第6話「養父の城、敵だらけなんですけど!? 五歳児、北近江の戦国情勢を知る!」
元亀三年(西暦1572年)九月二十二日〈旧暦〉 秋・早朝
近江国坂田郡 宮部城
「……いち、にい、さん!」
朝靄の残る庭で、俺はゆっくり膝を曲げた。
「……し、ご!」
五回の屈伸運動を終え、両腕を伸ばす。
続いて柔軟体操。
「……痛たたた!」
身体が硬い!
いや、数え五歳の身体なんだから、もっと柔らかくてもいいだろ!
「にゃあ」
三毛猫の美々が、縁側で大きく伸びをした。
「……美々」
「にゃ?」
「お前、身体柔らかすぎだがね!」
「にゃあ!」
……勝ち誇るな!
俺は木下治兵衛。
元・京都大学農学部四回生、二十二歳。
今は数え五歳。
そして、後の豊臣秀次である。
史実どおりなら、二十三年後に高野山で切腹。
妻子たちも悲惨な運命をたどる。
そんな未来、絶対に御免だ!
俺の目標は八十歳まで生きること。
田畑を耕し、盆栽を育て、美々と昼寝する。
そのために、毎朝の筋力トレーニングと柔軟体操を日課にした。
しかし、今朝は少し事情が違った。
「治兵衛!」
養父の宮部継潤が、庭へ姿を現した。
「はい、お父さん!」
「今日は田畑へ出る前に、わしの話を聞け」
「……お話?」
「うむ。宮部家と、この近江の情勢についてじゃ」
俺は目を輝かせた。
「戦国情勢の勉強!?」
「……せんごくじょうせい?」
「あっ! 周りの国やお城の話だがね!」
宮部は苦笑した。
「そうじゃ。おぬしも宮部家の子となった以上、知らねばならん」
……なるほど。
ついに来たか。
戦国時代の政治情勢!
歴史好きとしては興味津々だ。
ただし。
俺自身が、その戦国時代の真っただ中にいるんだけどな!
同日 朝餉の後
宮部城・広間
「まず、これを見よ」
宮部が床に広げたのは、近江周辺の山や川、街道、城の位置を描いた絵図だった。
現代の地図のように正確な縮尺ではない。
しかし、土地のつながりを知るには十分だった。
「……おお!」
俺は身を乗り出した。
「琵琶湖だがね!」
「そうじゃ」
「でっかい!」
「……見れば分かる」
「尾張の海みたいだがね!」
「湖じゃ!」
……お父さん、朝からツッコミが鋭い。
「治兵衛。ここが宮部じゃ」
宮部が指を置いた。
「我らの本拠、宮部城じゃ」
「はい!」
「ここは近江国坂田郡。北には浅井の本拠、小谷城がある」
俺は頷いた。
小谷城。
浅井長政の居城。
北近江を代表する山城だ。
浅井家は、かつて織田信長と同盟を結んでいた。
信長の妹、お市の方が浅井長政に嫁いだことでも知られている。
しかし、元亀元年、一五七〇年。
信長が越前の朝倉義景を攻めた際、長政は朝倉方についた。
それ以来、織田家と浅井家は敵同士である。
「……お父さん」
「なんじゃ?」
「浅井長政様は、まだ小谷城におるん?」
「もちろんじゃ」
「……強い?」
「強い。侮ってはならん」
宮部の声が低くなった。
「浅井家には、長く北近江を治めてきた力がある。家臣も、領民もおる」
「……なるほど」
「そして、越前の朝倉家が浅井を支えておる」
「朝倉義景様?」
「うむ」
俺は絵図を見つめた。
……これは危ない。
北に浅井。
その向こうに朝倉。
南からは織田。
宮部家は、その狭間にいる。
「……お父さん」
「なんじゃ?」
「宮部城って、危ないところにあるんだがね?」
宮部は俺を見た。
そして、ゆっくり頷いた。
「……そのとおりじゃ」
……ええええ!
俺、そんなところに養子入りしたの!?
