第1話「叔父が豊臣秀吉なんですけど! 養子先は敵の城!?」
元亀三年(西暦1572年)九月十五日 朝
尾張国愛知郡中村 木下弥助の屋敷
「痛たたた……母ちゃん、拳骨はあかんて……」
俺は頭をさすりながら、囲炉裏の前に座っていた。
転生して、まだ一時間。
早くも母ちゃんに殴られた。
しかも理由は、朝っぱらから大声を出したから。
……いや、仕方ないやろ!
自分が豊臣秀次になっとると知ったら、誰だって叫ぶわ!
「治兵衛! ぼさっとしとらんと、飯を食べやあ!」
「はーい!」
目の前には木椀に盛られた麦飯。
それから味噌汁と漬物。
「……おお!」
俺は思わず身を乗り出した。
「豆味噌や!」
「はあ? 当たり前だがね」
母ちゃんが呆れた顔をした。
「尾張で味噌いうたら、豆味噌だわ。何を珍しがっとるんだね?」
「いやあ、ええ香りやなあと思って」
「……ええ香り?」
「うん! 大豆の旨味がぎゅっと詰まっとる!」
「…………」
母ちゃんの箸が止まった。
「……治兵衛」
「ん?」
「おみゃあ、いつから味噌の品定めなんぞするようになったんだね?」
「……え?」
しまった。
五歳児が発酵食品を評論してどうする。
「……母ちゃんの味噌汁が好きなんだわ!」
「…………」
母ちゃんの頬が緩んだ。
「まったく……口だけは達者になったもんだがね」
よし。
ごまかせた。
俺は味噌汁をすすった。
濃い。
塩辛い。
でも、うまい。
尾張の豆味噌は、大豆を主原料として長く熟成させる。
前世では、京都の白味噌も好きだった。
だが、この力強い味も捨てがたい。
「……味噌煮込みうどん食べたいなあ」
「みそにこみ?」
「……なんでもない!」
危ない危ない。
現代の名古屋名物を、うっかり口走ってしまった。
もっとも、戦国時代にも煮込み料理はある。
問題は、現代の料理名をそのまま使うことだ。
「……気をつけよ」
「何をぶつぶつ言っとるんだね?」
「味噌汁、おかわり!」
「最初からそう言やあええがね!」
母ちゃんは笑いながら椀を受け取った。
その笑顔を見て、胸が少し痛んだ。
史実の母、とも。
後に瑞龍院日秀と呼ばれる女性。
俺が切腹した後、息子だけでなく孫たちまで失う。
……そんな未来、絶対に嫌だ。
「母ちゃん」
「なんだね?」
「俺、母ちゃんを泣かせんでね」
「…………」
母ちゃんが目を丸くした。
「……何だね、急に」
「約束する!」
「ふふっ……そうかね」
母ちゃんは俺の頭を撫でた。
「なら、まずは好き嫌いせず飯を食べやあ」
「はい!」
……感動的な親子の会話が、食育で終わった。
まあ、ええか。
同日 午前九時頃
「おおーい! 姉上ぇぇぇ!」
屋敷の外から、やたら大きな声が響いた。
「おるかーっ!」
母ちゃんが顔を上げた。
「あら、藤吉郎だがね」
……来た。
来てしまった。
未来の天下人。
俺の死亡フラグ製造機。
木下藤吉郎。
ガラッ!
「姉上! 久しぶりだがね!」
入ってきたのは、小柄で痩せた男だった。
日に焼けた顔。
よく動く目。
人懐っこい笑顔。
腰には刀。
その後ろには、もう一人。
藤吉郎より少し落ち着いた雰囲気の男がいた。
「姉上、ご無沙汰しております」
「まあ、小一郎まで!」
……え?
小一郎?
俺は思わず身を乗り出した。
木下小一郎。
後の羽柴秀長。
豊臣秀長。
秀吉の天下統一を支える名補佐役。
そして、史実では俺が関白になる直前の一五九一年に亡くなる人物だ。
……この人が長生きしてくれたら、俺の人生も変わるんちゃうか?
「おお! 治兵衛!」
藤吉郎が俺を見つけた。
「大きゅうなったのう!」
「……おじさん」
「なんじゃ、元気がないのう!」
ひょい!
