第92話/独りだと思っていても、けっきょく世界と繋がっている(2)/Limited_Plutz Shutzman
黒縁眼鏡の商人と出会ってから十回目の夜。
シュツマンは焚火を見つめながら微笑んでいた。
世界には知らない見え方がたくさんある。
自分はトリシュールの位相、最高位〝ゼロ〟に片手がかかっていたんだ。
そう思うと心が躍った。
自分の生き方は間違えていなかった。
それこそ街を離れるなんて恐怖でしかなかったが、自分を見つめる事こそが人生で必要なのだ。
シュツマンはそう思った。
〝ゼロ〟がなんなのかはわからないが、商人の口ぶりから、きっと追い求めるものでもないのだろう。
トリシュールというものもどれだけ世界に浸透しているんだろう。
しかし、誰にも褒められないだろうと思っていた日々に価値はあった。
今の生活に後ろめたさがないと言えば嘘になる。
人数の問題ではない。一人でもそう言ってくれれば良い。
商人との出会いを反芻しながらそう思った。
同時に、位相である程度説明出来てしまう恐ろしさが顔を出した。
人間とはそんなにもシンプルなものだったのか。
では感情とはなんなのか。
感情を操作したら人間をコントロール出来てしまうんじゃないか。
考えが巡る。
位相が低い、高いといった考え方も少し抵抗はあった。
人間は分類されるべきじゃない。
高低でも、大小でも、所有の有無でもない。
富を追求するのも人生。
自分のように朝起きて食事をし、自然の中で佇み、沈む太陽と一緒に眠りにつくのも、同じ生きるという事だ。そう考えた。
しかし、商人が話していた事で説明がついてしまうのも事実だった。
漁をしていた時の嫌な人間が浮かんだ。
口を開けば人の悪口ばかり。
自分達の船が獲れたのならそれでいいじゃないか。当時シュツマンはそう考えていたが、常に他の船や組織の粗を探している。
お気に入りの女を見つけてアプローチし、断られた後は必ずと言っていいほど悪い噂を流す。
あれは、まさに位相が低かったのだ。
商人の分類通りだ。シュツマンはそう思うと胸が軽くなった。
まったく別々の見え方をしている人間が同じ世界にいる。
人を傷つけない価値観、嗜好なら問題ない。
しかし、人を傷つけないといられない人間がこの世にはいるのだ。
商人の台詞を借りるならば、人間の形をしているが人間ではない〝何か〟。
見かけでは判別がつかない。
商人の話を聞いた後、シュツマンは、少し世界の事が怖くなった。
忌避しすぎるのもいけないと思いなおし、その日は眠ったのだった。
*
翌日、釣りを終え、その日の晩飯を早めに確保する事が出来たシュツマン。
日が暮れるまでにはまだ少し時間があった。
植えた花を久しぶりに見に行こうと茂みを掻き分けて進んでいた。
ミトハロに少し近づく事になるが、商人と話してから胸がすっとしていた。
今なら行けるかもしれない。
人気がなく、配達の人間も通らない、花が潰されにくい場所を選んだ。
シュツマンの好きな場所となっていた。
少し疲れた時や何かを考えたい時はそこに足を運んでいた。
その場所に近づくと、人間の声がした。
呻き声と何か言葉を発している低い声が入り乱れていた。
喧嘩か?足元にある少し大きな石に躓きながら木陰に移動する。
二人の男が向かい合うように膝をつき、仰向けになっている人間を抑えつけていた。
抑えつけられてるのは女だった。
黄色い花芯を囲む白い花びらがその向こうにぼんやりと映った時。
シュツマンの意識は飛んだ。
自分の咆哮で我に返る。
頭上に掲げた両手に重み。
女の肩を抑える男の頭めがけて、後ろから石を振り下ろす。
右側にどさりと倒れる男。
女に半身が覆いかぶさった。
左腿にナイフカバーが見えた瞬間、手に持っていた石を投げ捨てる。
