第91話/独りだと思っていても、けっきょく世界と繋がっている(1)/Limited_Plutz Shutzman
〝おそらく老婆〟の名は、プルッツ・シュツマン。
男だった。
見かけ程、年は取っていなかった。
若い頃はとても気が良い人間で、困った人がいれば手を差し伸べる。そんな男であった。
しかしそれは彼だけでなく当時のミトハロ全体がそうだった。
彼は特段疑問に思う事なく、当然のようにそう生活していた。
漁業で生計が立たなくなり路頭に迷っていた頃。
彼は街が変わってしまっていた事を知る。
同じような人間が周囲にいるにも関わらず、町長は何もしなかった。これからどうするんだ。
皆が口を揃えてそう言った。
シュツマンもそう考えた時期はあった。
恋人とも別れてしまい、シュツマンは喪失感に満ちていた。
しかし囚われなかった。
このまま過ごしてもしょうがない。
そう思って愚痴を零す仲間から距離を取った。
街から離れた海沿いで一人で魚を釣って暮らしていた。
ベッドもブランケットもない。
食べ物も自分で獲るしかない。
しかし意外となんとかなるものだ。シュツマンは前向きだった。
世間から自分が忘れ去られたと思うには十分過ぎる月日が流れた頃の、とある日。
とてつもない空腹の中で獲れた一匹の魚が人生を変える。
涙が出るだけで言葉は浮かばない、それほどに旨かった。
世界から生存を許可されているようだった。
網にかかった魚達を作業的に回収していた日々。
心なく、形式的に海に頭を下げていた自分。
海の幸を単なるモノのように扱っていた自分の過去を呪う。
〝海の幸〟その言葉の本当の意味を理解できた気がした。
男は罪悪感から死を決意する。
何も食べなかった。
だが土壇場で生への執着が出た。
口にした木の実で中毒を起こし、シュツマンは生死の境を彷徨う事になる。
岩陰にもたれて閉じていく意識の中、やっと死ねると安堵感に包まれていた。
身体は辛かったが、心は穏やかであった。
しかし、目を覚ます。
木筒に入った水とひとかけらのパンが近くに置いてあった。
無心で飛びついた。
貪るように口に詰め込んだ。
食べ終える頃、涙を流している事に気づいた。
世界が今までとは違って見えた。
もたれかかる岩の安心感の傍ら、踊っているような鳥の声。
柔らかい土。
落ちている小石すら珍しく、愛おしい。
風が快感だったのは初めての経験だった。
全てに意味があり、全てに意味がないと思えた。
だからこそ〝今〟は美しいのだ。
なぜだかそれが腑に落ちた。
世界は変わっていない、変わったのは自分。いや、変わってもいない。
ただ自分が気づいていなかった、男にはそう腑に落ちた。
木々のざわめきすら歌に思えたが、ただそこにあるだけなのだ。そう思うと可笑しかった。
彼は覚醒した。
しばらくすると、岩陰から心配そうに覗く一人の娘がいた。
栗色の髪の娘。
頭を下げ、礼を言う。
何かできないか尋ねた。
娘は体を仰け反らせ、男に向けた両方の掌を忙しなく振った。
男はその様子を見て微笑んだ。
聞くと、ミトハロの花屋の娘のようだった。
今度買いに行くよ。男はそう告げた。
その後少しの間、娘が様子を見に来たが、全快したと伝えると来なくなった。
治安が悪いから来ない方がいいと男から話していたので、それについてはなんとも思わなかった。
世界に対して深い感謝だけがあった。
しばらくして、バンディアのキャンプと遭遇する。
近くを通っていた、少年か青年か判然としない男にそれを教えると、感謝されて少しばかりの金をもらえた。
生きるのに金が不要だったシュツマン。
いつもなら断るのだが、花屋の娘がちらつき受け取る事にした。
その金を片手に、何十年振りかわからない街に繰り出した。
