第2話「三毛猫の美々も養子入り!? 母ちゃん、猫は家族だがね!」
元亀三年(西暦1572年)九月十六日 秋 早朝
尾張国愛知郡中村 木下弥助の屋敷
「治兵衛ぇぇぇっ! その猫、どうするつもりだね!」
「飼う!」
「駄目だがね!」
「なんで!?」
「なんでもだわ!」
「横暴や! 母ちゃんの独裁政権や!」
「どくさい……何だって?」
「……なんでもない!」
俺は三毛猫を抱き締め、母ちゃんと睨み合っていた。
猫はというと。
「……にゃあ」
実に呑気である。
お前なあ。
俺たち、今まさに家族会議の真っ最中なんやぞ?
もうちょっと緊張感を持とうや。
「治兵衛! 猫なんぞ飼って、誰が飯を食わせるんだね!」
「俺!」
「おみゃあ、自分の飯も母ちゃんに食わせてもらっとるがね!」
「うっ!」
正論。
痛恨の一撃。
「そ、それは……」
「それに、あんたは近江へ養子に行くんだわ!」
「…………」
そうだった。
俺は豊臣秀次。
まだ木下治兵衛だけど、将来は関白になって切腹する運命の男。
その第一歩が、宮部継潤への養子入り。
……嫌や。
本当に嫌や。
けど、逃げたところで、秀吉の甥という血筋は消えない。
ならば、歴史を知る俺が先手を打つしかない。
「……母ちゃん」
「なんだね?」
「美々も連れて行く!」
「……みみ?」
「この子の名前!」
俺は三毛猫を持ち上げた。
「美々!」
「にゃあ!」
「ほら! 返事した!」
「たまたまだがね!」
「美々は賢いんだわ!」
「猫に親馬鹿になってどうするんだね!」
……いや、母ちゃん。
俺、まだ五歳やで。
親馬鹿というより、猫馬鹿や。
---
同日 朝餉の刻
父の弥助が帰ってきた。
「ただいま戻ったぞ」
「父ちゃん!」
「おお、治兵衛。元気にしとったか?」
弥助。
後の三好吉房。
俺の実父だ。
史実では秀吉の出世に伴い、豊臣一族として遇される人物。
だが、今はまだ、質素な身なりの男だった。
「父ちゃん! お願いがある!」
「なんじゃ?」
「美々を飼いたい!」
「……みみ?」
「猫!」
「……猫?」
俺は三毛猫を差し出した。
「にゃあ」
父ちゃんが猫を見た。
猫が父ちゃんを見た。
しばし沈黙。
「……雌じゃな」
「そう!」
「三毛か」
「そう!」
「……よい毛並みじゃ」
「でしょ!?」
父ちゃんは顎を撫でた。
「しかし、猫を飼うとなると……」
「弥助殿!」
母ちゃんが割って入った。
「この子、近江へ行くというのに、猫まで連れて行くと言っとるんだわ!」
「……近江へ?」
父ちゃんが俺を見た。
「治兵衛、おぬし、本当に宮部殿のところへ行く気か?」
「…………」
俺は少し考えた。
本音を言えば、行きたくない。
母ちゃんと離れたくない。
父ちゃんとも。
この家とも。
でも。
宮部継潤は、史実では秀吉の家臣として生き残る。
そして、近江の農業を学ぶには、悪くない土地だ。
琵琶湖。
水田。
用水路。
山林。
薬草。
……農学部生としては、魅力的すぎる。
「……行く」
俺は頷いた。
「でも、美々も一緒がいい」
父ちゃんは黙って俺を見つめた。
「……なぜじゃ?」
俺は美々を抱き締めた。
「だって、この子、一人ぼっちだったんだわ」
「…………」
「俺も、近江へ行ったら一人ぼっちになるかもしれん」
母ちゃんの表情が変わった。
「……治兵衛」
「だから、美々と一緒がいい」
俺は小さな声で続けた。
「美々が寂しいときは、俺がそばにおる」
「…………」
「俺が寂しいときは、美々がそばにおってくれる」
沈黙。
父ちゃんが深く息を吐いた。
「……そうか」
そして。
「ならば、連れて行くがよい」
「ほんと!?」
「弥助殿!?」
母ちゃんが叫んだ。
父ちゃんは笑った。
「とも。治兵衛は、まだ幼い」
「……それは、そうですが」
「知らぬ土地へ一人で行くのじゃ。猫一匹くらい、心の支えになってもよかろう」
「…………」
母ちゃんは俺を見た。
そして、美々を見た。
「……まったく」
大きなため息。
「父子そろって、甘いんだがね」
「……母ちゃん?」
「ただし!」
びしっ!