目の前の男が女から腰を離すより早く、シュツマンはナイフを抜いていた。
女を跨ぐように大きく左足で踏み込む。
着地と同時に男の眼球にナイフを突き立てる。
後方に倒れる男に体重をかけ、襲い掛かる。
顔面と首に何度もナイフを突き立てた。
動かなくなったのを確認し立ち上がると、石で殴打した男の首を掻っ切った。
立ちすくみ、近くの女に顔を向ける。
シュツマンを見る女の怯えた目と視線が合った。
そこでやっと、女が泣きながら悲鳴を上げ続けているのがわかった。
自分の息があがっている事も。
顔を上げ、空を見る。
日が暮れるかもしれない。
悲鳴は嗚咽になっていた。
地面を見ると衣服が散乱している。
女のものだろう。
手に取って女の近くに投げた。
慌てて拾う女。
動かなくなった男を見つめた。
おそらくバンディアだろう。魔法の靴は履いていない、グラディアだろうか。
衣服を剥ぎ取り、ポーチなどを体に巻いた。
大き目の布袋が目に入る。
肩に担ごうと腰を折った時。
白い花びらに飛び散った赤が瞳に映る。
布袋の紐を必要以上の力で握り締めた。
女を向き直る。
優しい声をかけたかったが、それがどんな声だったか思い出せなかった。
「じきに日が暮れる。この辺りは最近盗賊が多い。一緒に来るといい。安心しなさい、わたしにはもう、性欲はない。」
シュツマンは嘘をついた。
女は固まっていた。
*
ミトハロから出てきた当初使っていたねぐらに女といた。
遠過ぎず近過ぎずの距離で火を焚くシュツマン。
女はミトハロ出身だった。
翌朝、送る事にした。
ちゃんと眠れたか心配であったが、向ける視線すらも怖がらせるかもしれないと焚火に視線を張り付ける。
周囲の音だけに集中した。
頭がずっと熱い。
思考が商人との話に行き着くのに時間はかからなかった。
位相が高い、低い。それは良い。
低い人間を馬鹿にしてはいけない。
低い人間を馬鹿にする事こそが位相が低いと言える。
しかし、位相の低い人間が高い人間に迷惑をかける事。
人生を感情に支配された低位相の人間が、周囲を生きにくくさせている事に納得がいかなかった。
妹を失った姉がちらついた。
大丈夫だろうか。
復讐心に囚われていないだろうか。
件の姉だけではない。
横になっている女に顔をつい向ける。
向こう側を向いて動かない。眠れているのだろう。
この女は果たして大丈夫なのだろうか。
命を絶たないだろうか。
全く知らない女だったが、動悸がした。
男にナイフを突き立てた時、なぜ低い位相のこいつらが同じ世界に存在するんだ。
たしかにそう思っていた。
シュツマンでもそう思うのだ。
妹を失った姉然り、目の前の女然り、その憎悪はもっと深いに違いない。
はっとした。
そうして、感情に支配された人間が増えていくのか。
自分はこのままでいいのだろうか。
自分の人生はまだ終わっていない。
それどころか、今まさに始まっているのだ。
感情に呑まれない位相を持っている自分にこそ出来る事があるのではないか。
瞳に映り込む焚火の炎から隠れるように、両手で顔を覆って大きく息をする。
その晩シュツマンは、一睡もする事なく考えていた。
*
翌日、日が昇ると女をミトハロに送っていく。
女は言葉を発する事なく、虚ろな表情だった。
何か問いかけても首を振って反応するのみ。
後ろからついてくる女とは、距離がだいぶ空いていた。
何もしないから安心してほしい。そう言いたかった。
しかし昨日の男達もそうだったかもしれない。言葉には意味がない。そう考え直した。
日が暮れる頃にミトハロに到着すると、女はお辞儀をして走って街に消えていった。
後ろから通り過ぎる女の二の腕に〝Trines〟そう彫ってあるのが見えた。
近くの海辺で体の汚れを落とし、バンディアから奪った衣服に着替える。
二人のカードには合わせて約八万エンテ入っていた。