決して清潔だとは言えない身なりだったので、店を構えていたらどうしようと不安ながらに街を歩き回った。
露店で番をしている娘を見つけた時は安堵か高揚か区別のつかない感情で胸がいっぱいになる。
娘も気づいてくれた。
猫が書いてあるエプロンがよく似合っていた。
男に向けられる生き生きとした表情。
とても眩しかった。
自分のような人間が店先に居てはまずいと、本当に他愛のない話を一言二言交わした後、名も知らぬ花を購入した。
白い花びらの、中心が黄色い花。
ねぐらに戻り、困惑を浮かべながら胸中を考えていた。
娘に抱いた感情はなんだったのだろうか。
恋でも、愛でもない。
しかし応援や庇護欲といった類のものではない。
当然、支配や独占などといった極端な感情もなかった。
花を見つめながらしばらく男は考え込んだ。
風が頬を撫でた時。
なるほど、これが人と関わるという事か。そう腑に落ちた。
幸福感が男を駆け巡る。
同時に、手にしている花に少しだけ申し訳ない気持ちが湧いた。
林を歩き回り、陽がよく当たる場所に植えたのだった。
植えながら、男はただ娘の幸せを祈っていた。
それからというもの、男は花屋に通い詰める事はしなかった。
今までと変わらずに生きた。
命を口にする時は深い感謝をした。
つい感謝を忘れた時は、それもよしと、その場で軽い感謝をした。
動物の死骸を見つけたなら土に埋めた。
必要ならば焼いて食べた。
他の生き物の狩りを見かけても、便乗せず、すっと道を譲る。
決定的に違ったのは、独りのはずだったにも関わらず、満たされていた。
人と関わるという事を感情で定義できた男の毎日は、充実していた。
バンディアの情報を配達で通り過ぎる人間に教えると稀に金が手に入った。
気が向いたら街に足を運んだ。
様子を窺うでも娘の顔色を見に行くでもなく。
ただ、花を買いに行った。
事件が起きる。
花を買いに街を訪れたある日の事。
街までの道中、たまたま大型動物の死骸を見つけ皮を剥いでいた。
道具屋に持ち込むと金の受け渡しが翌日となるようだった。
花を買う金はあったので店に行くと、露店の番をしている女が別の女だった。
顔は似ているが違う。青い髪のロングヘア。
その日は付近に寝泊まりした。
翌日露店に足を運ぶが、前日と同じ女。
娘が居ないならそれはそれで仕方ない。
花を買おうと、いつもの花を目で追っている時だった。
「いつも有難うございます。妹は、死にました。」
顎を拳で突き上げられたように顔を上げた。
目の前にいる女は娘の姉。
年は近いようだ。
男を見据えた目は、悲しみに満ちていた。
男達に暴行を受け、その後戻ってはきたが、自らで命を絶ってしまった。
目の前の女はそう告げた。
他にも何か言っていたが、耳に入っては来なかった。
弔意を述べ、有り金を全部を使っていつもの花を購入し、店を去った。
俯いて街を歩きながら考える。
以前、自身も死にかけた。
自然と暮らす中で、他の生き物の〝それ〟を毎日目の当たりにもする。
男の生活は〝死〟が身近にあった。
暴行など、許される事ではない。
しかし、あの娘はしっかりと自分の人生を生きたのだ。
危険も顧みずに、こんな薄汚い老いた男を助け、きっと誰にでも人として接する事ができる娘だろう。
だから必要以上に嘆くまい、でも自分は絶対にあの娘の事を忘れずにいよう。
店がなくなっても、同じ花を買おう。
そう思い、街を後にした。
陽のよく当たる場所に全ての花を植えた。
植え終わると涙が溢れてきた。
男は娘を想い、悲しんだ。
とにかく泣いたのだ。
勝手な事だとは思いつつも、娘の人生への未練が浮かび、涙を流した。
それから少しの間、男は毎日声を出して泣いていた。
必要以上に嘆くまい、そう思っていたが、涙が止まらなかった。
*
涙が枯れてからしばらく経った頃。