抱き上げられた。
「うわっ!」
「どうじゃ! 叔父さんじゃぞ!」
「……知っとる」
「もっと喜ばんか!」
藤吉郎が俺の頬をつついた。
「痛い痛い!」
「ははは! 可愛い奴じゃ!」
……やめて。
未来の天下人に抱っこされるとか、心臓に悪い。
俺は小一郎を見た。
「……小一郎おじさん」
「なんじゃ、治兵衛?」
「長生きしてね」
「…………」
小一郎が目を丸くした。
「……は?」
「絶対、長生きして!」
「……お、おう」
藤吉郎が大笑いした。
「わっはっは! 小一郎! おぬし、もう年寄り扱いされとるぞ!」
「兄者、笑い事ではありませぬ!」
「ははは!」
小一郎は苦笑しながら俺の頭を撫でた。
「ありがとうな、治兵衛」
……頼むで。
本当に。
あんたが長生きしてくれたら、俺の死亡フラグが一本くらい減るかもしれへんのや。
「ところで姉上」
藤吉郎が真顔になった。
「今日は治兵衛のことで話があるんじゃ」
母ちゃんの表情が曇った。
「……養子の話だがね?」
「うむ」
俺は黙って耳を澄ませた。
地獄耳。
前世からの特技だ。
小声でも、意外とよく聞こえる。
「近江の浅井との戦が、なかなか片づかんでのう」
藤吉郎が続けた。
「宮部継潤という男がおる」
……来た。
宮部継潤。
浅井家の家臣。
近江国宮部城の城主。
後に秀吉の家臣となり、因幡鳥取城を任される人物だ。
「その宮部殿を、こちらへ引き入れたい」
「……それで、治兵衛を?」
母ちゃんが尋ねた。
「うむ。養子として迎えていただければ、両家の結びつきも強うなる」
「…………」
俺は黙って考えた。
なるほど。
政略養子。
要するに、人質だ。
ただし、戦国時代の養子は単なる人質とは限らない。
家と家を結ぶ。
家督を継ぐ。
同盟を固める。
政治的な意味が非常に大きい。
……まあ、五歳児の俺に選択権があるとは思えへんけど。
「……おじさん」
「なんじゃ、治兵衛?」
「宮部殿って、どんな人?」
藤吉郎が目を細めた。
「ほう?」
「怖い人?」
「いや、なかなか立派な武士じゃ」
「百姓をいじめる?」
「……何?」
「田んぼを荒らしたり、年貢を無茶苦茶取ったりする?」
藤吉郎が黙った。
小一郎も俺を見た。
「……治兵衛」
藤吉郎が尋ねた。
「なぜ、そんなことを聞く?」
俺は首をかしげた。
「だって、百姓が飢えたら、お侍さんも飯を食えんでしょ?」
「…………」
「田んぼが荒れたら、お米が取れん」
「……うむ」
「お米が取れんかったら、兵糧もなくなる」
「…………」
「そしたら、戦にも負けるがね!」
沈黙。
藤吉郎と小一郎が顔を見合わせた。
「……兄者」
「……うむ」
「この子、誰に教わったのでしょう?」
「……知らん」
しまった。
またやった。
五歳児らしくないことを言ってしまった。
俺は慌てて笑った。
「母ちゃんの味噌汁がなくなるの、嫌だもん!」
「…………」
藤吉郎が吹き出した。
「ぶわっはっはっは!」
「結局、味噌汁か!」
「うん!」
「ははは! そりゃ大事じゃ!」
小一郎も笑った。
「確かに、腹が減っては戦はできませぬからな」
……よし。
なんとかごまかせた。
「しかし、治兵衛」
藤吉郎が俺を膝に乗せた。
「宮部殿のところへ行けば、立派な武士になれるぞ」
「……武士?」
「そうじゃ!」
「畑はある?」
「……は?」
「田んぼは?」
「……あるじゃろうな」
「用水路は?」
「……あるじゃろう」
「薬草は?」
「……知らん」
「盆栽は?」
「ぼんさい?」
「小さい木を鉢で育てるんだわ!」
「…………」
藤吉郎が小一郎を見た。
「……小一郎」
「はい、兄者」
「この子、何になりたいんじゃ?」
「……百姓では?」
「…………」
母ちゃんが横から口を挟んだ。
「今朝から畑をやりたいと言っとるんだわ」
「今朝!?」
藤吉郎が叫んだ。
「昨日までは侍になると言っとったではないか!」
「気が変わった!」
「早すぎるわ!」
「だって、お侍さんは戦で死ぬがね!」
「百姓も死ぬぞ!」
「…………」
……正論やめて。
戦国時代は、百姓だって安全じゃない。
飢饉。
疫病。
戦乱。
略奪。
落武者狩り。
一揆。
平和な職業なんて存在しない。
「……なら、俺がみんなを守る」
思わず口にした。
藤吉郎が笑うのをやめた。