その日はミトハロの宿に泊まる事にした。
感情に呑まれない自分が感情に支配される連鎖を断ち切る。
自分にしかできない事だ。宿に向かいながらそう考えていた。
宿のカウンターにいる体格の良い男に治安が悪とされる場所を聞いてみた。
バシナリー広場。歓楽街。と爽やかな返事があった。
歓楽街は大体の位置はわかっていたが、バシナリー広場は聞いた事がなかった。
他には。そう問いかけた時、奥の部屋から出てきた若い女が口を開いた。
愛想が悪いわけじゃないが少し気怠そうな声。
明るい茶髪、光っているオレンジ色の爪。
大通りを入った裏路地。若い女にそう告げられた。
翌日、シュツマンは街を歩いてみた。
花を買いに来た時にも少し感じていたが、いざ見渡してみると別の街のようだ。
中心街にそびえ立つ大きな柱をまじまじと見つめていた。
もう自分が知っている街ではない。
そう言い聞かせるには十分な街並み。
姉の言う通り、花屋の露店はなくなっていた。
雑貨屋をどこかで営んでいるのだろう。
それぞれの裏路地を回っていると、その日のうちに漁をしていた時の知人と出会う事が出来た。
自然の中で一人で暮らしていた自分よりも、街で暮らしていた知人の方が死んだ目をしていた事にシュツマンは驚いた。
知人を中心に裏路地での人脈を増やしていった。
知人達は漁業を見捨てた町長への怒りが燻っていた。
当時から、町長は変わっているというのに。
ドミヌスネーターの壊滅。シュツマンはそう思っていたが、利用できるものはなんでもしようと、彼らの復讐心を焚き付けた。
感情に支配された人間の行動は実に扱いやすかった。
シュツマン自体、もう人と話す事が苦手になっていたが知人に任せる事で難を逃れた。
やってやると思うと、少しは自分も話せた。
西大通りを拠点として次々に人数を増やしていった。
最初に扱ったのは周辺地域の〝バンディアの情報〟であった。
魔法の靴、エーテルシューズでの配達はシュツマンが漁をしていた時期からそれなりにあったが、今ではミトハロの主力ビジネスらしい。
馬が街からいなくなっているのが寂しかった。
シューズを使った流通業は周辺地域でも盛んらしい。
エーテルシューズでの配達は単独で行う。
それを狙う盗賊の出没エリア、構成員の情報などをひたすら集めた。
自然で暮らしていた時の知識を仲間に伝え、ミトハロの周辺に配置した。
ただの世捨て人が林の中にぽつんといるだけである。
襲われる事はほとんどない。
鬱憤が溜まっていたのか、生きる目的が欲しかったのかはわからないが、裏切って金を持ち逃げする人間はほとんどいなかった。
何故か団結していた。
次に目を付けたのが〝回復薬の値上がり〟だった。
それまでに稼いだ金で大量に購入した。
周辺地域からも購入した。
相乗効果で情報も集まり、売れるものが増えた。
回復薬の件、ドミヌスが背景にいると情報を掴む。
この時は〝まだ〟はらわたが煮えくり返る自分に気づけていた。
宣伝しているわけでもないのに増えていく人数を目の当たりにし、それだけ街が腐っているのだとシュツマンは考えた。
この時、西大通の裏路地だけではなく、東大通りも飲み込んでいた。
やたら人数だけはいた。
*
しばらくの月日が流れ、みるみる内に値上がりしていく回復薬。
時間が経った頃に適当に道端で売り捌くだけで纏まった資金になった。
裏路地にいる人間に定期的に食事を配れるようになった。
飢えの苦しさはよく知っている。
仲間からの敬意、感謝の声がシュツマンに集中していた。
よく挨拶をされるようになった。
回復薬の一件で蓄積されていた周辺エリアの情報が当たった。金になった。
情報を聞きたい人間から情報をさらに聞き出した。
この時は嘘なのか本当なのかわからない情報も混ぜて伝えていた。
