第5話「五歳児の朝活が始まった! 筋トレ、柔軟、田畑の勉強! ……武士の仕事は?」
元亀三年(西暦1572年)九月二十二日〈旧暦〉 秋・早朝
近江国坂田郡 宮部城
「……いーち、にーい、さーん!」
まだ夜が明けきらない宮部城。
虫の声が響く小さな部屋で、俺は一人、身体を動かしていた。
「……しーい、ごーお、ろーく!」
腕を前に伸ばす。
背筋を伸ばす。
ゆっくり身体を前に倒す。
「……痛たたた!」
硬い!
身体が硬い!
いや、五歳児だから柔らかいはずだろ!?
……と思ったが、そう簡単な話ではなかった。
前世の俺は、京都大学農学部四回生。
極真空手三段。
合気道二段。
柔道二段。
柔軟体操も筋力トレーニングも、日課だった。
しかし、今の俺は木下治兵衛。
数え五歳。
後の豊臣秀次である。
身体の大きさも、筋力も、重心も、何もかも違う。
前世の感覚で動けば、昨日のように尻餅をつく。
「……無理したら、あかんな」
俺は大きく息を吐いた。
「まずは、身体を慣らすところからや!」
「……にゃあ」
布団の上から、三毛猫の美々が返事をした。
「美々! お前も体操するか?」
「にゃあ」
美々は前足を伸ばし、背中をぐーっと反らせた。
「……おお!」
俺は感心した。
「猫の柔軟性、すごいがね!」
「にゃあ!」
「よし! 俺も!」
美々の真似をして、背中を反らせる。
「……うぐぐぐ!」
……無理!
猫には勝てん!
同日 早朝・宮部城の庭
「……よし!」
俺は庭の隅に立った。
朝露に濡れた草が、足元で光っている。
遠くには近江の山々。
琵琶湖へと流れる川筋から、冷たい風が吹いてきた。
宮部城の周辺は、北近江の田園地帯だ。
少し南へ進めば、姉川の流域。
さらに南には、琵琶湖へ注ぐ天野川などがある。
この地域では、川の水を田へ引くために、堰や用水路が重要な役割を果たしている。
戦国時代の農業は、水との戦いでもあった。
……まあ、その勉強は後や!
今は筋トレ!
「……いち!」
俺はゆっくり膝を曲げた。
「……に!」
腰を落とす。
「……さん!」
立ち上がる。
「……し!」
また腰を落とす。
スクワット。
ただし、五歳児の身体だ。
前世と同じ回数をこなす必要はない。
「……ご!」
俺はそこで止めた。
「……ふう!」
五回。
たった五回。
しかし、今はそれで十分だ。
無理に回数を増やしても、怪我をするだけ。
「……次!」
俺は両手を地面についた。
腕立て伏せ!
「……いち!」
ぐぐぐ……。
「……に!」
ぷるぷる……。
「……さ……」
べしゃっ!
「……うぐっ!」
地面に突っ伏した。
「……にゃあ?」
美々が近づいてきた。
「……美々」
「にゃ?」
「今のは、腕立て伏せや」
「にゃあ」
「……寝転んどるわけじゃないで!」
「にゃあ!」
……絶対、信じとらん!
俺は起き上がり、膝をついて腕立て伏せをやり直した。
「……これなら、いける!」
無理なく。
少しずつ。
毎日続ける。
筋肉は、一日で強くなるわけではない。
まして、成長途中の身体だ。
大切なのは、正しい姿勢と継続。
「……よし!」
俺は拳を握った。
「八十歳まで生きるための身体作りや!」
「にゃあ!」
美々が元気よく鳴いた。
……お前も八十歳まで生きるつもりか?
同日 朝餉の頃
宮部城・居間
「……治兵衛」
「はい、お父さん!」
宮部継潤が、俺をじっと見つめた。
「今朝も庭で何やらしておったそうじゃな」
「はい!」
「……昨日は空手」
「はい!」
「今日は何じゃ?」
「筋トレです!」
「……きんとれ?」
「身体を鍛える稽古です!」
「……ほう?」
宮部は顎を撫でた。
「どのような稽古じゃ?」
「膝を曲げたり、腕を曲げたり、身体を伸ばしたりします!」
「……それだけか?」
「はい!」
「……武器は?」
「使いません!」
「……相手は?」
「いません!」
「…………」
宮部はしばらく黙った。
そして。
「……治兵衛」
「はい?」
「おぬし、昨日から一人で何と戦っておるのじゃ?」
「……自分です!」
「…………」
宮部が固まった。
「……自分?」
「はい!」
「……自分と戦うのか?」
「はい!」
「…………」
宮部は天井を仰いだ。
「……藤吉郎殿」
小さくつぶやいた。
「わしは、とんでもない養子を迎えてしまったようじゃ……」
……またそれかい!