叔父さん!
藤吉郎叔父さん!
話が違うがね!
……いや、危険な場所だとは聞いていたけど!
同日 午前九時頃
宮部城・広間
「宮部家は、もともと浅井家に属しておった」
宮部が説明を続けた。
「しかし、織田家との戦が長引き、北近江の国衆は難しい立場に置かれておる」
「……国衆?」
「土地に根を張り、城や村を守る武士たちのことじゃ」
なるほど。
戦国時代の武士といっても、全員が大名の命令だけで動くわけではない。
それぞれの土地に、家族がいる。
家臣がいる。
領民がいる。
田畑がある。
大名同士が戦えば、国衆はどちらにつくかを迫られる。
選択を誤れば、城も村も失う。
「……お父さん」
「なんじゃ?」
「宮部家は、織田家につくん?」
「そのつもりじゃ」
「……浅井家から離れるん?」
「うむ」
宮部の顔が引き締まった。
「ただし、容易なことではない」
「……どうして?」
「昨日まで味方だった者が、明日は敵になるからじゃ」
俺は黙った。
それは、重い言葉だった。
歴史の教科書では、武将が寝返った、降伏した、同盟を結んだ、と簡単に書かれている。
しかし、その一つ一つの決断に、人の命がかかっている。
「……お父さん」
「なんじゃ?」
「怖くないん?」
宮部は少し驚いた顔をした。
そして、苦笑した。
「怖いとも」
「……え?」
「わしとて、命は惜しい」
「…………」
「だが、わし一人の命ではない。家臣も領民も守らねばならん」
俺は養父の顔を見つめた。
……そうか。
この人は、ただの戦国武将じゃない。
宮部家の当主なんだ。
守るべきものを背負っている。
「……お父さん」
「なんじゃ?」
「俺も手伝うがね!」
「……ほう?」
「田んぼをいっぱい作る!」
「…………」
「畑もいっぱい作る!」
「…………」
「みんなが腹いっぱい食べられるようにする!」
宮部は目を丸くした。
そして、声を上げて笑った。
「はははは!」
「……え?」
「治兵衛! おぬしは本当に農が好きじゃな!」
「もちろんだがね!」
「ははは!」
……いや、笑い事じゃないぞ。
兵糧がなければ、戦はできない。
領民が飢えれば、村は弱る。
農業は、戦国時代の国力そのものなんだから!
同日 午前十時頃
宮部城・広間
「では、次は織田家についてじゃ」
宮部が絵図の南側を指さした。
「織田信長殿は、尾張と美濃を基盤に勢力を広げておる」
「はい!」
「永禄十一年、一五六八年には、足利義昭公を奉じて上洛した」
「はい!」
「今は畿内にも勢力を伸ばしておるが、敵も多い」
俺は思わず頷いた。
織田信長。
桶狭間の戦いで今川義元を討ち、尾張から勢力を拡大した戦国大名。
永禄十年、一五六七年には美濃を攻略し、稲葉山城を岐阜城と改めた。
そして、天下布武を掲げた。
しかし、元亀三年の信長は、まだ天下人ではない。
「……お父さん」
「なんじゃ?」
「織田家の敵って、浅井と朝倉だけじゃないんだがね?」
宮部が頷いた。
「そうじゃ」
「……ほかには?」
「石山本願寺」
「……はい」
「甲斐の武田信玄」
「……はい」
「それに、畿内にも織田に従わぬ勢力がおる」
俺は内心で唸った。
……そうなんだよな。
この時代の信長は、四方に敵を抱えている。
石山本願寺は、摂津国石山を拠点として織田家と戦っている。
甲斐の武田信玄は、東国屈指の大名。
そして、将軍足利義昭と信長の関係も悪化していた。
「……お父さん」
「なんじゃ?」
「織田家、大丈夫なん?」
宮部は少し考えた。
「……信長殿は、恐ろしいほど決断の早い御方と聞く」
「……うん」
「だが、敵が多いことも事実じゃ」
俺は絵図を見つめた。
史実では、翌元亀四年、一五七三年。
武田信玄が病没する。
同じ年、朝倉義景と浅井長政も滅びる。
そして、信長は将軍足利義昭を京都から追放する。
しかし、それは俺の知る歴史だ。
この世界でも、同じことが起きる保証はない。
……まして、俺が転生しているんだから。
「……お父さん」
「なんじゃ?」
「藤吉郎叔父さんは、今どこにおるん?」
宮部は笑った。
「木下藤吉郎殿か」
「はい!」
「織田家の近江方面の働きを支えておられる」
「……忙しい?」
「非常にな」
……だろうな。
後の豊臣秀吉。
今はまだ木下藤吉郎。
しかし、信長のもとで出世を続けている。
北近江の戦いでも重要な役割を担っているはずだ。
「……お父さん」
「なんじゃ?」
「藤吉郎叔父さん、出世するんかな?」
宮部は笑った。
「才のある御方じゃ。いずれ大きな働きをなされよう」
「……そっか」
……知っとる。
めちゃくちゃ出世する。
出世しすぎる。
そして、その出世が俺の死亡フラグにつながる。
……叔父さん!
