第86話/ブローチの世界/Limited_NAGI
少年は名も知らぬ男の頭が転がっていくのを薄目で見ていた。
冷ややかな表情で腕を顔に近づけ、返り血を防ぐ。
リサに目をやると、ラグナロクを抜いて両手で構えていた。
唇を固く結び、ナギに向けた目には涙が浮かんでいる。
ナギは一度地面に視線を移すと、すぐにリサに戻してそのまま歩み寄る。
やがてラグナロクの剣先を大きく揺らしながら、迷いが滲んだ声が飛んできた。
「来ないで!」
何食わぬ顔で近寄った。
ラグナロクが鼻先に迫る。
とっくにリサの間合いだ。
「僕を殺す気ならさっさと殺せばいいじゃん。」
薄っすら笑みを浮かべて言った。
「殺そうとなんてしてない!」
鼻で笑った。
グローブを装着していない右拳を、顔の前まで上げる。
「あんなに勢いよく切り掛かっといてそれはないよリサ!腕、飛んじゃったの見たでしょ!?」
左手の人差し指で二の腕をつつきながら言った。
指が腕に触れた直後、穴が開くかとはっとしたが、赤く血が滲んでいるだけだった。
「殺そうとなんてしてない!」
化け物モードに入っちゃった。そう思って肩を落とす。
リサの後ろに隠れるように身を潜めるサファに、覗き込むように体を傾けた。
「サファ!おまえも自分で来いよ!おまえいつも誰かと一緒にいるじゃん!誰かを引き連れてる時しか攻撃してこないよな!」
何気ない表情に笑みが漏らしながら言った。
サファの目は怒りに満ちて、唇は歪んでいた。
おまえもうずっとその顔じゃん。そう呟いたが二人から反応はない。
リサの荒い呼吸に合わせるように、ラグナロクの剣先が大きく上下しているのが見えた。
キューの事を聞き出さなければいけないと思っていたので、ここまで怒りを抑えていたが、もうその必要はない。
そう考えると胸が晴れやかだった。
溜めに溜め込んできた体の中に渦巻く濁流のような〝それ〟。
行き場を失っていたように腹の底で燃えるような何かを二人に向けていく。
呼吸が自然と荒くなる中、何も映していない目でリサを見ながら、半開きの口が徐々に笑いを宿していった。
「弱いからだめなんだって。宿で僕に言ったよね。」
ぼんやり映っているラグナロクの震えが激しくなる。
ふわっと焦点を合わせるが、すぐにリサに戻す。
サファが二歩下がっていた。
「なんか言えよ。」
笑いを宿していたナギの顔が言葉と共に静かになる。
サファはさらに後ずさりしていた。逃げる気だろう。
不意に視線を足元に落として返事を待つが、リサの息遣いだけが聞こえる。
掌を自分に向けながら、胸の位置に両手をゆっくり上げた。
「殺せ!」怒りと怯えが混ざった顔のサファがそう叫ぶのと、どちらが早いか。
「〝はやく〟」そう囁いた。
途端に周囲から音が消えた。
リサの瞬きが遅い。
サファが開けている大きな口がゆっくりと歪んでいく。
驚いた表情で視界を左右に振る。
自分の動きは変わっていない。
明らかに揺れが遅くなっている草木を見て、つい後ずさる。
サファが足をゆっくり地面から上げていた。
状況を察し、自分だけが動く中で、にやりと笑う。
左の脹脛で踏ん張り、リサの太腿の裏辺りに低い蹴りを思いっきり放つと、ラグナロクの間合いから離れる。
音が戻り、目の前の二人が滑らかに動き出す。
サファは後ずさりし、リサの表情は苦悶に満ち、がくんと膝から落ちかけた。
眉間に寄った皺はやがて散っていき、見開いた目つきに変わったリサと視線が合った。
まるでブローチの世界。そう思いながら目尻を緩ませ、リサから目を切った。
彼女を視界に置いておく必要がなかった。
顔を上げて目を細め、数歩ゆっくり歩きながら無邪気に声を出して笑う。
自分から攻撃が出来るって楽しいな。そう思った。
屈託のない笑みを顔に残し「〝しばらく〟!〝はやく〟!」笑い交じりにそう声に出した。
再び、音のない世界。
(速すぎて〝ぼくいがいおそくなれ〟だなこりゃ。)
抑えられない笑みを滲ませたままリサに近寄る。
先程と同じように、左の太腿の裏を二回蹴る。
刃の短いカランビットナイフを抜いて太腿に刺そうとした時、一瞬ナギの手が止まる。
口を大きく開けたサファが目に入ってきた。
勢いよくリサの右の腿に刺し、ぐりぐりと左右に回して抜いた。
ナイフについた血をリサのシャツで拭きながら後ろに回り込む。
サファの頭を魔法で掴もうとするが魔法は出なかった。
作法の知らない少年に苛立つ、謁見の間にいたアルセナの衛兵のような表情で、軽く舌打ちをつく。
ナイフをカバーにしまいながら、手首がなくなったサファの左腕に視線をやると、肩の部分をノードに侵食された左手で掴む。