指を突きつけられた。
「美々の世話は、治兵衛がするんだよ!」
「はいっ!」
「飯も!」
「はいっ!」
「寝床も!」
「はいっ!」
「粗相したら、ちゃんと片づけるんだよ!」
「はいっ!」
母ちゃんは腕を組んだ。
「……それから」
「うん?」
「宮部殿が嫌だと言ったら、無理に押しつけたらいかんでね」
「…………」
しまった。
最大の難関が残っていた。
宮部継潤。
戦国武将。
しかも、これから敵方から寝返る人物。
そんな相手に、猫同伴の養子入りを認めてもらえるのか?
「……美々」
「にゃあ?」
「お前、面接あるかもしれんで」
「にゃあ」
「志望動機、考えとこな」
「……にゃあ?」
母ちゃんが呆れた。
「猫が面接するわけないがね!」
……いや、母ちゃん。
戦国時代やぞ。
何が起こるか分からん。
---
元亀三年(西暦1572年)九月十七日 秋 午前
尾張国愛知郡中村
「おおーい! 治兵衛ぇぇぇ!」
屋敷の外から声が響いた。
「藤吉郎叔父さん!」
門を開けると、藤吉郎と小一郎が立っていた。
「おお! 支度はできたか!」
「できた!」
「よし! ならば出立じゃ!」
「ちょっと待って!」
「なんじゃ?」
俺は胸元から美々を抱き上げた。
「この子も一緒!」
「…………」
藤吉郎が固まった。
小一郎も固まった。
「……治兵衛」
藤吉郎が尋ねた。
「それは何じゃ?」
「猫!」
「見れば分かるわ!」
「美々!」
「名前までつけたんか!」
「雌!」
「聞いとらん!」
「三毛!」
「それも見れば分かる!」
小一郎が吹き出した。
「ぶふっ!」
「兄者……この子、なかなか手強いですな」
「笑っとる場合か!」
俺は藤吉郎を見上げた。
「おじさん」
「なんじゃ!」
「美々も養子入りさせて!」
「…………」
藤吉郎の口が開いたまま止まった。
「……猫を?」
「うん!」
「宮部殿のところへ?」
「うん!」
「……なぜじゃ?」
俺は胸を張った。
「家族だから!」
「…………」
藤吉郎は天を仰いだ。
「……小一郎」
「はい、兄者」
「わしは、どうしたらええんじゃ?」
小一郎は真顔で答えた。
「宮部殿に、猫も養子として迎えていただくしかありますまい」
「おぬしまで何を言うんじゃ!」
「ははは!」
俺も笑った。
美々も鳴いた。
「にゃあ!」
……よし。
三対一。
多数決なら勝ちや。
---
同日 昼前
尾張国中村から美濃方面へ向かう街道
俺は藤吉郎の馬に乗せられていた。
もちろん、美々も一緒だ。
「……おじさん」
「なんじゃ?」
「馬って、こんなに揺れるん?」
「そうじゃ!」
「お尻が痛い」
「慣れじゃ、慣れ!」
「……駕籠がいい」
「贅沢言うな!」
「じゃあ牛車」
「公家か、おぬしは!」
「関白にはならんけどね!」
「また関白か!」
藤吉郎が笑った。
俺は美々を抱き締めた。
「……美々、大丈夫?」
「にゃあ」
……大丈夫そうだ。
それにしても。
戦国時代の街道は、想像以上に大変だ。
道は狭い。
舗装されていない。
雨が降れば泥だらけ。
橋がなければ渡し船。
「……物流、大変やなあ」
思わずつぶやいた。
「ぶつりゅう?」
藤吉郎が首をかしげた。
「荷物を運ぶこと!」
「ほう?」
「米も味噌も塩も、運べんかったら困るでしょ?」
