第4話「五歳児の空手が宮部城を震撼!? 師匠は琉球の酔っぱらい・金城先生です!」
元亀三年(西暦1572年)九月二十一日〈旧暦〉 秋・早朝
近江国坂田郡 宮部城・治兵衛の自室
「……押忍!」
朝の冷たい空気を、肺いっぱいに吸い込む。
俺は両足を肩幅に開き、腰を落とした。
左拳を腰に引き、右拳を突き出す。
「せいっ!」
続いて下段払い。
身体を九十度回転。
前屈立ち。
「はっ!」
上段受け!
そして前蹴り!
「やああっ!」
すてん!
「いったあああ!」
見事に尻餅をついた。
「……にゃ?」
布団の上で丸くなっていた三毛猫の美々が、片目を開けた。
「……見るな、美々」
「にゃあ」
「笑っとるやろ!」
「にゃあ!」
……絶対、笑っとる!
俺は尻をさすりながら立ち上がった。
元・京都大学農学部四回生。
二十二歳。
極真空手三段。
合気道二段。
柔道二段。
そして現在。
木下治兵衛、数え五歳。
後の豊臣秀次。
将来、豊臣秀吉の養子となり、関白にまで上り詰めながら、文禄四年、一五九五年に高野山で切腹することになる人物である。
……冗談じゃない!
俺は八十歳まで生きるんだ!
田畑を耕し、盆栽を育て、猫と昼寝して、のんびり暮らす!
そのためには、最低限、自分の身を守る力が必要だ。
「……しかし」
俺は自分の手を見つめた。
小さい。
短い。
柔らかい。
前世の拳とは、まるで違う。
極真空手は、大山倍達が二十世紀に創始した現代武道だ。
だから、戦国時代の琉球に、今の極真空手が存在するわけではない。
それでも、前世で覚えた身体の使い方や、型の基本動作は記憶に残っている。
ただし、記憶があっても身体は五歳児。
筋力も、柔軟性も、持久力も違う。
「……無理は禁物やな」
俺は深呼吸した。
「よし! 基本からやり直し!」
「にゃあ!」
美々が鳴いた。
「美々も稽古するか?」
「にゃあ!」
「ほな、まずは正拳突き!」
俺が拳を突き出すと、美々は前足を伸ばした。
ぺしっ!
「痛っ!」
……猫パンチのほうが速い!
同日 朝餉の後
宮部城・居間
「治兵衛」
「はい、お父さん!」
養父の宮部継潤が、俺を呼んだ。
宮部継潤。
近江国坂田郡宮部を本拠とする武将である。
今は浅井家から織田方へと立場を移そうとしている。
元亀三年。
近江国北部は、織田信長と浅井長政、そして越前の朝倉義景が争う戦乱の地だった。
宮部城も、後世の立派な天守閣を備えた城ではない。
土塁や堀、柵などで守られた、戦国時代の城館である。
その周囲には田畑が広がり、領民たちが暮らしている。
昨日、俺が農業見学をしたのも、その城下だった。
「……治兵衛」
「はい!」
「今朝、何をしておった?」
「……え?」
俺は首をかしげた。
「朝?」
「うむ」
「……美々と遊んどりました!」
「……それだけか?」
「……えっと」
宮部は静かに言った。
「家人が申しておった。おぬし、部屋で奇妙な動きをしていたそうじゃな」
「…………」
しまった!
見られとった!
「……奇妙な動き?」
俺はとぼけた。
「うむ。拳を突き出し、足を蹴り上げ、何やら気合を発していたと」
「…………」
完全に見られとる!
「……治兵衛」
「はい?」
「何をしておった?」
俺は背筋を伸ばした。
ここで慌ててはいけない。
昨日、農業の知識を説明するために、俺は一人の師匠を作り上げた。
津島に滞在していた南蛮宣教師。
デマ・ライヤー先生。
もちろん、架空の人物である。
そして、武芸にも説明が必要になった。
……よし。
腹をくくろう。
「……空手の稽古です!」
「……からて?」
宮部の眉が上がった。
「はい!」
「……聞いたことがない武芸じゃ」
「琉球の武芸です!」
「……琉球?」
「はい!」
宮部は顎を撫でた。
「琉球とは、南の海の向こうにある国か?」
「そうです!」
琉球王国。
現在の沖縄県を中心に存在した王国だ。
中国や日本、東南アジアとの交易を行い、独自の文化を育んでいた。
ただし、現代の空手が、そのまま戦国時代の琉球に存在していたわけではない。
俺が身につけたのは、あくまで前世の現代武道だ。
それを説明するために、琉球の師匠という設定を使う。
……嘘に嘘を重ねる人生。
前途多難すぎる!
「……治兵衛」
「はい?」
「その武芸を、誰に教わった?」
来た!
