10章 火と刃のあいだ
夕方。
商店街の色が、ゆっくりと沈んでいく。
オレンジ色の光が、ソレアのカウンターを照らしていた。
肉は、変わらず回っている。
だが——
空気が違った。
「……来るな」
——ああ。
足音。
一つじゃない。
二つ。
三つ。
やがて、止まる。
ソレアの前。
昨日の男がいた。
その後ろに、二人。
言葉はない。
だが——
十分だった。
「考えたか?」
低い声。
ハルノは、火加減を少しだけ強めた。
ジュウ、と肉が鳴く。
その音だけが、静かに響く。
「……ここは店だ」
それだけ言った。
男は、わずかに笑う。
「答えになってねぇな」
一歩、踏み込む。
その瞬間——
——来る。
ハルノの手が、動いた。
包丁が、肉に入る。
削ぐ。
だがそれは——
ただの調理ではない。
薄く削がれた肉が、ふわりと浮く。
空気を滑る。
男の視界に、入り込む。
「……っ」
一瞬の遮り。
その“わずかな隙”で——
ハルノは、一歩だけ距離を詰めた。
包丁が、止まる。
男の喉元、寸前。
「……ここは店だ」
もう一度。
同じ言葉。
だが意味は、違った。
沈黙。
空気が張り詰める。
後ろの男が動く。
横から、踏み込む。
——二人目。
ハルノは、視線を動かさない。
代わりに——
回転する肉の塊。
その軸に、わずかな力を加える。
ポース。
重い塊が、ほんの少しだけズレる。
ドン、と鈍い音。
男の体が、弾かれる。
「ぐっ……!」
よろける。
倒れはしない。
だが——止まる。
三人目は、動けなかった。
目の前の光景が、理解できない。
包丁。
肉。
店主。
そのすべてが、静かすぎた。
——支配しているな。
「ああ」
ハルノは、動かない。
ただ——
“ここ”を守っている。
火。
肉。
刃。
そのすべてを、乱さない。
「……面白ぇな」
最初の男が、低く笑った。
喉元にある刃を、気にしていないわけではない。
だが、引きもしない。
「包丁で脅す気か?」
ハルノは、首を横に振る。
「違う」
短く。
そして——
「仕事だ」
その言葉に、空気が変わる。
これは喧嘩ではない。
支配でもない。
ただ——
“ここでやるべきこと”をやっているだけ。
男は、ゆっくりと息を吐いた。
そして——
一歩、引く。
包丁が、離れる。
緊張が、ほどける。
「……今日はこれでいい」
振り返る。
後ろの二人も、何も言わずに続く。
去り際、男が言う。
「だがな」
少しだけ、顔を向ける。
「このまま済むと思うなよ」
そのまま、歩き去る。
足音が、遠ざかる。
静けさが戻る。
「……」
ハルノは、しばらく動かなかった。
やがて——
ゆっくりと包丁を下ろす。
火は、まだ生きている。
肉も、回り続けている。
何も、変わっていない。
だが——
確実に、変わった。
——始まったな。
「ああ」
これは、終わりではない。
むしろ——
始まりだ。
ハルノは、静かに肉を削ぐ。
いつも通り。
何もなかったかのように。
だがその動きは、
さっきまでよりも、ほんの少しだけ鋭かった。
ソレアの前を、風が抜ける。
その流れは——
もう、戻らない。