俺は頬を膨らませた。
「お父さん!」
「なんじゃ?」
「毎日少しずつ鍛えたら、身体が強くなるがね!」
「……うむ」
「強くなったら、田んぼも耕せる!」
「……田んぼ?」
「畑も耕せる!」
「……畑?」
「肥やしも運べる!」
「……肥やし?」
宮部は大きなため息をついた。
「……結局、農業か!」
「もちろんだがね!」
「はははは!」
宮部は腹を抱えて笑った。
「治兵衛!」
「はい!」
「おぬしは、武士より百姓に向いておるかもしれんな!」
「やったあああ!」
「……喜ぶな!」
……え?
褒め言葉じゃないの?
同日 午前九時頃
宮部城下・水田地帯
「……弥兵衛じいちゃーん!」
俺は畦道を走った。
「おお! 若様!」
白髪交じりの老人が、笑顔で手を振った。
昨日、俺に農業を教えてくれた弥兵衛じいちゃんだ。
「今日も勉強させてちょう!」
「ははは! ようございますとも!」
「やった!」
俺は嬉しくなって、ぴょんぴょん跳ねた。
「……若様」
弥兵衛じいちゃんが苦笑した。
「昨日は田畑、今日は何をお知りになりたいので?」
「……全部!」
「…………」
「田んぼも、畑も、肥やしも、水も!」
「……若様」
「はい?」
「一日では覚えられませぬぞ?」
「……分かっとる!」
俺は胸を張った。
「だから、毎日来るんだわ!」
「…………」
弥兵衛じいちゃんが目を丸くした。
そして、声を上げて笑った。
「はははは!」
「……え?」
「いやいや、若様は本当に変わっておられる!」
「……そう?」
「普通の若様なら、弓や馬を習いたがるものでございます」
「……俺も習うよ!」
「……ほう?」
「でも、農業も大事だがね!」
弥兵衛じいちゃんは静かに頷いた。
「……ありがたいことでございます」
俺は首をかしげた。
「……なんで?」
「百姓の仕事を、そこまで大切にしてくださる若様は、そう多くはございませぬ」
「…………」
俺は少し黙った。
戦国時代。
武士が戦い、百姓が耕す。
しかし、百姓が米を作らなければ、武士も食べていけない。
戦の兵糧も、城の食料も、すべて田畑から生まれる。
……それなのに。
農民が飢えるようでは、意味がない。
「……じいちゃん」
「はい?」
「俺、みんなが腹いっぱい食べられるようにしたいんだわ」
「…………」
老人の目が、少し潤んだ。
「……若様」
「はい?」
「そのお言葉、忘れませぬ」
……あれ?
なんか、感動されとる?
俺、普通のこと言っただけなんやけど……。
同日 午前十時頃
宮部城下・畑作地帯
「……じいちゃん!」
「はい!」
「今日は、畑の土を見たい!」
「……土?」
「うん!」
俺は畑の端にしゃがみ込んだ。
土を指先でつまむ。
少し湿っている。
指で揉むと、細かく崩れた。
「……ふむふむ」
前世の農学部で学んだ土壌学。
土には、砂の多いものもあれば、粘土の多いものもある。
水はけ。
保水力。
通気性。
土の性質によって、作物の育ち方は変わる。
ただし、指先で触っただけで、すべて分かるわけではない。
「……じいちゃん」
「はい?」
「この畑、雨が降ったら水が溜まる?」
「いや、こちらは比較的水が引きまする」
「……じゃあ、あっちの畑は?」
「向こうは水が溜まりやすうございます」
「……なるほど!」
俺は頷いた。
「同じ村でも、土が違うんだがね!」
「……左様でございます」
「……面白い!」
弥兵衛じいちゃんが笑った。
「若様は、土を見て喜ばれるのですな!」
「もちろん!」
「……変わっておられる」
「……またそれ!?」
俺は頬を膨らませた。
「じいちゃん!」
「はい?」
「土は大事だがね!」
「……はいはい」
「作物は土で育つんだわ!」
「……左様でございますな」
「だから、ちゃんと調べたい!」
弥兵衛じいちゃんは頷いた。
「……ならば、こちらへ」
老人は畑の端を指さした。
「この辺りは、去年、豆を作りました」
「……豆!」
「今年は大根を作っております」
「……なるほど!」
俺は目を輝かせた。
「じゃあ、来年は何を作るん?」
「まだ決めておりませぬ」
「……そっか」
俺は少し考えた。
作付けの記録。
肥料の記録。
収穫の記録。
それを毎年続ければ、畑ごとの違いが見えてくるかもしれない。
「……じいちゃん」
「はい?」
「俺、覚え書きを作りたい!」
「……覚え書き?」
「うん!」
「……何を書くので?」
「何を植えたか、いつ植えたか、どんな肥やしを使ったか!」
「……ほう」
「それから、どれくらい取れたか!」
弥兵衛じいちゃんが感心したように頷いた。
「……なるほど」
俺は笑った。
「来年、比べられるがね!」
「……若様」
「はい?」
「それは、よい考えでございますな」
「……ほんと!?」
「はい!」
俺は飛び跳ねた。
「やったあああ!」
……よし!