肩から先は落下せずに、ぬるっと赤い糸を引いて、握り締めた拳についてきた。
物珍しげに目で追っていたが、思い出したようにサファに視線を戻す。
ミライには変わっていなかった。
左手をぷらぷら揺すると、ゆっくりと地面に落ちるようにサファの腕は離れていった。
黒髪の男の死体がぼんやりと遠くに映った時、世界が少年に微笑みかけるように、すっと動き出した。
サファはミライになり、男女のくぐもった声が重なる。
何が何だかわからないといった様子で、二人は忙しなく顔を動かしている。
痛みが勝ったのか、目の前の現実に屈服するように二人揃って膝を地面につけた。
ナギは冷たい目つきで、何も考えずにそれを見下ろしていた。
黒い渦が胸の中を回転する。
肩に顔を向け、悲鳴を上げているミライの頭を魔法で掴むと、リサには一瞥もくれずにN棟の横を通り、広場に向かって歩き出す。
ふわふわと動く魔法の帯。
〝つかむ〟の赤黒い帯に触れずとも、それを自由に動かせている事にナギは気づいていなかった。
N棟とW棟の間で、思い出したようにミライを自分の顔の前に引き寄せると、耳元で囁いた。
「ドミヌスの人達ってさ…。」
ミライとサファは同一人物なのだろうかと頭に過ぎる。
片側の唇だけ引きつらせ、舌打ちをして訂正した。
「っ…グローブ・Kの人達が可哀そうだよ。ミライ君みたいに弱い人。戦う事すらしない弱い人がリーダーで。でも、可哀そうじゃないかも。おまえを守ってくれる人、誰もいないしね。病気で化け物のリサだけっつはっ。」
我慢できずに噴き出した。
ミライから顔を離す。
道場で最後に見た時のような虚ろな表情だった。
それを尻目に顔を上げてひとしきり大笑いすると、薄っすらと笑みを残して再びミライの耳元に顔を近づける。
「今日おまえが戦ってるところ見てないんだけど、なんのために、おまえ生きてんの?」
左の拳を握り締めながら、ミライから顔を離す。
ミライの唇がぴくついた気がした。
思いっきり振りかぶると顔面を左拳で殴りつける。
人間を殴ったとは思えない硬さが拳に伝わった。
ノードがある方の手だからか、痛みはなかった。
声を出さずにW棟とN棟の間から広場に吹き飛んだ。
地面をバウンドし、転がっていく先に視線を向けた時には、勢いに任せて地面に顔を擦り付けているサファがいた。
自分の背中に〝はなれて〟を撃って距離を詰める。
うつ伏せから足だけで起き上がろうと、膝をくねくねとさせていた。
むせている様子もない。左の拳が直撃した顔面に怪我はなさそうだった。
(多分…ミライの時は攻撃が効かないんだ。)
初めて見る昆虫を発見した時のような、警戒と好奇心が混じる目つきでサファを見下ろす。
「起こしてあげる!」
元気よく声を出し、魔法で頭を掴む。
四つん這いの姿勢から起き上がろうとするサファの体がびくんと跳ねる。
帯に触れてもいないのに意志の通りに目の前に手繰り寄せられるサファ。
一瞬細くなったナギの目は、即座に丸くなり、口がぽかんと開く。サファが手元に来る頃には、満面の笑みとなった。
まるで、見つけた昆虫の第一発見者が自分だったと後から称賛されるような表情だった。
ふわふわ思い通りに動く帯を見る顔は紅潮し、つい「うわぁ」と歓喜の言葉が出ていた。
ブローチが頭に過る。
強いって便利だなあ。そう思った。
頭を魔法で掴まれ、膝をついて怯える表情のサファに一歩近づく。
何か喚いていたが気にせず耳の傍に顔を近づけた。
「掴まれたら、すぐ攻撃しなくっちゃ。」
冷たく優しい声でそう言うと顔を離す。
ぴたりと喚き声が止まったサファを視界に捉えたまま、ノードで侵食された左手でサファの右耳を握り締める。
耳は抵抗なく溶け、ミライの悲鳴だけが残った。
ミライの声が聞こえた瞬間に脇腹を蹴り、即座にサファの悲鳴に変えた。
〝つかむ〟の効果が切れる。
帯に支えられていたサファがぐにゃりと地面に突っ伏した。
再び魔法で立たせながら元気よく叫ぶ。
「ねえ!二万エンテ返してよ!」
コロンから返してもらったカランビットナイフを胸のカバーから抜きながら、笑みを浮かべてそう言った。
「い、今はねえよ!うるせえな!てめえ!ぶっ殺すからな!」
サファは涙を流しながら言っていた。
眼光は鋭い気がした。
「別にいらないよ!」
肩を上下させ、大きく口を開けて笑う。
両肩が無くなり、泣きながら言う「ぶっ殺す」という台詞はアンバランスで可笑しかった。
サファが必死に叫ぶ。
「おまえ治せんだろ!治したら殺さねえでいてやるよ!はやく治せ!」
ナギの顔から笑みが消える。
少し考えるように黙り込むと、広場に視線を漂わせた。
S棟付近に人間を襲っている〝デカムカデ〟が映る。
