第22章 静かな席
夜。
営業終了後。
ソレアの中には、火の残り香だけが漂っていた。
少年は、テーブルを拭いている。
ぎこちない。
だが——前より慣れてきていた。
「……そこ、まだ油残ってる」
ハルノが言う。
「え、あっ」
少年が慌てて拭き直す。
「力入れすぎ」
「むず……」
ハルノは、小さく息を吐く。
「道具は殴るために使うんじゃねぇ」
「テーブル拭いてるだけなのに?」
「同じだ」
少年は、少し考える。
よく分かっていない顔。
だが——
一応うなずく。
そのとき。
カラン。
閉店後のベル。
二人の動きが止まる。
入口。
そこに立っていたのは——
シドウだった。
黒シャツ。
いつもの無表情。
だが今日は、一人。
空気が少し張る。
少年が、無意識に身構える。
ハルノは、静かに見る。
「……閉店だ」
シドウは、少しだけ店内を見回した。
拭き途中の机。
片づけられた調味料。
そして——
少年のエプロン。
「……見りゃ分かる」
低い声。
だが帰らない。
沈黙。
数秒。
やがて——
シドウが言った。
「ケバブ、一つくれ」
少年が目を見開く。
「……は?」
ハルノは、少しだけ目を細めた。
「……今からか?」
「ダメか?」
少しの間。
火は、まだ完全には落としていない。
肉も、残っている。
ハルノは、黙ってコンロへ向かった。
「……甘口でいいか」
シドウが、ほんの少しだけ笑う。
「それしか言わねぇな、お前」
「一番出る」
短いやり取り。
だが——
前とは空気が違った。
ハルノは、肉を削ぐ。
シャッ。
静かな音。
少年は、黙って見ていた。
シドウ。
店を潰そうとしていた男。
機械を止め。
流通を断ち。
レビューを荒らした側。
その男が——
今、客として座っている。
「……」
少年の中で、整理が追いつかない。
ハルノは、何も言わない。
ただ、作る。
それだけ。
「はい」
ケバブを渡す。
シドウは、受け取る。
温かい。
少しだけ湯気が立つ。
一口。
静寂。
少年が、じっと見ている。
やがて——
シドウが、小さく息を吐いた。
「……変わってねぇな」
ハルノは、包丁を拭きながら返す。
「変える理由がねぇ」
シドウは、少しだけ笑う。
「頑固な店だ」
その声には、もう敵意だけじゃないものが混ざっていた。
少しの沈黙。
やがて——
シドウが、ぽつりと言う。
「……昔のラーメン屋も、こんな感じだった」
ハルノの手が止まる。
少年も顔を上げる。
シドウは、ケバブを見たまま続けた。
「静かで」
「変に居心地よくて」
「気づいたら、人が集まってた」
夜の店内に、低い声が落ちる。
「……潰したあと」
少し間。
「ガキが泣いてた」
沈黙。
誰も動かない。
シドウは、自嘲みたいに笑う。
「意味分かんなかったんだよ、当時は」
店なんて、替えがきく。
流れは、力で変えられる。
そう思っていた。
だが——
今なら少し分かる。
“場所”だった。
誰かにとって。
「……」
ハルノは、静かに聞いていた。
説教しない。
責めない。
ただ——聞く。
シドウは、最後の一口を食べる。
包み紙を置く。
「……悪かったな」
小さい声。
風に消えそうなくらい。
だが——
確かに言った。
少年が、少し驚いた顔をする。
ハルノは、しばらく黙っていた。
やがて——
「まだ潰れてねぇ」
それだけ言った。
シドウが、少し目を細める。
怒らない。
許すとも言わない。
ただ——
“まだ終わっていない”と言った。
それが、妙に重かった。
シドウは、ゆっくり立ち上がる。
金を置く。
そして店を出る前、少年を見る。
「……落とすなよ」
エプロンを見ながら言う。
少年は、一瞬固まる。
それから——
小さくうなずいた。
「……うん」
ベルが鳴る。
扉が閉まる。
静かな夜。
ハルノは、火を落とした。
ソレアの中に、ゆっくり暗さが降りていく。
だが——
その夜の空気は、前より少しだけ柔らかかった。