情報の方から勝手に集まるようになった。
この頃から集団が暴走し始めた。
裏路地を通る人間を積極的に襲うようになった。
やめるよう促したが、人数が多すぎた。
〝裏路地〟が組織から概念に変化した。そう思い、シュツマンは諦める。
この頃、仲間を仲間としても見なくなった。
〝低位相の住人〟そう括った。
当然、治安維持隊に目を付けられる。
当時シュツマンは東大通の裏路地にいたが、維持隊の掃討作戦が迫った時は肝を冷やした。
逃げる中、槍がシュツマンの腕にたしかに届いたはずだった。
傷がない。
〝あいさつ〟が発動しているのに気づいた。
魔法使いは皆、手を翳して魔法を放っているが、どうやら自動で発動していた。
自分にだけ効果があった。
東大通は壊滅。
西大通に絞る。
*
他の魔法を購入し試してみると、発動はしたが大した効果はなかった。
〝あいさつ〟をさせないためにはどうすればいいのか考えた。
これまで目立ちたくなかったので集団に名前はなかったが〝みちばた〟とした。
異質さが欲しかった。
上から物を投げつけ、逆に挨拶を〝みちばた〟からした。
なぜか自分に懐いていたミッシェルに上から〝オハヨー〟と叫ばせた。
属する人間には〝裏路地を通った人間に挨拶をさせろ〟そう伝えた。
挨拶を返した人間は襲っていいと曲解する者が現れたが丁度よかった。
挨拶をさせたかったのか、家屋の階段の前に常に一人、誰かが座っていた。
シュツマンは話し方を変えた。
それからほどなくして西大通の裏路地を回っていると、全裸の女の死体を見るようになる。
シュツマンは見て見ぬふりをした。
低位相の住人共。そう考える度に威圧感が出ていたのかはわからない、何故か仲間からの挨拶は増えていった。
〝トリシュール〟〝ゼロ〟といった言葉は頭から消えていた。
名を〝みちばた〟とした途端、各配達組織との繋がりが、より強くなる。
情報を売る裏切者も多かった。
それを見たシュツマンに心労はなかった。
〝みちばた〟という概念は、もとより暴走していた。
それまでも各配達組織の情報は集めて機を窺っていたが、格段に精度が上がる。
各チームの不安を煽る事で、見返りも増えていった。
体を差し出そうとする人間もいたが、それは断った。
それが逆によかった。〝残るもの〟が集まった。
見返りの基準はあえて決めず、漁師時代に用いられていた〝セリ〟のをやり方を思いつく。
見返りの上限、最高値は決めなかった。
訪れる人間の足元を常に見たかった。
〝みちばた〟の雰囲気、異質さが活きた。
何を差し出してきても、常に他のチームの方が上回っているのではないか。
〝みちばた〟は常に裏切ってくるのではないか。
街に揉めている相手がいる人間ほど効いていた。
その不安から、見返りの質は勝手に吊り上がった。
そうこうして西大通の裏路地を〝作っている〟と、自分達の集団が治安維持隊に復讐をしているようだと話があった。
情報の取引をしている中で、とあるバンディアからそれを聞く。
寝耳に水だった。
調べてみると、壊滅したと思っていた東大通の人間の一部が息を潜めていた。
治安維持隊のメンバーの家を突き止め、一軒一軒、襲いまくっていたのだ。
これを機に、町長襲撃の声が一気に高まった。
シュツマンも街から見捨てられたという意識は少なからず持っていた。
しかし、〝町長襲撃〟それが成し遂げられた時にこの集団はどうなってしまうのか。シュツマンはそれが怖かった。
手をこまねいていると、町長を拉致したと東大通の人間から情報が入る。
東大通の裏路地、とある建物に行くと、町長と、その家族全員がその場に拘束されていた。
町長は四十代か五十代くらいだ。
髪色はブロンズ。
右手に血の滲んだ布を巻いている。
すでに暴力を振るわれたのだろう。
その場には、娘を壊せという怨念で満ちていた。
