8章 同時に流れる視線
昼を少し過ぎた頃だった。
ソレアの前に、また人が立った。
一人。
それはもう、珍しいことではなくなりつつあった。
ハルノは、自然に声をかける。
「いらっしゃい」
その瞬間——
もう一人、影が入る。
横からだった。
「……あ、すみません」
先に来ていた客が、少しだけ体を引く。
「いえ、どうぞ」
譲る。
そのやり取りを、ハルノは見ていた。
——二人。
同時。
「ああ」
胸の奥で、何かがざわつく。
今までは、一対一。
だが今は——
「二つ、お願いします」
「こっちは一つで」
声が、重なる。
一瞬、どちらを見るべきか迷う。
——選べ。
「……順番にいく」
ハルノは、最初の客に向き直った。
「二つでいい?」
確認する。
「はい」
うなずき。
その背後で、もう一人の客が待つ。
視線が、背中に刺さる。
——感じているな。
「ああ……感じてる」
だが、振り返らない。
まずは目の前。
それだけに集中する。
肉を削ぐ。
だが——
今日は少し違った。
背後の気配。
横の動き。
通り過ぎる人の足音。
すべてが、同時に入ってくる。
「……」
視界が広がっている。
いや——
広がりすぎている。
手元が、ほんのわずかに遅れる。
——処理しきれていない。
「くそ……」
小さく息を吐く。
そのときだった。
「大丈夫ですよ」
後ろの客が言った。
「急いでないので」
柔らかい声だった。
ハルノの手が、少しだけ軽くなる。
——余白ができた。
「ああ」
一つ目、完成。
「はい」
渡す。
次。
その流れで、もう一つ。
二つ目も、丁寧に仕上げる。
「ありがとうございます」
最初の客が去る。
次は——
後ろにいた客。
ハルノは、顔を上げた。
その瞬間、気づく。
「……見てたな」
客は、少し笑った。
「はい」
「結構、見ちゃいました」
ハルノは、少し眉をひそめる。
「……やりづらいな」
正直な言葉だった。
客は、軽く首を振る。
「でも、なんか面白かったです」
「何がだ?」
「……ちゃんと迷ってたから」
その言葉に、ハルノは止まる。
——迷いを見られている。
「ああ……そうだな」
隠せていない。
いや——
隠す必要もないのかもしれない。
「一つでいいですか?」
客が言う。
「ああ」
ハルノは、静かに動き出す。
今度は——
さっきより、少しだけ広く見る。
目の前。
だけじゃない。
周囲の流れも、感じながら。
だが、中心はブレない。
肉。
手元。
呼吸。
——軸を持て。
「ああ」
一つの軸。
そこに、周囲を重ねる。
「はい」
渡す。
客は受け取り、少しだけ頷いた。
「……さっきよりいい」
短い評価。
だが、確かな変化だった。
ハルノは、何も言わずにうなずく。
客が去る。
ソレアの前に、また静けさが戻る。
だが——
その静けさは、前とは違う。
一対一ではない。
「……見られているな」
——ああ。
「複数に」
ただ食べる客だけじゃない。
待つ客。
観る客。
通りすがる客。
すべてが、関わってくる。
「……めんどくせぇな」
本音だった。
だが同時に——
少しだけ、楽しかった。
自分の動きが、
誰かの視線の中で変わっていく。
それは、今までにない感覚だった。
そのとき——
店の向こう側。
少し離れた場所に、
立ち止まる影があった。
じっと、こちらを見ている。
客ではない。
買う気配もない。
ただ——観察している。
「……」
ハルノは、わずかに目を細める。
——来たな。
「ああ」
それは、
“別の流れ”だった。
ソレアだけの世界ではない。
外からの視線。
別の意図を持った者。
風が、少し冷たくなる。
ハルノは、何も言わずに立ち続けた。
まだ、何も起きていない。
だが——
確実に、何かが近づいている。
視線の多重化