農業研究、第一歩!
同日 昼過ぎ
宮部城・居間
「……治兵衛」
「はい、お父さん!」
宮部継潤が、俺の前に座った。
「弥兵衛から聞いたぞ」
「……え?」
「田畑の覚え書きを作りたいそうじゃな」
「はい!」
「……何のためじゃ?」
俺は真剣に答えた。
「来年、もっと上手に作るためです!」
「……うむ」
「今年のことを覚えとったら、来年、比べられるがね!」
「……なるほど」
宮部は顎を撫でた。
「……それも、デマ・ライヤー殿の教えか?」
来た!
昨日、俺が作り上げた架空の師匠。
津島に滞在していた南蛮宣教師。
デマ・ライヤー先生。
俺は背筋を伸ばした。
「はい!」
「……ほう」
「デマ先生は、何でも覚え書きを作る方でした!」
「……何でも?」
「はい!」
「……どのようなことを?」
「天気とか、作物とか、土のこととか!」
「……なるほど」
俺は真剣に続けた。
「先生は、昨日のことを覚えとらんかったら、明日のことは考えられん、と教えてくださいました!」
「…………」
宮部は黙った。
そして、静かに頷いた。
「……よい教えじゃ」
「はい!」
「……その師を、大切に思っておるのじゃな」
俺は少し目を伏せた。
本当の師匠は、前世の大学教授や研究室の先輩たちだ。
実習で世話になった農家の方々もいる。
その人たちの顔が、次々と思い浮かんだ。
「……はい」
俺は小さく答えた。
「とても、大切な先生です」
その言葉だけは、嘘ではなかった。
同日 夕刻
宮部城・治兵衛の自室
「……ふう」
俺は部屋に戻り、美々を抱き上げた。
「……美々」
「にゃあ?」
「今日も、いっぱい勉強したなあ」
「にゃあ」
「筋トレもした!」
「にゃあ」
「柔軟体操もした!」
「にゃあ」
「田んぼも見た!」
「にゃあ」
「畑も見た!」
「にゃあ」
「……お前、全部にゃあやな」
「にゃあ!」
……まあ、ええか。
俺は小さな紙片に、今日聞いたことを書き留めた。
田んぼ。
畑。
土。
水。
肥やし。
作物。
まだ、分からないことばかりだ。
しかし、焦る必要はない。
俺には時間がある。
……いや、正確には。
史実どおりなら、あと二十三年しかない。
「……絶対に、変えてやる」
俺は小さくつぶやいた。
「この未来だけは、絶対に変えてやるんだわ」
美々が俺の膝に頭を乗せた。
「……にゃあ」
俺は微笑んだ。
「……ありがとな、美々」
そのとき。
廊下から声が聞こえた。
「……殿、若様は今日も田畑へ?」
「うむ」
宮部の声だった。
「朝は身体を鍛え、昼は農を学び、夕には覚え書きを作っておる」
「……五つの童とは思えませぬな」
「うむ」
宮部は静かに笑った。
「……末恐ろしい子じゃ」
「……将来が楽しみでございますな」
「うむ」
俺は固まった。
……あれ?
なんか、また評価が上がっとる?
「……美々」
「にゃあ?」
「俺、出世したくないんやけど」
「にゃあ」
「……これ、まずいんちゃう?」
美々は大きくあくびをした。
「……ふにゃあ」
そして、そのまま眠ってしまった。
「……おい」
俺は天井を仰いだ。
戦国時代。
豊臣秀次。
死亡予定まで、あと二十三年。
目標、天寿全う。
現在の日課――。
早朝は筋トレと柔軟体操。
午前は田畑の勉強。
午後は農業の覚え書き。
そして、空いた時間は美々と昼寝。
……完璧な生活計画だ!
ただし、最大の問題が一つ。
農業を勉強すればするほど、宮部家での評価が上がってしまうこと。
「……頼むから、俺を偉くせんといてくれえええ!」
その夜。
宮部城に、五歳児の悲鳴が響いた。