男が暮らしている付近にバンディアのキャンプが増えた気がした。
配達の人間を見かけては声をかける。
エスディアか配達員かの見極めは人数とスピードで容易だった。
配達は大人数で行わない。
御礼として差し出された金は、持っていてもバンディアに奪われるだけだろうと当面は断っていた。
一人の配達員が、逆に向こうから声をかけてきた。
「おじさん!?」
何事かと警戒したが弾けるような女の声。
女は魔法の靴を履いていた。
魔法を巧みに使い、素早い動きを減速をすると目の前に着地する。
「私!私!花屋の!元気?食べてる?」
嬉しそうに言う女。青い髪。
ロングヘアからショートカットになっていてすぐに気づかなかった。
娘の姉だ。
初めて見る眩しい笑顔に男は視線が泳ぐ。
「私、これからミトハロ戻るだけなの。ちょっと話そうよ。」
涙を流す頻度は減っていたが、すんなりと娘を想起できるほど、悲しみは消えてもいない。
ノリ気ではなかった。
あれから花を買いに行けてない事に少し後ろめたさもあった。
携帯食も分けてくれるそうだったので、空腹だった男は了承した。
*
「相手の男達、ドミヌスネーターってチームらしいんだよね。」
川辺にある大きな石にそれぞれ座る。
携帯食の干し肉を千切ってよこしながら娘の姉はぽつりと言った。
娘の話だろうと、受け取りながら言葉を返す。
「聞いたことはある。配達の、だったかな?」
「そうそう。知ったからどうだって事もないんだけれどね。治安維持隊の動きも悪いし。こういうのって泣き寝入りしかないよね。」
寂しそうな声とは裏腹に目の前で魚が跳ねた。
いつもなら竿や網を片手に奮闘の準備をするが、とてもそんな気になれなかった。
男は何と言えばいいのかわからず、かといって、早々に渡された干し肉に噛り付くのも忍びない。
しばらく水面を見つめたまま固まっていた。
「そう考えたら…なんていうか、あいつの存在自体が街からなくなっちゃった気がして…。おじさんに会えて嬉しかったのよ。人違いじゃなくてよかった。この辺にいたんだね。」
「転々としているよ。真似しないようにな。」
精一杯の返答であった。
女はふふっと笑って、寂し気な声を出した。
「花屋を辞めちゃったんだ。ウチ。雑貨屋になって。あの子がいなくなってから父さんも変わってしまったの。なんか別人みたいにお金お金ってなっちゃって。」
「そうか。しかし家の手伝いなんて偉いじゃないか。配達だろう。その…その靴は。」
男は女が履いている魔法の靴をちらりと見て言った。
エッテルシューズ。エノールシューズ。
靴の名前は出てこなかった。
干し肉に視線を戻して噛り付く。
「私、ドミヌス入ったの。色々考えたんだけどやっぱり、どうしても、許せなくて。」
眉を上げ、素早く女を向く。
女は震えた声で続けた。
「たしかに、あの子と私は髪色とか違うけど、チームに入っても、全然気づかれないの。頼りにさ、されちゃったりなんかして。チームはチームで、あの子の事以外にも色々してる癖に…!最初から、そんな事してませんって顔してセグイドからミトハロを守るんだって言ってる。おじさん…、私、悔しい。」
途切れ途切れの声にはやがて涙が混じった。
「復讐は、やめなさい。」
静かに言い放った。
理由を問おうと口を開いた女より先に男が口を開く。
「悲しみは、悲しみとして受けるべきだ。行動を起こすなと言ってるんじゃない。悲しみの転嫁先として行動するのはよくないと言っている。たくさん悲しんで何が悪い。いいじゃないか、自分だけが悲しくても。恥ずかしい事もない。寂しい事でもない。わたしからすれば、人は孤独を誤魔化し続けるからおかしくなる。いいんだよ。一人で泣いても。立派な事じゃないか。感情は現実を受け止める行為だ。悲しみ切った後に、進むべき道が見えるものだ。」