試金石となってしまった。
この時初めて〝みちばた〟が怖くなった。
シュツマンはそこにいるほとんどの仲間に挨拶をされていた。
彼は娘を殺さず、壊した。
*
シュツマンは名を捨て、自身も〝みちばた〟になる。
見返りに差し出される体も気づけば受け取っていた。
名を捨てた快感は凄まじかった。
名を捨てた上で触れる人間の肌はそれ以上だった。
いつ寝ていつ起きたのかもわからないまま、欲があれば事に及び、なければ外を見た。
呑まれてはいけない。そう思って消した感情は欲望で塗り潰した。
報復も中にはあったが怪我は負わなかった。
刃が通らない〝名を捨てた男〟の体に困惑している内に周囲の大勢が襲いかかった。
〝怪我を負わない〟という情報は漏れなかった。
道端から出る事はないのだから。
憎まれると安心した。
体が強くなる。
報復は嬉しかった。
こちらから襲える理由になる。
そうして、あらゆる欲が新鮮なものに変化する。
〝みちばた〟以外の人間が増えた。
〝ミッシェル棟〟には悲鳴やくぐもった声が充満していた。
言葉にならない、輪郭の淡い声が一定のリズムで響いていた。
転がる腕に書かれた文字が見えた気がするが、認識できる状態ではなかった。
ミッシェルの呼ぶ声が〝オーイ〟になった。もうどうでもよかった。
人間を受け取ると、言わずともそれが見返りの上限、最高値となった。
上限が決まってしまうと食料が減った。
情報も集まらなくなっていた。
飢えを満たせぬまま、別の欲に身を委ね、その延長線上で飢餓を凌いだ。
会話ができなくなる人間が増えた。
名を捨てた男は、どうやって話していたかわからなくなった。
階段の前に座っていた人間はいなくなった。
*
飢えているのか満たされているのかわからないまま、纏まった時が過ぎたある日。
僅かに残った思考力が、ふと商人との出会いを呼び起こした。
騙された。名を捨てた男はそう思った。
知らない事をさも知っているかのように発し、あの商人は優位に立とうとしていたのだ。
どうでもいい事をどうでもよくない事と定義し、惑わせていたのだ。
重要ぶって。価値があると思わせて。
意味なく人を迷わせる。あれはそういう存在だ。
〝みちばた〟は息を吹き返した。
階段の前にいなくなっていた誰かが、なぜか扉の前に立つようになった。
つながりが希薄になっていたバンディアに配達ルートを売った。
食料が手に入り、思考を少しだけ取り戻す。
配達組織の人間が欲しがる情報から意図を推測した。
培った。いや、さらに滲み出ていた〝みちばた〟の異様さが功を奏し、虚勢で目の前の人間がたじろいだ。
人間そのものに意味はなく、知らぬ事は問題ではない。
虚言は自信がない短慮な人間がする事だ。
知っているかもしれない。それが重要だ。
もちろん本質ではないが、それは重要な事だ。
名を捨てた男は、恨んだ男から学んだ。
名を捨てれば、自分を捨てれば、なんでも出来た。
どうしたら瞬間的に人は揺らぐのかがわかってきた。
名を捨てた男は不殺を周知する。
意味なく襲って殺すことを徹底してやめさせた。
低位相の住人達は、欲にありつければ従った(と、彼が勝手に思っていただけかもしれない)。
再び情報が集まりだす。
どんな気丈な人間も成功の味を占めると堕ちた。
裏をかこうとする人間ほど脆かった。
人間はみな、そんなものだ。
遠めのうちは忌避をするくせに、差し出されればむしゃぶりつく。
貪れば、もうやめられない。
貪るのをやめた自分が、貪っていた頃の自分を見つめられなくなる。
男も女も同じ。
人間はみな、そんなものだ。
そう思うと、胸中が晴れやかになった。
*
髪の色が数本違う男がやってきた。
堕ちなかった。
必要最低限の情報だけ聞いていた。
チームに手を出したら殺す。男は笑顔でそう言った。
