第78話/世界はゴミだけど、諦めなければちょっとだけ傾く時がある/Limited_NAGI
今まで遠くから聞こえていた人間の叫び声や炸裂音が近い。下から聞こえてくる。
空は白んでいる。
少しひんやりした空気。
遠くには黒い、大きな鳥が飛んでいた。
ドンドラが扉を破ったのは、魔法だろうか。
名前はなんだろう。〝けやぶれ〟とか〝やぶる〟。その辺だろうか。
鼓動は落ち着き、これから始まる戦いとは関係のない考えが浮かぶ。
ここはこんなに広かったのか。
下から眺めていた時とは全く印象が異なった。
バルコニーの至る所に、ちらちらと視線を移動させる。
右から青い髪の女、その前にウォッチ。
青髪の女は、ウォッチよりも背が高い。
その左。自分の正面にはリサ。なんでこいつはいてほしくない時にいるんだ!舌打ちが出そうだった。
困惑を滲ませたような顔つき。たまに目が合った。
さらにその左に視線を向ける。
前髪を上げた黒髪の男の前にはタリフ。
挑発しているのか、手と足で何かジェスチャーしているのが映る。
いつも通りの彼に戻っている。
へらへら笑っているのだろうと、横顔までは見なかった。
一番奥できょろきょろと周りを見回すサファがぼんやり映る。
その前にはどっしりとしたドンドラ。
リサはブーツ。それ以外の三人はエーテルシューズを履いていた。
全員魔法使い確定だ。そう思った。
踵を浮かせ、脹脛に力を入れる。
魔法を避けるにはとにかく動く。アネットの言葉が過る。
敵の表情は見える距離。
しかし、今の距離では飛び込めない。
魔法ならこのくらいの間合いはあまり関係ないのだろうが、誰も魔法を使う気配がない。
唱えた瞬間、他の魔法を使えないからだろうか。探り合いというやつかもしれない。
サファは武器を持っていない。
それ以外の敵三人は、抜いた剣を両手で握っている。その構えを見てから、ナギの頭には関係のない事が浮かぶようになった。
宿やルント、ダガヤ・クルーの手伝いをしていた時に聞いていた〝武闘派のドミヌス〟というイメージには、まったくそぐわない光景だった。
目の前にいる敵達の表情には、たしかに敵意が滲んでいるが、目はどこか集中していない。
自信が無さげとでも言えばいいのだろうか。崩れ落ちる瞬間のマヤの目つきに少し似ていた。
剣は両手で固く握り締められ、ナギからでさえわかるくらいに力が入っているようだった。
エーテルシューズを履いているので魔法は使えるのだろうが、これから柔軟に魔法を放つ構えとはとても思えない。
(片手で魔法を撃てないなら!魔法に自信がないって自分から言ってるようなものだ!)