「……何?」
「百姓も、お侍さんも、子供も」
俺は小さな拳を握った。
「みんなが腹いっぱい飯を食べられるようにしたい」
「…………」
母ちゃんが俺を見つめた。
小一郎も黙っている。
藤吉郎は、しばらく俺の顔を見ていた。
そして。
「……そうか」
ぽん、と俺の頭に手を置いた。
「なら、まずは宮部殿のところで学ぶがよい」
「……え?」
「百姓を守るには、土地を知らねばならん。人を知らねばならん。そして、戦も知らねばならん」
「…………」
藤吉郎の目が、真剣だった。
さっきまでの陽気な猿顔とは違う。
この男は、織田家の中で出世してきた武将だ。
人を動かすことも、戦の怖さも知っている。
「治兵衛」
「……はい」
「人を助けたいなら、まず自分が強うならねばならんぞ」
「…………」
俺は頷いた。
……そうやな。
この時代。
優しいだけでは、人を守れない。
力が必要だ。
知識も。
人脈も。
そして、何より。
生き残る知恵が。
同日 午後二時頃
藤吉郎と小一郎が帰る支度を始めた。
「では姉上、治兵衛のこと、頼みますぞ」
「……本当に、この子を連れて行くんだね?」
母ちゃんの声が震えた。
藤吉郎は頷いた。
「宮部殿との話がまとまれば、迎えを寄越す」
「…………」
母ちゃんは俺を抱き締めた。
「……治兵衛」
「母ちゃん」
「寂しくなるがね」
「…………」
俺は母ちゃんの背中に手を回した。
「……大丈夫だで」
「……うん?」
「俺、ちゃんと帰ってくる」
「…………」
「母ちゃんの味噌汁、また食べるでね」
母ちゃんの目から涙がこぼれた。
「……馬鹿な子だねえ」
ぎゅっと抱き締められる。
「当たり前だがね……!」
俺は目を閉じた。
温かい。
前世の母親のことを思い出した。
俺が死んで、どれほど悲しんだだろう。
もう、あんな思いを誰にもさせたくない。
……絶対に。
同日 夕刻
藤吉郎と小一郎が屋敷を出た。
俺は門のところまで見送った。
「おじさん!」
藤吉郎が振り返った。
「なんじゃ?」
「お願いがある!」
「ほう?」
「宮部殿に伝えて!」
「何をじゃ?」
俺は大きく息を吸った。
「俺、畑を耕したいって!」
「…………」
藤吉郎が固まった。
小一郎が吹き出した。
「ぶふっ!」
「兄者……この子、本気ですな」
「……うむ」
藤吉郎は頭をかいた。
「分かった、分かった!」
そして笑った。
「宮部殿に、畑好きの童が参ると伝えておこう!」
「約束だで!」
「おう!」
二人は笑いながら去っていった。
俺は、その背中を見送った。
……さて。
これで最初の一歩だ。
宮部継潤。
近江。
浅井長政。
織田信長。
戦国の政治と戦争。
全部、避けて通れない。
ならば。
「……やったるか」
俺は拳を握った。
まずは宮部家で生き残る。
農業を学び直す。
薬草を育てる。
領民と仲良くなる。
そして、秀吉に気に入られすぎない。
「……これが一番難しいんよなあ」
俺はため息をついた。
すると。
「……にゃあ」
足元から猫の声がした。
「……ん?」
振り向くと、小さな三毛猫がいた。
「…………」
前世で助けた猫に、そっくりだった。
「……お前?」
猫は首をかしげた。
「にゃあ」
俺はしゃがみ込んだ。
「……まさかな」
そっと手を伸ばす。
猫は逃げなかった。
俺の指に鼻を寄せる。
「……そうか」
俺は笑った。
「お前も、生きとったんやな」
猫を抱き上げた。
温かい。
小さな命。
俺は胸に抱き締めた。
「……一緒に長生きしような」
「にゃあ」
そのとき。
母ちゃんの声が響いた。
「治兵衛ぇぇぇ!」
「……はいっ!」
「また猫を拾ってきたんかね!」
「……え?」
「うちは猫屋敷じゃないんだわ!」
「ちょ、待って母ちゃん!」
「返してきやあ!」
「嫌だあああっ!」
俺は猫を抱えて逃げ出した。
母ちゃんが追いかけてくる。
「待ちなさい!」
「猫は悪くないんだって!」
「治兵衛ぇぇぇ!」
……こうして。
元・京大農学部四回生。
現・木下治兵衛。
後の豊臣秀次。
数え五歳。
死亡予定まで、あと二十三年。
目標、天寿全う。
最初の課題、宮部家への養子入り。
そして。
現在最大の問題――拾った猫を母ちゃんに認めてもらうこと。
「……戦国時代、難易度高すぎやろおおお!」