気に食わなかった。
できるわけがないと返したが、そんな話はしてない。殺す。男は真顔でそう言った。
たまに来たが、適当な情報を与え、あしらった。
〝ちーっす〟それが挨拶に該当するのか、気が気でなかった。
なぜか男と会うと胸がむかむかした。
そのむかつきは欲では紛らわせられなかった。
船底にびっしりと付いた大量の貝のように、名を捨てた男の体の芯に纏わりついた。
ちょうどその頃、頻繁に足を運んでいたヤマという女を堕とした。
噛みついてくる相手が、あらゆる結末で徐々に〝みちばた〟に靡いてくるのは快感だった。
相手が何を言おうが、見返りの頻度が上がっていく様を眺めていると高揚した。
肌を合わせると、今までの女とは何かが違った。
触れているものは関係なかった。
何かが心に染み渡った。
恋でも愛でもない。支配でも独占でもない。支援なんてもってのほかだ。
名を捨てた男は、どこか懐かしい、どこかで会ったような、何かに帰ってきたような。
そんな、名のわからない感情に疑問を持ったまま陶酔した。
決して考えなかった。
彼女に顔を埋めている間は、何も考えないでよかった。
何も考えなくてよかったが、あの感情の正体は知りたかった。
壊した人間を彼女の組織だけに回し、核心の情報も与えた。
みるみる内に彼女のチームはミトハロの中枢へ食い込んでいった。
ドミヌスの悪行を改めて聞いた。
暗がりに覆われていたドミヌスの打倒が顔を出した。
やはり自分は間違えていなかった。そう思った。
その達成は、すぐそこまで迫っていたような気がした。
彼女は〝みちばた〟を手放せなくなり、名を捨てた男もまた、ヤマを手放せなくなっていた。
いや、あの感情から離れるのが怖かった。
*
しばらく、名も知らぬ懐かしい感情に固執している間にトーマスが死んだ。
その内、緑髪の女が横切った。
緑髪の女は横たわる〝みちばた〟に挨拶をしていた。
しかし、名を捨てた男は猛烈に緑髪がほしくなった。
心はヤマ、体を緑髪で満たそうとした。
顔を突き合わせたが、名を捨てた男には関わる術が思いつかなかった。
その手段を〝シュツマン〟で探した時、なぜか〝いそう〟という文字が浮かんだ。
その日、ミッシェルが萎えた。
緑髪の女が〝みちばた〟を照らした。
ヤマがパンを持ってきた。
見た事のない少年が視界に入る。
〝街〟に売られた憐れな少年だと察した。
その少年を見た時、名を捨てた男の胸がむかついた。ざわついた。
何本か色の違う髪をした男と、同じ雰囲気を纏っていた。
澄んでいて、静かで、何かを確かめるような目。
目を合わせられない。視界に映しておく事しか出来なかった。
少年が叫んだ時、なぜか死ぬと思った。
その後、ヤマが見た事のない瞳を少年に向けていた。
〝その日〟を迎えるまで、毎日来るはずだったヤマは、来なくなった。
その代わり、少年が再びやってきた。
どうでもよさそうな、見た事もない女もいた。
無断で入ってくる癖に、少年は挨拶をした。
〝みちばた〟を吹き飛ばす癖に、少年は挨拶をした。
名を捨てた男は、叫ばずには居られなかった。
少年が獣に見えた。
しかしサファが居た。
恐怖よりも胸の高鳴りが勝った。
少年を見る事が出来た。
少年の目は獣ではなかった。
名を捨てた男は、洞穴で出会った商人を思い出した。
花屋の姉妹を思い出した。
盗賊がいると注意した時、礼を言ってきた配達員の笑顔を思い出した。
皮を売った時の気のいい店主を思い出した。
仲間の笑顔を思い出した。
帰りを待つ恋人を思い出した。
帰り?自分は漁をしていたんだった。
なぜ朝起きて夜眠るだけの満たされた生活を過ごしていない?
なぜ一日数尾の魚で満足しなくなった?
なぜ挨拶をしなくなった?
なぜ怯えるようになった?
なぜおいしいと思わなくなった?