軽く身震いしながらムカデを〝もうれつにはなれて〟で吹き飛ばす。
雑木林に突っ込むムカデ。
いくつかの音が混ざった轟音。
手前の何本かの木が折れ、他の木々にもたれ掛かるように倒れていく様子だけが映った。
ムカデが街の方に行ってしまったかもしれない。飛ばしてから気づき、口元に手を近づける。
襲われている人間が驚いた顔でナギの方を向くが、サファに視線を戻した。
「別にいいよ!治しても!謝ったらね!」
顔を戻している途中に優しい顔になる。
元気いっぱいの声。
サファがはっとする。
「悪かった!悪かったよ!金もちゃんと返す!だから早くしろ!」
残念そうな顔で視線を落とし、首を左右に振った。
「そうじゃなくてさ!悪かったとかじゃなくて!私が悪かった〝から〟ごめんなさい。でしょ?いつもミライが謝ってるみたいに!〝サファで〟やってみて!」
作業的に声量を上げているような、興味なさげな声。
自分の右手から伸びた〝消えない魔法の帯〟が角度を変えていたのが見える。
W棟の方にリサが移動しているのだろう。
動きが筒抜けだ。
唇を結び、鋭い目つきのままサファは顔を震わせていた。
その表情を観察するように見据える。
膝を地面につけ、思い出したように口を開く。
「サファ!僕の方こそ謝らないといけない!宿の人、サファじゃなかった!ごめんね!」
明るい声で顔を下げる。
地面に手をつき、ミライのように土下座した。
地面は溶けなかった。
呻き声がしたので頭を上げるとサファが突っ伏している。
サファでも土下座できるじゃん。と咄嗟に考えたが、魔法の効果が切れただけだった。そう思い直し、噴き出した。
しかし、腕がないからその体制なのか、はたして土下座なのか。目の前のそれの区別がつかなかった。
「サファ!そのままごめんなさいって言え〝れ〟ば回復してあげるよ!」
ナギは膝をついて低い姿勢のまま、呻くサファを元気よく応援した。
すぐ左にブーツが見える。
見上げるとラグナロクを振り上げている化け物がいた。
「〝はやく〟」肩を落とし、嘆息ながらにそう言った。
立ち上がるとラグナロクに絡みついているリサの指を右手でほぐす。
虫が止まりそうなほど、遅い動きだ。
振り下ろそうとしている剣を奪い取り、左手に持ち替えて適当に投げた。
手から離れると空中で剣が固定された。
左手で触ったのに溶けなかった事に気づく。
確かめたかったが、そろそろ魔法の効果が切れる。
せっかくなので太腿に蹴りを入れておこうと、焦って足を振る。
当たる寸前で世界が動き出した。
腿にブーツのつま先が当たる瞬間、リサの表情が険しくなる。
険しさを表情に残したまま、手が軽くなった事に困惑している様子のリサ。
嘲笑うかのように、ラグナロクが縦に回転しながら放物線を描き、後ろに飛んでいった。
表情がころころ変わる、よろめく化け物にナギは告げる。
「次向かって来たら腕!落とすからね!おまえさ!居てほしい時にいないで!来てほしくない時に来すぎ!話してほしい時に話さない癖に!意味わかんない事叫びすぎだから!もう化け物じゃん!頭おかしいんじゃないの!?」
リサが態勢を立て直しながら睨みつけてくる。
息は荒く、涙が零れ落ちていた。
人間と会話している気がしない。
何が気に食わないのか。どうなったら満足なのか。なぜサファを守るのか。なぜ広場から離れないのか。
全く理解できなかった。
聞いてみたかったが、狂気を宿した瞳を見る度に会話をする気が失せた。
マヤよりも、リサの恋人だと言い張る黒髪の男よりも、目の前のリサの瞳は狂気に包まれていた。
何回見ても、ウォッチの言う通りだ。目が〝イッていた〟。
瞳孔が開いているようで、怒りこそ滲んではいれど、これといった感情がない。
噛みついて来そうな目つきだけが向けられている。
しかし涙が流れている。
もう何がなんだかわからない。
とてもじゃないが、人間とは思えなかった。
〝弱いのがいけないんじゃないの?〟宿で言われた言葉がちらついた。
強さに自信、拘り、執着があるような発言だったな。そう思った。
ミトハロに着いてから強さについて考えていた中で〝他人よりも出来る事が増える〟それはひとつの強さだ。そう考えていたナギ。
リサは片手で魔法が撃てる。ブローチ戦の時の彼女はミトハロの誰よりも速かった。リサは強いのだろう。
しかし、強さに拘る癖に。執着する癖に。
〝自分は弱い人間とは違う〟と言い聞かせるように、弱い人間に悪態をつく癖に。
弱い人間も当たり前に使う〝言葉〟〝会話〟を放棄している。
そんな目の前の狂った化け物が、どこか滑稽に映ったのだった。
(会話が出来なくなるなら僕は弱いままでいいや!)