気づけば言葉が出ていた。
彼女には彼女の考え、体験がある。
復讐に身を委ねたいのであればそうあるべきだ。
彼女の人生だ。それはわかっていた。
しかし止まらなかった。
「もとよりそんな復讐なんて行動、思いもよらない形で命を落とすに決まっている。感情は気取られる。伝わるものだ。」
狩りの体験からの言葉だった。
殺意を見せれば敏感に去っていく。
しかし、何気なく佇んでいる時には―――目の前で魚が跳ねた。
こういう事なのだ。
「…ありがとうございます。」
女の絞り出した声。
ふと見ると女は泣き声ひとつ上げず、涙で顔をぐしゃぐしゃにしていた。
シュツマンは干し肉に噛り付きながら、揺れる花を見つめていた。
*
プルッツ・シュツマンは相変わらず、一日、一日を感じながらしっかりと胸を張って生きていた。
バンディアに追いかけられる事もあったが、逃げ切った後は必ず笑いが込み上げてきた。
彼はゆったりと生きていた。
しかしながら、辺りが暗くなると、娘の姉へ向けた言葉を悔いた。なぜあんな事を言ってしまったんだろう。そう考える事が多かった。
プルッツ・シュツマンが雨宿りをしていのは、姉と会ってから三十日程が経ったある日だった。
今まで寝泊まりしていた場所から移動していた。
ミトハロから遠ざかるように、北へ進んだ洞穴。
洞穴の奥は土壁となっており、そこから大木の根が異様に顔を覗かせていた。
姉に放った言葉がちらついた。
干渉などするものではないのだ。
ただそこにいて、ただ生きればいい。
そう決めたはずだった。
入口近くで焚いていた火を眺めながら考えていた。
「ダンナ。ご一緒しても?」
雨の匂いに慣れる頃。
雨音に交じり、男の声がした。
外を見るとずぶ濡れの男が立っている。
外套はない。細身な体格に似合わない大荷物を背負っている。
荷物の肩紐を握る左手の甲には、〝〇〟のタトゥーが大きく入っていた。
魔法の靴を履いている。
三十代だろうか。
二十代にも見える。
黒縁の眼鏡にシュツマンの目が奪われる。
眼鏡なんて珍しいな。そう思った。
髪色は黒。
耳は出ているが特段短いわけでもない。
眉の少し上まで伸びた前髪は、やや揃い気味だった。
シュツマンは焚火に視線を戻す。
淡々とした声で言う。
「ええ、どうぞ。何もないですが。」
「へへ、じゃあお言葉に甘えて。いやー降られました。まいったまいった。雨男なんですわ、ワタクシ。」
言いながら、男はずかずかと洞穴の奥に進む。
くしゃみをしながら衣服と魔法の靴を脱いでいた。
細身な体に筋肉らしい筋肉は浮いていない。
よく大荷物を持てるものだとシュツマンは感心した。
それにしても警戒心がない。
最近はこんなものなのだろうか。
「近く、どうぞ。」
焚火を勧めた。
眉を上げ、ありがとございやんす!と奇妙な礼。
男は焚火に手を翳していた。
聞くと、商人らしい。
クラックランからウィキアークへの帰りなんだとか。
下着一枚。丸腰で焚火に手を翳す男。
警戒する必要がなかったからか、商人の男は話しやすかった。
こんなに楽しく人と話す事ができたのは何年振りだろう。シュツマンはそう感じていた。
気づけば、これまでの身の上話が口から飛び出していた。
漁業が立ち行かなくなったところから人生が狂い始め、二度死にかけた事。
それ以降、何もないが人生が充実している。
とある妹を失った姉にかけた言葉について、最近考える事が多いことを順を追って話していた。
商人の男は、途中から目を丸くして聞いていた。
シュツマンが話し終わると、表情を変えずに商人は口を開く。
「ダンナ、人に成ったんですね。トリシュールをどこかで?」
「トリシュール?なんだそれは?」
人に成る?人は元々、人だ。