「……うむ」
「道が悪いと、荷車も進まん」
「…………」
「橋があれば、もっと楽になるのになあ」
藤吉郎が黙った。
小一郎が俺を見た。
「……治兵衛」
「ん?」
「おぬし、道を作りたいのか?」
「うん!」
「……なぜじゃ?」
俺は笑った。
「だって、畑で作った野菜を売りに行くの、楽になるがね!」
「…………」
藤吉郎と小一郎が顔を見合わせた。
「……兄者」
「……うむ」
「この子、百姓になりたいと言いながら、考えることが妙に大きいですな」
「……わしも、そう思う」
しまった。
また余計なことを言った。
俺は美々を持ち上げた。
「……美々が言った!」
「にゃあ?」
「猫のせいにするな!」
藤吉郎のツッコミが飛んだ。
---
元亀三年(西暦1572年)九月十九日 秋 夕刻
近江国坂田郡 宮部城付近
数日の旅を経て、俺たちは近江へ入った。
琵琶湖の北東。
田畑が広がる土地。
稲穂が秋風に揺れている。
「……おお!」
俺は思わず声を上げた。
「すごい!」
「どうじゃ、治兵衛!」
藤吉郎が笑った。
「これが近江じゃ!」
「田んぼがいっぱい!」
「ははは! やはり百姓の血が騒ぐか!」
「うん!」
俺は目を輝かせた。
近江。
琵琶湖。
水田。
用水路。
山林。
農学部生としては、宝の山だ。
「……あれ?」
俺は田んぼを見つめた。
稲の育ち方が、場所によって違う。
水の流れも悪そうだ。
「……排水が悪いんかな?」
「はいすい?」
小一郎が尋ねた。
「水が抜けにくいんだわ」
「……ほう?」
「田んぼによって、水の量が違うでしょ?」
「…………」
「水をうまく流せば、もっと米が取れるかもしれん」
藤吉郎が馬を止めた。
「……治兵衛」
「ん?」
「おぬし、本当に五つか?」
「…………」
しまった。
またやった。
「……美々が教えてくれた!」
「にゃあ!?」
「猫が農業を教えるかあああっ!」
藤吉郎の叫びが、近江の田園に響いた。
---
同日 夕刻
近江国坂田郡 宮部城
宮部城は、山裾に築かれた城だった。
高い石垣を持つ近世城郭とは違う。
土塁。
堀。
木柵。
曲輪。
戦国時代らしい、実戦的な城だ。
「……ここか」
俺は城を見上げた。
宮部継潤。
俺の最初の養父になる男。
歴史上、秀吉の家臣として活躍する武将。
そして、俺の人生を左右する人物。
「……緊張するなあ」
美々を抱き締める。
「にゃあ」
「大丈夫や、美々」
俺は小さく笑った。
「俺が守るで」
そのとき。
城門が開いた。
「木下藤吉郎殿!」
武士たちが出迎えた。
その奥から、一人の男が現れた。
落ち着いた顔立ち。
鋭い目。
質素ながら整った身なり。
「……宮部継潤にござる」
藤吉郎が笑った。
「おお! 宮部殿!」
二人が挨拶を交わす。
俺は緊張しながら頭を下げた。
「……木下治兵衛にございます」
宮部継潤が俺を見た。
「ほう……この童が?」
「左様!」
藤吉郎が胸を張った。
「わしの甥にござる!」
「……なるほど」
宮部は俺の顔をじっと見つめた。
「よく来たな、治兵衛」
「……はい!」
「今日から、ここを我が家と思うがよい」
「……ありがとうございます!」
よし。
第一関門突破。
俺はほっとした。
ところが。
宮部の視線が、俺の腕の中へ移った。