なぜ快感を感じなくなった?
なぜ満たされなくなった?
なぜ感謝をしなくなった?
感謝ってなんだ?
なぜ死ぬのが怖い?
助けた娘を殺した?
しなやかな足を撫で回しくねらせるように逃げるこれ以上ない締まった腰つきを掴む包むと少しだけ零れそうな膨らみの零れ溢れた部分に口づけをし頬にへばりついた緑を掻いていたか細い小指を咥えるゆくゆくは触れてくる小さなくt――――
図らずともトリシュールの最高位相に手がかかっていた〝プルッツ・シュツマン〟。
たしかに人と成っていた。
皮肉にもトリシュールを〝知ってしまった事〟で、街に数々の負を連鎖させながら堕ちる。
最期は人に戻れた高揚感と〝みちばた〟となり身を委ねた性欲が混濁したまま、世界から脱落した。
いや、花屋の娘が死んだとわかった時。
悲しみを拒絶しながら悲しんでしまった時からもう、シュツマンは世界に参加していなかったのかもしれない。
*
「アネット襲おうとしてんじゃねーよ!ばーか!こないだ会った時にさ!なんか大変な事があったのかなって同情しちゃったよ!今までのおまえに何があったのかなんて!そんなの関係ないからな!ぶっ殺すぞ!」
仰向けに倒れている首のない〝おそらく老婆〟に怒鳴り散らす少年。
息は荒く、唇は歪み、顔が熱い。
振り下ろした左手は床を突き抜けていた。
黒目は赤になり、人間のそれではなかった。
左手を床から抜いて上半身を起こす。
視線を老婆から天井に移し、口角だけ上げて叫ぶ。目は笑っていなかった。
「おい!聞いてんだろ!ははは!かかってこい!全員まとめてぶっ殺してやる!裏路地全滅してやるよ!こないだのパン返せ!ははははは!」
言葉が止まらない。
制御できずに生き生きとした声が次々に出る。
言い足りない。胸のどろつきが収まらない。全員殺してやる。
天井に追撃の罵声を突き上げようとした時だった。
太腿に衝撃が走る。
「いてっ。」
視線を向けると顔を歪ませたエヴィと目が合った。
赤い目は徐々に黒くなっていった。
ナギの目を心配そうに見つめながら、自分の方に引き寄せる彼女のつま先を見て、蹴りを食らったのだろうとわかった。
エヴィはぼやけた赤が滲む目に、今にも溢れそうなくらい涙を溜めていた。
軽い吐き気がした。下半身に鈍い痛み。
つま先が床につくなり彼女が声を荒げる。
「落ち着けよ!おまえがそっち側に行ってどうすんだ!戻ってこい!あたしの言ってる事!わかるか!?」
ナギの顔から血の気が引いていく。
鈍い痛みが大きくなる。足に力が入らない。内股になり、腰から折れる。
エヴィの蹴りが股間を掠めていた。
右手で下腹部を抑えるナギ。
「あ、ちょ、ちょっと、待って、わかった、わか、ったから、ありがとうって。も、戻りま、した。」
もう一発蹴りを放ちそうなエヴィから数歩遠ざかりながら言った。
思わぬ痛みに笑みが滲む。
額に脂汗が吹き出て、息が浅くなる。
エヴィは肩で大きく息をすると、首を失った老婆をちらりと見る。
天井に向けた掌を、ナギの顔の前に差し出してきた。
ナギは股間の痛みに腰を曲げながら、できる限りの力を籠めて引っ叩くと、そのまま自分の掌を天井に向ける。
乾いた衝撃が掌に返ってきた。
何回か軽くジャンプした時だった。
建物が震え出したかと思うと、上の階のいくつもの扉が勢いよく開く音がする。
何人いるのかも分からないほどの足音が天井の上を移動している。
「おかえり。」
エヴィはマナフィルムを口に放り込み、天井を見上げたまま言った。
天井から、ぱらぱらと埃が落ちた。
とんでもない数の足音は階段方面に向かっていた。