目の前にいるリサの佇まいも、ブローチ戦の時にぼんやりと視界に入ってきたそれとはまったく違う。
うまく言葉にできなかったが、一言で言うなれば〝頼りない〟。そんな感じだった。
そもそも、あんなに早く動けるなら突っ込んで来ればいいものを。
構えも顔つきも別人だった。
初めて戦った〝ジェル状のモンスター〟の時の彼女の横顔よりも、硬いように思えたのだった。
しかし、リサは魔法を片手で撃てるかもしれない。なるべく目を切らないでいた。
魔法が増えてなければ〝つよくなれ〟と〝こおれ〟〝いやすね〟だろう。
攻撃は〝こおれ〟だけ。
しかし増えてないなんて事はない。何かあるはずだ。そう思った。
横の間隔はそれぞれが人間五、六人分くらい。
囁き声を聞き取るには、少し遠い。
ウォッチとは少し近い。
青髪の女がリサから数歩離れる。
顔を向けるとぼんやりノードが映る。
目の焦点をノードに映す。
青髪の女がぼんやりとなった。
エーテルノードはバルコニーの縁に不気味に置いてある。いや、立っている。
白色に朱色が走っている四角い物体。
縦に長い。
間近で見ると広場から見た時よりも、高さがある。
ノードの中央には赤い塊。
塊からは血管のような、細かく赤い線。色んな方向に曲がりながら、張り巡っているようだった。
中央にいくにつれてその線は太いように見えた。
ある程度の距離から、木の柵がノードまで置かれている。
放射状に広がっているが、ノードに向かうまでの間隔はまばら。ひとつひとつはくっついて、〝一応〟すり抜けられないようになっている。
それぞれ違う高さがどうしても目に入る。
柵の高さがそれぞれ違う造り。雑。
ひとつの柵の幅は大人が腕を広げた時よりも少し長い。
腰よりちょっと高い柵もあれば、顔くらいの高さの柵。様々だ。
数が置かれているだけで脅威ではなさそうに思えた。
バルコニーの縁にも柵が建てられている。
〝とりあえず設置してます〟そんな感じだった。
落ちないように作ったってより、そこが縁です。って教えるためにあるみたいな柵だな。ナギはそう思った。
ナギは掌を開き、腰のやや上あたりで地面に伏せて構えていた。
左右の人差し指と親指の先端が触れそうなくらいに近づける。
この構えが正しいのかはわからない。
サファを見ると、左右の掌をそれぞれタリフとドンドラに翳していた。
片手で魔法を撃てるのだろうか。
サファが目に入ると、腹から黒いものが湧き出てくる。
目を切った。
ノードに向かって飛び出したい。
しかし、リサからの視線が外れない。
青い髪の女からも、ちらちらと視線を感じる。
(せめてリサだけだったらな。誰か〝ミトハロ節〟言わないかな。〝フリッター君〟って優秀だったなあ。ここに九人も後ろから来たらまずかった。)
またしても思考が逸れた時。
リサの顔が歪んだのが見えた。
脹脛にさらに力を入れる。
自信無さげで別人のようなリサに視線を固定し、いつ飛び出そうか迷っていた時だった。
左から声が弾ける。
「シェア!リサ!」
リサがタリフの方を向く。
視線が切れた。そう思った瞬間、ナギは床を力いっぱい蹴る。
〝はなれて〟が一瞬頭を過ぎるが、リサに全速力で突っ込んだ。
「―リ!今-ら俺らの仲-ね!〝しゅうーー〟!」
タリフの声が絶え絶えに聞こえたと思うと、けたたましい音が鳴り響く。
ミカに捕まって、目が覚めた時に鳴っていた音だった。
澄んだ音だが甲高い、細く鋭い音。
細い木笛で出す高音域。
耳がとれそうなくらいの音。
うるさすぎて逆に静かに感じてしまいそうな音。
甲高い音に顔を歪ませるが、決して止まらない。
足を前に前に、ひたすら出していく。
青い髪の女が片方の手で耳を押さえているのが視界の端に見えた。
片手で撃てないなら青い髪からの魔法はない。
女のよく通る声で背中から呼ばれた気がした。
リサのみを目に映す。
耳は塞いでいない。
何も聞こえてないかのようだ。
爆音の中のミカとアエスを思い出した。
何が起きているのかわからないと言った表情で、青い髪の女を見ていたが、ナギと目を戻して構えなおす。
リサがラグナロクから左手を離す。
その手を胸に当てながら口が動いた。
走りながら即座にリサの左手めがけて〝つかむ〟を声に出す。
発動がいつもよりも早く感じた。
そのまま魔法の帯を引っ張ると、リサの掌がナギに翳される。
床を蹴る力が強くなった気がした。
〝つよくなれ〟が自分にかかったのだと推測した。
リサは片手で魔法が撃てる。帯に引っ張られる力で前にバランスを崩すリサを見ながらそう思った。
「リサ!手が震えてるぞ!」
腹から声を出して煽った。
実際に震えているかどうかはわからない。
タリフの爆音の魔法で、どの程度の大声を出しているのかわかりにくい。
頭の内側で自分の声が鈍く響くだけだ。
リサの顔つきが険しくなったのが見え、聞こえたのだと決めつけた。
あと数歩でラグナロクの間合いに入る距離で、右足を斜め前に一歩踏み出す。
右側にあるノードに近づきながら、両手をリサに翳す。
〝もえろ〟〝はなれて〟が脳裏を過ぎる。
声を出そうとする唇に力が入った。
「〝はぜろ〟!」
気づけばそう叫んでいた。
険しい顔つきが、慌てたような表情に変わり、黒髪の男の方向に飛びのくリサ。
「うそだよばーか!」
笑みを作ろうとするが、唇が歪む。
目つきにだけ笑みを滲ませながらリサにそう叫んだ。
体を切り返し、一気にノードに向かう。
右前で少し離れている青い髪の女と目が合った時、タリフの魔法の音が小さくなってきた。
(こいつ突破すりゃノードだ!)