反論したかったが、トリシュールから聞いた。
「ご存じない、、、いやはや、ご自身の人生だけでよくぞそこまで。ご立派ですねえ。」
「だから、なんなんだ。そのトリシュールというのは。人に成るっていうのも、おかしいだろう。元々人間は生まれてきてから人じゃないか。」
シュツマンの声に少し苛立ちが混じった。
商人は少し考えるように視線を宙に向け、やがてゆっくりと話し始めた。
「ダンナ、位相はご存じで?」
一度瞬きをする間に、数回首を横に振った。
「おっけーです。つまりですね、ダンナ。この世界はひとつなんですけどね、人の数ほど、世界が存在するわけです。」
何を言っているんだ。シュツマンは目を細め、目尻を緩ませる。
察するように男は説明する。
「例えばですよ、ダンナ。〝漁業が立ち行かなくなった〟この事実でダンナはどうお考えになりました?」
「そりゃショックだったさ。だいぶ昔の事だからあまり覚えちゃいないが、仲間と金を出し合って酒を飲みながら愚痴った事もある。しかし、ずっと愚痴っているわけにもいかんだろう。自分の人生だ。わたしは路頭に迷ってしまったが、結果的によかったと思っている。何もなくとも、今が充実しているからな。いや、最初から何もいらなかったんだ。気づかなかっただけで。」
焚火を見てしみじみと話した。
「ダンナ、それもう〝ゼロ〟に片足突っ込んでますぜ。素晴らしい。やっぱ死にかけた事がよかったんですかねえ。」
にやりと笑って商人は言った。
ゼロ?そう言葉が出るのを遮るかのような商人の咳払い。
「失礼、話がだいぶ飛んじまいました。他の人間は違うはずです。今でも愚痴ってる人間がいるはずですわ。〝漁業が立ち行かなくなったって事実が自分の人生と同化〟しちまってね。自分の人生と向き合わずに、うだうだやってる輩もいるんじゃないですかね。あの頃はよかったなあって具合に。そう思うなら〝今も〟良くすればいいだけなんすけどね。」
あっ。と声を出すシュツマン。
「漁業が立ち行かなくなったって事実が、人によって見え方が違うって事か。」
商人が頷いた。
「まあそんなとこです。厳密には行動ですかね。大体人間の行動は予測がつくんですよ。ダンナみたいに迷いながら〝自分の人生を進む〟場合は予測がつきやせん。まさに人生。ダンナはダンナだ。奇々怪々、あっ、良い意味でね。オリジナルな日々、ダンナだけの人生となるわけです。現にダンナの話、とても面白かった。」
あとんす。そう言いながら大げさに頭だけを下げる商人。
相変わらず変な礼だとシュツマンは鼻で笑った。
乾いてきたのか、商人の前髪はふんわりしていた。
脛を摩りながら続ける。
「しかしですよ、ずっと愚痴ってる人間のパターンは限られてる。その一、同じような人達で集まって一生愚痴る。死ぬまでです。感情の固定ってやつだ。その二、現実を否定しだします。新しいビジネスを馬鹿にするとか、なんつったらいいでしょうね。新しい環境を〝くだらない〟〝本物じゃない〟とかって言い張ったり。」
薪をくべる手がぱたりと止まる。
どきりとした。
〝魔法の靴〟をばかにした声はいくつもあったのだ。
「その三、他人への攻撃が始まる。上手くいっている人間の足を引っ張る。成功者の粗探し。成功者だけじゃなく、変化した人間に対してもね。その四、同類との共依存。共依存って固いっすね。同じ境遇の人間同士で傷を舐め合ったり、周囲にも〝どうせ無駄〟みたいに諦めさせたりね。」
返す言葉がなかった。
シュツマンはしなかったが、現に魔法の靴で事故があろうものなら、それ見たことかと声を上げている仲間は存在したのだ。
チャレンジしたり、街を出る人間を揶揄する集団はたくさん見てきた。
現に自分も言われているだろうと、自然の中で暮らした当初は考えていたものだ。