ほどほどに出世してちょう!
同日 昼前
宮部城下・宮部村
「……おお!」
俺は畦道に立ち、周囲を見渡した。
宮部村。
宮部城を中心に、田畑や家々が広がる村である。
北近江は、琵琶湖へ注ぐ川が多く、稲作に適した土地もある。
しかし、どこでも簡単に米が作れるわけではない。
水を引くには、堰や用水路が必要だ。
洪水が起きれば田畑が流される。
日照りが続けば、水が足りなくなる。
さらに、戦が起きれば農作業そのものが止まってしまう。
「……弥兵衛じいちゃーん!」
俺は手を振った。
「おお! 若様!」
昨日から農業を教えてくれている、弥兵衛じいちゃんだ。
「今日は何をお知りになりたいので?」
「……村のこと!」
「……村?」
「うん!」
俺は胸を張った。
「宮部村のこと、全部知りたいんだわ!」
「…………」
弥兵衛じいちゃんが笑った。
「ははは! また大きなことを申される!」
「……そう?」
「村のことを全部知るには、何年もかかりまするぞ」
「……じゃあ、何年も勉強する!」
「…………」
老人が目を丸くした。
そして、静かに笑った。
「……若様は、本当に変わっておられる」
……またそれかい!
俺は頬を膨らませた。
「じいちゃん!」
「はい?」
「村には、何軒くらい家があるん?」
「……家の数でございますか?」
「うん!」
「……正確には数えておりませぬが」
「……そっか」
「なぜ、そのようなことを?」
俺は少し考えた。
そして、答えた。
「……村のみんなが、ちゃんと食べられとるか知りたいんだわ」
「…………」
弥兵衛じいちゃんは黙った。
「……若様」
「はい?」
「……戦が続くと、食べ物に困る家もございます」
「…………」
「働き手を失う家もございます」
「……うん」
「田畑を荒らされることもございます」
俺は唇を噛んだ。
戦国時代。
戦は、武士だけの問題ではない。
村人の生活そのものを壊す。
「……じいちゃん」
「はい?」
「俺、もっと勉強する」
「……はい」
「田んぼも、畑も、水も、肥やしも」
「……はい」
「みんなが困らんようにしたいんだわ」
弥兵衛じいちゃんは、ゆっくり頭を下げた。
「……ありがたいことでございます」
俺は慌てた。
「じいちゃん! 頭下げんといて!」
「……若様?」
「俺が教えてもらっとるんだがね!」
「…………」
老人は笑った。
「……では、明日もお教えいたしましょう」
「やったあああ!」
同日 午後
宮部城・居間
「……治兵衛」
「はい、お父さん!」
宮部継潤が、俺の前に座った。
「今日は何を学んだ?」
「宮部家のこと!」
「……うむ」
「浅井家のこと!」
「……うむ」
「織田家のこと!」
「……うむ」
「それから、宮部村のこと!」
宮部は頷いた。
「……よく学んだな」
俺は少し考えた。
そして、尋ねた。
「……お父さん」
「なんじゃ?」
「戦が始まったら、村のみんなはどうなるん?」
宮部の表情が引き締まった。
「……逃げる者もおろう」
「……うん」
「城へ身を寄せる者もおろう」
「……うん」
「だが、すべての者を守れるとは限らん」
「…………」
俺は黙った。
そして、真剣に言った。
「……お父さん」
「なんじゃ?」
「俺、村のみんなが逃げられる場所を知りたい」
「……ほう?」
「それから、水と食べ物を置ける場所も!」
宮部は目を細めた。
「……なぜじゃ?」
「戦が始まってから考えたら、遅いがね!」
「…………」
宮部はしばらく黙った。
そして、静かに頷いた。
「……そのとおりじゃ」
俺は続けた。
「村の道も知りたい!」
「……うむ」
「川も!」
「……うむ」
「橋も!」
「……うむ」
「田んぼも!」
「……やはり田んぼか!」
「もちろんだがね!」
宮部は声を上げて笑った。
「はははは!」
……いや、笑い事じゃないぞ!