俺は真剣な顔で答えた。
「津島に滞在しておられた、琉球の金城師匠です!」
「……きんじょう?」
「はい!」
「……琉球の者か?」
「はい!」
「……どのような人物じゃ?」
俺は少し考えた。
そして、真顔で答えた。
「……めちゃくちゃ酒飲みです!」
「…………」
宮部が固まった。
「……酒飲み?」
「はい!」
「……武芸の師匠であろう?」
「はい!」
「……なのに酒飲みなのか?」
「はい!」
「…………」
宮部は額を押さえた。
「……治兵衛」
「はい?」
「おぬしの師匠は、変わった者ばかりじゃな」
……確かに。
農業の師匠はデマ・ライヤー。
武芸の師匠は金城。
しかも、大酒飲み。
我ながら、ひどい設定や。
だが、ここで笑ってはいけない。
俺は真剣な表情を崩さなかった。
「金城師匠は、お酒を飲むと、いつも機嫌がよくなるんです!」
「……ほう?」
「でも、稽古のときは、とても厳しい方でした!」
「……ふむ」
「何度も何度も、同じ型を教えてくださいました!」
「……型?」
「はい!」
「……どのくらい学んだ?」
「ひと月です!」
「……ひと月?」
「はい!」
「……ひと月で、それほど覚えたと?」
「毎日、朝から晩まで稽古しました!」
俺は胸を張った。
「金城師匠は、酔っぱらっていても、教えるときは真剣でした!」
「…………」
宮部はしばらく黙った。
そして。
「……治兵衛」
「はい?」
「その師匠は、今どこにおる?」
「旅立たれました!」
「……どこへ?」
「琉球へ!」
「…………」
宮部は深いため息をついた。
「……そうか」
……よし!
通った!
たぶん!
同日 午前十時頃
宮部城・庭先
「……では、治兵衛」
宮部が腕を組んだ。
「その空手とやらを、見せてみよ」
「……え?」
俺は固まった。
「……ここで?」
「うむ」
「……今?」
「うむ」
「……みんなの前で?」
「うむ」
庭先には、宮部家の家人たちが集まっていた。
若い武士。
年配の家臣。
小姓。
そして、なぜか弥兵衛じいちゃんまでいる。
「……若様!」
弥兵衛じいちゃんが手を振った。
「昨日は、ありがとうございました!」
「……じいちゃん!?」
「今日は、若様の武芸を拝見できると聞きましてな!」
……誰が呼んだんや!
宮部が笑った。
「さあ、治兵衛」
「…………」
俺は深呼吸した。
……落ち着け。
前世の俺は極真空手三段。
合気道二段。
柔道二段。
ただし。
今の身体は五歳児だ。
筋力も違う。
骨格も違う。
手足の長さも違う。
前世と同じ動きができるとは限らない。
無理をすれば、怪我をする。
だから、今日は基本の型だけにしよう。
俺は庭の中央へ進んだ。
裸足で土を踏みしめる。
秋風が頬を撫でた。
美々が縁側に座り、こちらを見ている。
「……美々」
「にゃあ?」
「見とってちょう!」
「にゃあ!」
俺は両足を揃えた。
背筋を伸ばす。
両手を身体の脇に置く。
そして。
「……礼!」
深々と頭を下げた。
「……ほう」
宮部が小さく声を漏らした。
俺は足を開いた。
腰を落とす。
拳を握る。
引き手を取る。
「……せいっ!」
正拳突き!
「……はっ!」
反対の拳!
「……やあっ!」
下段払い!
一歩前へ。
上段受け。
方向を変え、もう一度下段払い。
基本の立ち方と受け、突きを組み合わせた動きだ。
前世の稽古で身体に染みついた動作。
しかし。
「……っ!」
足が震えた。
……くっ!
腰が落ちん!
踏ん張りが利かん!
五歳児の身体では、長時間の型は難しい。
それでも、俺は歯を食いしばった。
「……せいっ!」
最後の正拳突き!
そして、礼!
「……ありがとうございました!」
静寂。
誰も声を出さなかった。
……あれ?
失敗した?