あまりにも言葉がなかったので、何か話さねば。そう焦った。
「で、でも!仕方ないじゃないか、セグイド絡みだとか噂もあったしだな…。」
「ダンナ。」
商人の声が低くなる。
鋭い目つきで見られていた。
「背景や経緯の是非の話はしておりません。出来事があった時の人間の行動の話をしとるんですわ。〝もう、今の〟ダンナにはわかるはずですぜ。」
「ああ、そうだったな。」
額を掌で擦りながらシュツマンは言った。
思った事を切り返した。
「たしかに、あんたの言う通りだ。なんでこうも言い当てる事ができるんだ。まるで人間が、人間じゃないみたいじゃないか。」
「自分を正当化してるからですよ。」
「正当化?」
「ええ。漁業がうまくいかなくなったって事実と自分がごっちゃになっちゃって、〝自分は悪くない〟って感情に呑み込まれちまってるんです。それを誰に指摘されたわけじゃないのにね。」
開いた口が塞がらない、シュツマンは無理やり言葉を出す事をやめた。
「感情に呑まれた人間がとる行動に意志はないですぜ。まあ、よく獣だとかって言いますけどね、ワタクシはそうは思わない。最低限、理性は働いてたりしますからね。ただ人の形をした〝何か〟ですわ。だから厄介。自分の意志だって叫びながら感情に呑まれてますからね。現に今のダンナはこれが自分の意志だ!なんて叫ばない。この感情はなんなんだ?じゃないっすかね。」
口を閉じ、唾を飲み込む。
寒気がした。
薪をくべる。
商人の目つきは優しいものに変わっていた。
「ダンナは、世界で起きた出来事に行動した、自分の人生を作り出した。でもそうじゃない人間は、過去の自分の正当化に人生を使い始めちゃってるんですわ。魔法使いの間では、自分を世界に投影するとかって言いますがね。自分探しを自分がいない世界に探し出す…。だっけな…。へへ、忘れちまいました。」
シュツマンは大きく息をした。
「何をばかみたいな事を。人は感情の生き物だろう。感情を出して何が悪い。正当化に人生を使い始めるのも人生だ。」
「ダンナ。感情を抱く事と、感情に従う事は別ですぜ。感情はダンナじゃないでしょう。ダンナに起きているものだ。感情は反射でしょう。抑えても出てくるものが感情だ。ダンナは今、少しだけ苛立っている。でもダンナは苛立ちじゃあない。」
段々とこの商人が言ってる事がわかってきた。
少し息が浅くなった。
「感情を出せるってのが自由なんじゃないんです。感情があっても、感情があった上で、自分で行動を選ぶ事が自由ですぜ。その行動を選べる事ってのがつまりーーーー」
男は言葉を溜めた。
焚火から視線を移すと、微笑んでいる商人と目が合った。
「意志か。いや、選択か。」
シュツマンがそう言うと、「まあそんなとこです。」商人はにんまり笑ってそう言った。
以前、姉に言った事と繋がった。
シュツマンは復讐心そのものが悪いと思っていた、しかしそうではなかった。
感情に呑まれるかどうか、それが論点だったのだ。
「そういう感情に支配された状態を、位相が低い…心の状態が低い。自分の人生と、かけ離れてるとかって言いましてね、心の状態が悪いっつーんですか。それが上から下まで、人としての、心の階級別に振り分けられてる。それが教えと共に書いてあるのがトリシュール。〝ゼロ〟ってのはその位相の最高峰。最高位っつったらいいですかね。」
商人は言い終えると、あったかくなってきた~。焚火を見ながらそう呟いた。
シュツマンに考える間を与えているように思えた。
商人は続ける。
「ダンナ、人間は複雑です。でも複雑なのは、出来事から抱く感情の組み合わせまで。今ワタクシが話している事を聞いて、怒り狂う人間もいれば、ワタクシのように平然としてる人間もいる。ダンナのように深く考え込む人間もいます。出来事があった時の反応。それは人によって違う。それは尊重されるべきものですわ。いわゆる人それぞれ。人が抱いた感情は誰にも否定できない。」