肩で息をする狂った瞳のリサを見つめながら、つい噴き出してしまった時。
咆哮を上げながらリサが殴りかかってきた。
ナギの少し笑った表情に、呆れが混じる。
それを見た狂った目のリサの顔が、一瞬寂し気なものに変じた気がした。
「〝はやく〟」ナギはそう囁いた。
リサの動きが遅くなる。
サファが立ち上がろうと、膝を曲げ、両肩のない体で藻掻いている所で止まっていた。
S棟からナギに向かって何人かが襲い掛かってきている。
世界が動き出した時に対応しようと目を切った。
制御不能になったような目つきで飛び掛かってくるリサの左肩を、容赦なく左手で何回か掴んだ。
たしかにリサの顔は、少し寂しげだった。
周囲を見すぎたか、世界が動き出した。
リサの漏れた苦鳴がたちまち悲鳴と変わるのを背中で感じつつ、S棟から飛び掛かってくる人間に〝みんなはなれて〟を撃ち込んだ。
何気なく目に入ったサファを蹴っておいた。
呻いた後にミライになったので、もう一発殴ってサファに戻す。
肩を抑えて膝をつくリサは涙を流していた。
「だから!向かってきたら腕落とすよ!って言ってるのに向かってくるの頭悪すぎでしょ!僕がやらないと思ってるの?なんのためにおまえ戦ってんの?僕がむかつくの?どうしたら満足するの?」
何気ない表情でリサに近寄り、耳元で声を出した。
聞こえてくるのは嗚咽だけだった。
つい人間だと思って話しかけてしまった事を後悔しながら、地面に落ちたリサの左腕を蹴飛ばすと、魔法で発火させた。
虫の死骸を見るような目つきで、しばらく燃える腕を見下ろしていた。
振り向くと、藻掻いているサファの頭を魔法で掴む。
帯でふわふわと手元に引き寄せると何発か殴りつけた。
足を少しばたつかせるくらいで、サファはぐったりとしていた。
そういえば抵抗する腕がないんだったと思い直し、殴りつけた。
ミライとサファを忙しく往復させる。
死なぬようにサファの時は右手で殴った。
(強いと、別に解散させる必要ないから楽だ。ひたすらボコボコにしちゃえばいいもんね。)
帯を操って血みどろのサファを高く上げる。
足が地面から離れていく。
目を細めながら両手を地面に翳すと「〝すな〟」を声に出す。
翳した部分の土が砂になった。
色が淡くなり、蹴ると砂埃が舞う。
ぱっと顔を明るくさせ、帯を操作し、サファの足を砂に近づける。
ずぶずぶと体を埋めていった。
途中で何かに引っかかって埋まらなかったので、頭部に〝はなれて〟を撃つ。
打ち込まれる杭のようにサファは砂に埋まっていった。
木槌みたいに〝はなれて〟を使っている事につい笑いが抑えきれなかった。
背中からリサのすすり泣く声が聞こえてきたが、振り向かなかった。
笑顔が残る表情で周囲を見ると、目に見える人間の集団同士での争いは減り、〝人間対魔物〟が増えている気がした。
何故、魔物は自分には向かって来ないんだろう。
オオカミの魔物に食われている人間を見て、摘まんだ下唇を伸ばしながら考える。
魔物と会話できるわけでもない。
考える事をやめ、肩まで埋まったサファとミライの顔面を、とりあえず蹴りまくる。
「おい狂犬リサ!おまえ強いんだろ!強いんなら守ってみろ!」
嬉々としてそう叫びながら、ナギはころころ容姿が変わる人間を蹴り続けていた。
リサはただ泣いていた。
朝の光が広場に巡ってきた頃だった。




