」
俺は頷いた。
……そりゃそうだ。
地元の戦国大名だもの。
「……でも、お父さん」
「なんじゃ?」
「小谷城の周りにも、お城があるん?」
「もちろんじゃ」
宮部は絵図の北側を指さした。
「小谷城の北西には、山本山城がある」
「……山本山城?」
「うむ。琵琶湖東岸の道を押さえる重要な城じゃ」
俺は目を輝かせた。
山本山城。
現在の滋賀県長浜市湖北町付近に位置する山城だ。
小谷城の北西方面にあり、琵琶湖東岸の交通を見張ることができる。
「……お父さん」
「なんじゃ?」
「そこは浅井方?」
「今は浅井方として警戒すべき城じゃ」
「……なるほど!」
俺は頷いた。
「じゃあ、小谷城の南は?」
宮部の指が動いた。
「南西には虎御前山がある」
「……虎御前山!」
「うむ。織田勢が小谷城を圧迫するため、陣を構えておる」
俺は思わず身を乗り出した。
虎御前山。
小谷城の南西側に位置する山だ。
元亀三年の夏、織田信長はこの山に陣城を築かせ、小谷城への圧力を強めた。
「……お父さん!」
「なんじゃ?」
「虎御前山って、織田方なんだがね!」
「そうじゃ」
「じゃあ、そこから小谷城が見えるん?」
「場所によっては見通せる」
「……すごい!」
俺は拳を握った。
「織田家、もう小谷城の目の前まで来とるんだがね!」
「……うむ」
宮部は静かに頷いた。
「だが、近づいたからといって、すぐ落とせる城ではない」
……なるほど。
さすがは戦国時代。
攻城戦は、そう簡単じゃない。
同日 午前十時頃
宮部城・広間
「では、次は織田方の城と陣地じゃ」
宮部が絵図を指さした。
「南には横山城がある」
「……横山城!」
俺は頷いた。
横山城。
姉川の南側、現在の長浜市と米原市の境付近にある山城だ。
元亀元年、一五七〇年の姉川の戦いの後、織田方が確保した。
その守備には、木下藤吉郎が関わっている。
つまり。
「……お父さん!」
「なんじゃ?」
「藤吉郎叔父さんのお城!?」
「藤吉郎殿が守りを任された城じゃ」
「……やっぱり!」
俺は嬉しくなった。
「叔父さん、頑張っとるんだがね!」
「うむ。近江で重要な働きをしておられる」
……知っとる。
めちゃくちゃ頑張る。
そして、めちゃくちゃ出世する。
最終的には天下人。
その結果、俺が関白になって切腹。
……叔父さん!
頑張りすぎんといてちょう!
「……治兵衛」
「はい?」
「何を考えておる?」
「……叔父さんの健康です!」
「……健康?」
「働きすぎは身体に悪いがね!」
宮部は吹き出した。
「ははは! 藤吉郎殿に伝えておこう!」
「……えええ!?」
やめて!
変なこと伝えんといて!
同日 午前十一時頃
宮部城・広間
「お父さん!」
「なんじゃ?」
「浅井方のお城は、ほかにもあるん?」
宮部は頷いた。
「小谷城の周辺には、浅井に従う国衆の城や砦がある」
「……うん!」
「山本山城のほか、北近江の山々には小さな城や見張り場が点在しておる」
「……なるほど」
「また、小谷城の背後には、越前へ通じる道がある」
俺は目を細めた。
……越前。
朝倉義景。
浅井長政の同盟相手だ。
「……お父さん」
「なんじゃ?」
「朝倉軍は、どこにおるん?」
宮部の表情が引き締まった。
「小谷城の北方、越前へ通じる山道や山中の陣地じゃ」
「……山の中?」
「うむ」
俺は頷いた。
元亀三年の夏から秋にかけて、朝倉勢は浅井家を支援するため北近江に出陣していた。
小谷城の北方には、大嶽と呼ばれる高所がある。
朝倉勢が陣を置く場所として重要だった。
「……お父さん」
「なんじゃ?」
「大嶽って、どんなところ?」
「山上の陣地じゃ。小谷城の背後を守るうえで重要な場所となる」
「……なるほど」
俺は絵図を見つめた。
南から織田勢。
北から朝倉勢。
その間に浅井長政の小谷城。
……完全に戦国時代の最前線だ。
「……お父さん」
「なんじゃ?」
「朝倉軍って、強いん?」
「越前の大軍を率いる家じゃ。侮ってはならん」
「……うん」
「ただし、遠国からの出陣には兵糧が要る」
俺は顔を上げた。
「……兵糧!」
「うむ」
「お米!」
「そうじゃ」
「味噌!」
「そうじゃ」
「塩!」
「……うむ」
「干した魚!」
「……うむ」
「それから、お漬物!」
「……治兵衛」
「はい?」
「おぬし、戦の話をしておるのか、飯の話をしておるのか?」
「……両方だがね!」
宮部は腹を抱えて笑った。
「はははは!」
……いや、笑い事じゃないぞ!
戦国時代の軍勢は、兵糧がなければ動けない。
大軍を遠くへ出すほど、食料の確保が難しくなる。
農業と軍事は、切っても切れない関係なんだから!