「……ところで」
「……はい?」
「その猫は、何じゃ?」
「…………」
来た。
最大の難関。
俺は美々を抱き上げた。
「……美々です!」
「……みみ?」
「雌の三毛猫です!」
「…………」
宮部が黙った。
藤吉郎が咳払いした。
「実は宮部殿……」
「……何でござる?」
「この治兵衛、猫も養子にしてほしいと申しておりましてな」
「…………」
宮部継潤の目が大きく開いた。
「……猫を?」
「はい!」
俺は元気よく答えた。
「美々も家族なんです!」
「…………」
宮部は俺を見た。
美々を見た。
藤吉郎を見た。
小一郎を見た。
そして。
「……ふっ」
小さく笑った。
「ははははは!」
豪快な笑い声が響いた。
「木下殿!」
「は、はい!」
「面白い童を連れてきたものじゃ!」
「ははは……面目ない」
「よい!」
宮部は俺の前にしゃがみ込んだ。
「治兵衛」
「……はい」
「その猫を、大切にするか?」
「もちろん!」
「最後まで面倒を見るか?」
「はい!」
「病になっても、年老いても?」
俺は即答した。
「最後まで一緒です!」
宮部は静かに頷いた。
「……そうか」
そして。
「ならば、その猫も迎えよう」
「……え?」
「今日から、その美々も宮部家の一員じゃ」
「…………」
俺は目を見開いた。
「……ほんと!?」
「武士に二言はない」
「やったああああっ!」
俺は飛び跳ねた。
美々も鳴いた。
「にゃあ!」
藤吉郎が大笑いした。
「わっはっはっは! 宮部殿! 猫まで養子にするとは!」
宮部も笑った。
「猫一匹を守れぬ者が、人を守れるとは思えませぬからな」
「…………」
俺は宮部を見つめた。
この人。
いい人だ。
少なくとも、今はそう思った。
「……宮部のお父さん」
「……ん?」
「よろしくお願いします!」
俺は深々と頭を下げた。
宮部は優しく笑った。
「うむ。こちらこそ、よろしく頼むぞ」
そして。
「……ところで治兵衛」
「はい?」
「一つ、聞いてもよいか?」
「何でしょう?」
宮部は真顔になった。
「おぬし、何が好きじゃ?」
俺は胸を張った。
「畑!」
「……畑?」
「薬草!」
「……薬草?」
「盆栽!」
「……ぼんさい?」
「昼寝!」
「…………」
宮部の顔が固まった。
藤吉郎が吹き出した。
「ぶふっ!」
小一郎が肩を震わせた。
宮部はしばらく黙っていた。
そして。
「……木下殿」
「はい?」
「本当に、この童を武士にするおつもりか?」
「…………」
藤吉郎は天を仰いだ。
「……わしも、少々不安になってきましたわ」
俺は美々を抱き締めた。
「……武士じゃなくても、ええんだけど」
「駄目じゃ!」
藤吉郎の即答。
「……なんでやねえええええん!」
宮部城に、俺の叫びが響いた。
こうして。
元・京都大学農学部四回生。
現・木下治兵衛。
後の豊臣秀次。
数え五歳。
そして、三毛猫の美々。
一人と一匹の宮部家生活が始まった。
ただし。
このときの俺は、まだ知らなかった。
宮部継潤が、想像以上に厳しい養父であることを。
そして。
翌朝、宮部城の田んぼを見た俺が、思わず口にした一言によって、宮部家の家臣たちを巻き込む大騒動が始まることを。
「……俺、畑を見ただけなんやけどなあ」