すると。
「……ほう」
宮部が立ち上がった。
「……見事じゃ」
「……え?」
「治兵衛」
「はい?」
「誰に向かって拳を突き出すのか、分かっておるか?」
俺は頷いた。
「……相手です!」
「……うむ」
「でも、本当は……」
「……なんじゃ?」
俺は少し考えた。
そして、答えた。
「……戦わんために、稽古するんです!」
「…………」
宮部の表情が変わった。
「……戦わぬため?」
「はい!」
「……武芸とは、敵を倒すためのものではないのか?」
「それもあります!」
俺は頷いた。
「でも、強くなったら、無駄に喧嘩せんで済むこともあるがね!」
「…………」
「弱い人を守ることもできる!」
宮部は黙って俺を見つめた。
「……誰を守りたい?」
俺は即答した。
「お母さん!」
「……うむ」
「お父さん!」
「……うむ」
「弥兵衛じいちゃん!」
「……わし!?」
弥兵衛じいちゃんが驚いた。
「それから、美々!」
「にゃあ!」
「……猫までか」
宮部が苦笑した。
「家族だがね!」
俺は胸を張った。
「美々も、大事な家族だがね!」
宮部はしばらく黙った。
そして、静かに笑った。
「……そうか」
同日 昼前
宮部城・庭先
「……治兵衛」
宮部が言った。
「その武芸は、素手だけなのか?」
「……いえ!」
俺は首を振った。
「道具を使うこともあります!」
「……ほう?」
「例えば、棒とか!」
「……棒術か」
「それから、鎌!」
「……鎌?」
宮部の眉が上がった。
「百姓の使う鎌か?」
「はい!」
「……それを武器にするのか?」
「使い方によります!」
俺は頷いた。
琉球の武器術には、棒や釵、鎌などを用いる系統がある。
ただし、それらの技法がこの時代に現代と同じ形で成立していたと断言はできない。
何より、俺が前世で学んだ極真空手の段位だけで、釵や鎌の達人になれるわけではない。
知識と実技は別物だ。
「……お父さん」
「なんじゃ?」
「でも、今は素手の稽古を続けたいです!」
「……なぜじゃ?」
「身体が小さいから!」
「……うむ」
「無理して怪我したら、田んぼを見に行けんがね!」
「…………」
宮部が吹き出した。
「はははは!」
「……え?」
「結局、田畑か!」
「もちろん!」
「ははは!」
家人たちも笑った。
「若様は、武芸より畑が好きなのですな!」
「そうだがね!」
「……では、若様!」
弥兵衛じいちゃんが手を上げた。
「今度、畑でその型を見せてくだされ!」
「……え?」
「百姓たちにも、教えてくだされ!」
俺は目を丸くした。
……農民に空手?
悪くない。
いや、むしろ面白い。
農民が自分の身を守るための、簡単な体捌き。
転び方。
姿勢。
無理のない身体の使い方。
合気道や柔道の受け身も役に立つかもしれない。
ただし、五歳児の俺が教えるには、まだ早い。
「……じいちゃん!」
「はい!」
「もう少し、俺が大きくなったらね!」
「……ははは!」
「約束だがね!」
「承知いたしました!」
宮部が頷いた。
「よい心がけじゃ」
「……はい!」
俺は笑った。
しかし、宮部は続けた。
「だが、治兵衛」
「はい?」
「武芸を学ぶなら、宮部家の武芸も学べ」
「……はい!」
「弓も、馬も、槍もじゃ」
「……はい!」
「そして、兵法も学ぶのじゃ」
「…………」
俺は固まった。
……あれ?
なんか、話が大きくなっとる?
「……お父さん」
「なんじゃ?」
「俺、農業を勉強したいんだけど……」
「農業も学べばよい」
「……え?」
「武芸も農も、両方学べ」
「…………」
宮部は笑った。
「文武両道じゃ!」
……しまった!
自分で自分の首を絞めた!
同日 夕刻
宮部城・治兵衛の自室
「……ふう」
俺は畳に寝転がった。
美々が胸の上に乗ってきた。
「にゃあ」
「……美々」
「にゃ?」
「今日も、大変やったなあ」
「にゃあ」
「空手の型を見せたら、武芸も学ぶことになってまった」
「にゃあ」
「……俺、農業を研究したいだけなんやけど」
美々は俺の胸の上で丸くなった。
「……ふにゃあ」
……寝るんかい!
俺は天井を見つめた。
前世の俺は、京都大学農学部で学んだ。
極真空手も、合気道も、柔道も学んだ。
そして今。
戦国時代で、その知識と技能を使おうとしている。
ただし。
現代の知識があっても、身体は五歳児。
戦国時代の農業も、武芸も、まずは現地で学び直さなければならない。
「……焦らんとこ」
俺は美々の頭を撫でた。
「まずは身体を鍛える」
「にゃあ」
「農業も勉強する」
「にゃあ」
「それから、みんなを守れるようになる」
「にゃあ」
「……そして!」
俺は小さく拳を握った。
「絶対に関白にはならん!」
「にゃあ!」
……美々も賛成らしい。
そのとき。
廊下から声が聞こえた。
「……殿、若様の武芸はいかがでございました?」
「うむ」
宮部の声だった。
「……不思議な武芸じゃ」
「……はっ」
「しかし、あの年で、あれほど身体を使えるとはな」
「……将来が楽しみでございますな」
「うむ」
宮部は静かに笑った。
「農にも武にも、才があるやもしれぬ」
「……ははっ!」
俺は布団の中で固まった。
……あれ?
なんか、また評価が上がっとる?
「……美々」
「にゃあ?」
「俺、出世したくないんやけど」
「にゃあ」
「……これ、まずいんちゃう?」
美々は大きくあくびをした。
「ふにゃあ……」
そして、そのまま眠ってしまった。
「……おい」
俺は天井を仰いだ。
戦国時代。
豊臣秀次。
死亡予定まで、あと二十三年。
目標、天寿全う。
現在の課題――。
農業研究、空手の稽古、そして宮部家の武芸の修得。
そして、最大の問題。
存在しない南蛮宣教師デマ・ライヤー先生に続き、存在しない琉球の大酒飲み・金城師匠まで、宮部家に認識されてしまったこと。
「……頼むから、金城師匠も探さんといてくれえええ!」
その夜。
宮部城に、五歳児の悲鳴が響いた。