シュツマンは大きく頷いた。
「しかしですね、意外と感情に支配されてる人間が取る行動は、シンプルなんです。トリシュールは、行動から心の状態を判別するような、体系立てた地図みたいなもんです。」
「さっきおまえさん、〝人に成る〟とか言ってたな。感情に支配されている内は人じゃない。そういうわけか。」
「まあそうです。もちろん、身体的な話じゃない。心の話です。でも、心も人間を作る上で切っては切れないものですわ。見方によっては心そのものが人間であるとも言える。それを伝える手段が言葉、仕草なんすから。」
口角を少し上げて商人は返した。
一言、言い添える。
「……でも、感情は心じゃない。そこはもう、わかりますよね。ダンナ。」
へっへっへと無邪気に笑う商人。
自分よりも一回り下、もしかしたら二回りくらい。
年の離れた商人に、シュツマンは好奇心が抑えられなかった。
「わたしがこういう考えになったキッカケは…。死にかけた時からだ。世界が違って見えた。これが人に成る。〝ゴール〟か。とても、いい人生だった。」
ぽつりと言った。
首を傾げる商人。
「何言ってるんです?スタートですぜ。死を受け入れなくても人には成れますが、死は人に成りやすいのもたしかです。死を受け入れてからが人間のスタートだ。ようやく自分で人生を選べるようになっただけですぜ。ダンナ。」
「これで…やっとスタートだと…?今からなのか…。」
落胆を浮かべるシュツマンの肩に手を伸ばし、ゆさゆさと体を揺さ振った。
商人は励ますような口調で言う。
「ちょっとちょっと!落ち込むのは違いますぜ。喜ぶべきだ。一生かかっても自分に気づかずに死んでいく人が多いんすから。死ぬ間際にやっと気づいて、ダンナみたいに良い人生だったなんて言うのを肯定する人がいますけどね、ワタクシにとっちゃ負け惜しみだ。その状態で選択した事に価値があるんすわ。ダンナはまだ動ける。こうしてワタクシと会話もできる。なら選択が出来る。」
はっと顔を上げるシュツマン。
「ダンナは自分の事を、どうせ老いてるからどうだとか、考えてるんでしょうけどね。人間が人に成るのに年齢は関係ないですぜ。生まれた時から疑問に感じずに人生を作り出せる人間もいれば、百歳になっても気づかない人間もいる。いや気づけないと言うべきでしょうか。気づきたくないと言うべきか。ここがトリシュールの面白いとこですわ。まあそんな感じです。年齢は身体の目安でしかない。人間ってすぐ年齢で自分を守りますよね。年齢を理由にして気づきを放棄する。ま、気づくのって怖いっすもんね~。気づけなかった自分を、気づいた自分が否定することになりますから。人間の一番こわいのは死じゃなくて自己っつー存在の否定!って同じか~!」
あっはっはと笑う商人。
洞穴に響く笑い声が幾重にも重なり、何人もの商人に囲まれているようだった。
「ゼロってなんなんだ。」
シュツマンは聞いた。
「いや!失礼!ダンナ!ワタクシが悪かった!途中から薄々気づいてましたが、その質問で確信しました!ダンナはゼロじゃない!ゼロは教わるものじゃないんですわ!ご自身でお調べになってみては?もうちょいわかりやすいのが騎士向けのゲシュタリーゼ、魔法使いのやつはなんだったかな…サルットリージュ?へへ、忘れました。物覚え、悪いもんで。」
ちょっと待っててくださいよ~。そう言うと、パンツ一丁の情けない姿の商人は洞穴の奥へ向かった。
大荷物のポケットを探ると小さな球体をひとつ差し出してきた。