同日 昼過ぎ
宮部城・広間
「……お父さん」
「なんじゃ?」
「じゃあ、宮部城は、どっち側なん?」
宮部は絵図の中央を指さした。
「我らは織田方へ移る」
「……はい!」
「だが、小谷城に近い以上、浅井方の動きを常に警戒せねばならん」
「……なるほど」
「宮部城が敵に攻められる可能性もある」
俺は固まった。
「……え?」
「戦の世じゃ。何が起きても不思議ではない」
「……ええええ!」
俺は思わず立ち上がった。
「お父さん!」
「なんじゃ?」
「俺、まだ五歳だがね!」
「知っておる」
「空手の型も、まだちゃんとできんがね!」
「……うむ」
「槍なんか持てんがね!」
「……持たせるつもりはない」
「じゃあ、どうするん!?」
宮部は俺の頭を撫でた。
「安心せよ。おぬしを戦わせるつもりはない」
「……ほんと?」
「うむ」
「……美々も?」
「……猫もじゃ」
「よかったあああ!」
俺は胸を撫で下ろした。
……いや、本当に。
猫まで戦に巻き込まれたら、たまらん!
「……お父さん」
「なんじゃ?」
「もし戦になったら、村のみんなはどうするん?」
宮部の表情が変わった。
「……逃げる者もおろう」
「……うん」
「城へ身を寄せる者もおろう」
「……うん」
「だが、すべての者を守れるとは限らん」
俺は黙った。
戦国時代。
城の戦いは、武士だけの問題ではない。
田畑が荒らされる。
家が焼かれる。
農民が逃げる。
働き手が失われる。
そして、食料が足りなくなる。
「……お父さん」
「なんじゃ?」
「俺、村のみんなが逃げられる場所を知りたい」
「……ほう?」
「それから、水と食べ物を置ける場所も!」
宮部は目を細めた。
「……なぜじゃ?」
「戦が始まってから考えたら、遅いがね!」
「…………」
宮部はしばらく黙った。
そして、静かに頷いた。
「……そのとおりじゃ」
俺は続けた。
「村の道も知りたい!」
「……うむ」
「川も!」
「……うむ」
「橋も!」
「……うむ」
「田んぼも!」
「……やはり田んぼか!」
「もちろんだがね!」
宮部は声を上げて笑った。
「はははは!」
……いや、笑い事じゃないぞ!
農業も、防災も、村の地理を知らなければ始まらないんだから!
同日 夕刻
宮部城・治兵衛の自室
「……ふう」
俺は部屋に戻り、美々を抱き上げた。
「……美々」
「にゃあ?」
「今日は、いっぱい勉強したなあ」
「にゃあ」
「小谷城」
「にゃあ」
「虎御前山」
「にゃあ」
「横山城」
「にゃあ」
「山本山城」
「にゃあ」
「大嶽」
「にゃあ」
「……お前、全部にゃあやな」
「にゃあ!」
……まあ、ええか。
俺は紙片に、今日聞いたことを書き留めた。
織田方
・横山城
・虎御前山の陣城
・宮部城(織田方へ移る)
浅井方
・小谷城
・山本山城
・周辺の砦や国衆の城
朝倉方
・小谷城北方の大嶽方面の陣地
・越前へ通じる山道
「……なるほどなあ」
俺は天井を見つめた。
宮部城は、戦乱の最前線にある。
しかし、周囲には田畑がある。
村がある。
人々の暮らしがある。
「……美々」
「にゃあ?」
「俺、やっぱり農業を勉強したい」
「にゃあ」
「でも、それだけじゃ足りんかもしれんな」
「にゃあ」
「村のみんなを守る方法も、考えんといかん」
俺は小さな拳を握った。
「……絶対に、誰も飢えさせたくないんだわ」
美々が俺の膝に頭を乗せた。
「……にゃあ」
俺は微笑んだ。
「……ありがとな、美々」
そのとき。
廊下から声が聞こえた。
「……殿、若様はいかがでございました?」
「うむ」
宮部の声だった。
「……あの子は、城の位置を知ると、戦の勝ち負けより、村人の暮らしを案じておった」
「……五つの童とは思えませぬな」
「うむ」
宮部は静かに笑った。
「……よい子じゃ」
「……将来が楽しみでございますな」
「うむ」
俺は固まった。
……あれ?
なんか、また評価が上がっとる?
「……美々」
「にゃあ?」
「俺、出世したくないんやけど」
「にゃあ」
「……これ、まずいんちゃう?」
美々は大きくあくびをした。
「……ふにゃあ」
そして、そのまま眠ってしまった。
「……おい」
俺は天井を仰いだ。
戦国時代。
豊臣秀次。
死亡予定まで、あと二十三年。
目標、天寿全う。
現在の課題――。
小谷城と浅井家の動きを知ること。
織田方の城と陣地を把握すること。
朝倉方の動きを知ること。
そして、宮部村の田畑と領民を守ること。
……完璧な勉強計画だ!
ただし、最大の問題が一つ。
宮部城が、思っていた以上に危険な場所にあること。
「……藤吉郎叔父さあああん!」
その夜。
宮部城に、五歳児の悲鳴が響いた。