農業も、防災も、村の地理を知らなければ始まらないんだから!
同日 夕刻
宮部城・治兵衛の自室
「……ふう」
俺は部屋に戻り、美々を抱き上げた。
「……美々」
「にゃあ?」
「今日は、いっぱい勉強したなあ」
「にゃあ」
「宮部家のこと」
「にゃあ」
「浅井家のこと」
「にゃあ」
「織田家のこと」
「にゃあ」
「それから、宮部村のこと」
「にゃあ」
俺は小さく笑った。
「……お前、全部にゃあやな」
「にゃあ!」
……まあ、ええか。
俺は紙片に、今日聞いたことを書き留めた。
宮部城。
小谷城。
浅井長政。
朝倉義景。
織田信長。
木下藤吉郎。
石山本願寺。
武田信玄。
そして、宮部村。
「……なるほどなあ」
俺は天井を見つめた。
この時代。
宮部家は、戦乱の最前線にいる。
しかし、村には田畑がある。
家族がいる。
暮らしがある。
「……美々」
「にゃあ?」
「俺、やっぱり農業を勉強したい」
「にゃあ」
「でも、それだけじゃ足りんかもしれんな」
「にゃあ」
「村のみんなを守る方法も、考えんといかん」
俺は小さな拳を握った。
「……絶対に、誰も飢えさせたくないんだわ」
美々が俺の膝に頭を乗せた。
「……にゃあ」
俺は微笑んだ。
「……ありがとな、美々」
そのとき。
廊下から声が聞こえた。
「……殿、若様はいかがでございました?」
「うむ」
宮部の声だった。
「……あの子は、戦の話を聞いても、敵を討つことより、村人の暮らしを案じておった」
「……五つの童とは思えませぬな」
「うむ」
宮部は静かに笑った。
「……よい子じゃ」
「……将来が楽しみでございますな」
「うむ」
俺は固まった。
……あれ?
なんか、また評価が上がっとる?
「……美々」
「にゃあ?」
「俺、出世したくないんやけど」
「にゃあ」
「……これ、まずいんちゃう?」
美々は大きくあくびをした。
「……ふにゃあ」
そして、そのまま眠ってしまった。
「……おい」
俺は天井を仰いだ。
戦国時代。
豊臣秀次。
死亡予定まで、あと二十三年。
目標、天寿全う。
現在の課題――。
宮部家の情勢を知ること。
北近江の戦乱を理解すること。
織田家の動きを学ぶこと。
そして、宮部村の田畑と領民を守ること。
……完璧な勉強計画だ!
ただし、最大の問題が一つ。
宮部家の情勢を知れば知るほど、俺がとんでもなく危険な場所に養子入りしたことが分かってしまうこと。
「……藤吉郎叔父さあああん!」
その夜。
宮部城に、五歳児の悲鳴が響いた。