「ゼロじゃないって事は、ゼロを知らないって事だ。人間、知ってりゃ堕ちにくい。知らなきゃ堕ちてる事にも気づけない。人の位相なんて天気みたいなもんですぜ!万が一ダンナが獣になっちまった時、それは多分色々話しちまったワタクシのせい。責任感、感じますねえ。だからこれはワタクシが楽になりたいから差し上げるものです。遠慮はいらねえ。受け取って下せえ。」
小さな球体は透明の中に赤、いや黒だろうか。見る角度によっては、オレンジ色に変化しているようにも見える。
形容しがたい色だった。
池の中で魚が藻掻いたときに巻き上がる土のように、色が揺蕩っていた。
不思議そうに見る老人の顔を、商人は不思議そうに見つめて言う。
「あら?魔法キャンディご存じない?」
「ああ、なんだ。キャンディか。以前道具屋で見たもんと、色が全く違ったもんで。」
なるほど。と商人。
「この魔法は〝あいさつ〟。レアでっせ。どこにも売ってない。ダンナが人から獣に堕ちた時に、同じような獣に負けなくなる魔法です。別の見方をすれば、ダンナが獣だと、そういう風に周りが認識すればするほど。ダンナは人として接されなくなる。そうなると面白いもんで、周りも獣になるんですわ。もしもダンナが獣になっちまった時、せめて獣の中では最強に近づけるようにってね。もしかしたらワタクシ、ダンナの人生をぶっ壊しちまったかもしんないっすからね。」
魔法は使えないシュツマン。
遮ろうかと考えたが、しかし面白い話だった。
人と関わる事は素晴らしい。
そう思い、最後まで話を聞こうとしたがつい言葉が出た。
「わたしが獣に?」
ありえない。そう言った感じで鼻で笑った。
商人は気にせずに続ける。
「ある領域で挨拶をしない人間からの攻撃は、一定時間ダンナに効かなくなる魔法です。領域の広さは自分で確かめてくださいな。それもまた魔法の面白さってね。一定時間…ダンナの魔力次第だが、けっこう長いですぜ。切れてもまた発動しやすからね。魔法の存在を知られなきゃ不気味さの演出にもなるって寸法ですわ。人として扱われなくなったダンナにぴったりだ。位相が低けりゃ、まず陥るのは序列。人間のフリした獣は獣に敬意を払わない。同じ大地に暮らしてるのにね。」
淡々と言った。
表情に感情はない。
「ま!」
その一言で、顔が笑みで満ちる。
「獣に堕ちたダンナに挨拶する人間なんてのは相当に位相が高い。そんときゃ死んで下さい。ダンナ。堕ちた自分に嘆きながら、位相が高い人間は存在したんだって後悔しながらね。それもまた人生!ささ!どうぞどうぞ!」
嬉々として商人は言った。
「申し訳ないが、わたしは魔法が使えないんだ。」
シュツマンは優しい顔で諦めた声を出す。
はっはっは!と今までで一番の笑い声をあげる商人。
あまりにも体を揺らすものだから、キャンディを落としそうになって笑い声が焦る声に変わった。
唇を尖らせ、「おっとっと。」言いながらキャンディを掴みなおす。
「今が一生続くわけじゃないでしょう。使えない…〝だとしても〟どうぞ。ダンナ。」
商人は微笑んで静かに言った。
「じゃあ、頂くよ。」
キャンディを受け取って口に放り込んだ。
「まいど。あ、まいどってのは癖ですわ。タダです。」
はにかんで笑う商人。
「ダンナ、あんたはゼロじゃない。しかし世界に心が開いていた。だからこんな怪しいワタクシなんかから差し出されたキャンディを受け取った。騙される未来を受け入れて今を楽しんだ。人の人生が変わるってのはいつだってそういう時だ。ダンナにとって良い方に変わる事、祈ってますぜ。」
空は晴れていた。
商人が立ち上がる。
「じゃ!行きます!良い人生を!なーんて言う必要もないほど位相が高いダンナ!またどっかで!」
言いながらいそいそと衣服を着る商人。
つめてっ。と声を漏らしていた。
「もう少しいていいすか?」
商人は、頬を紅潮させ、衣服を焚火に翳しながらそう聞いた。