柵が近くに迫る。
走りながら青い髪の女に〝はなれて〟を撃つ。
青い髪の女の足が床から離れ、後方に吹っ飛んだ。
周りにある柵をいくつか巻き込んで、ノードから少し離れた横で尻もちをついている。
まだナギの邪魔が出来る位置だが、目の前を遮るものは柵だけになった。
ひとつめの柵に手がかかりそうになる距離まで近づく。
意外にもしっかりしている。
朽ちているように見えるが、ところどころに真新しい補修の後がぼんやり映る。
柵は床に固定されていて、魔法では動かせそうにない。
雑に並べられているので横を通れるかと思ったが、柵の脚同士が結ばれ、隙間を作っている暇はない。
柵というよりも手すりだなこりゃ。そう思いながら、走ってきた勢いのまま足を柵の下に滑り込ませる。
視界に白んだ空が広がった。
上半身をくねらせて起こし、次の柵へ数歩近寄る。
手を伸ばそうとした時、右から怒号と叫び声が聞こえた。
ウォッチが青い髪の女に駆け寄っている。
二つ目の柵をしゃがんでくぐろうとした時〝つかむ〟の帯が柵に出来た。
ウォッチの走る先、青い髪の女の方向に伸びている。
女が突っ込んでくるかと、二つ目の柵をさっさとくぐるが、その様子はない。
掴む位置を失敗したのかも。そう思い、視線はやらずにノードだけ見据える。
三つ目の柵は離れた位置から見ていてずっと気になっていた。
ノードを守る気があるとは到底言えない、低いものだった。
噴き出しながら跨ぐように飛び越える。
踏み切った時、その先に落とし穴があるのかと肝を冷やしたが、何事もなく着地した。
四つ目の柵は適度な高さ。
まるで〝ここからジャンプできます〟そう言われているようだった。
設計した人に会えたら、仲良しになれるかもしれない。何故かそう思った。
笑みを残しながら足の裏を木材にかけ、力いっぱい跳んだ。
真正面についにノードが迫る。
左はバルコニーの縁。
自分に〝はなれて〟を撃ち加速した。
落下を意識しすぎたからか、進行方向がノードのやや右にズレた。
青い髪の女に蹴りを入れているウォッチが視界の端に消えた。
空中にいる間に脛に何度か衝撃。
たちまち減速し、縦になっている柵に右腕が衝突したかと思うと、脇腹を擦った。
横に設置された胸の高さの柵に激突して体が止まる。
脛への痛みが強すぎて他の痛みを感じない。
脛の痛みを我慢しながら振り向き、足をかばいながらよろよろ走る。
回復魔法は使いたくなかった。
視界に映る、左右の位置が入れ替わる。
近い右前にノード。
左前に青髪の女を蹴りまくっているウォッチ。
ノードの向こう側ではタリフが黒髪の男の顔面に足を振り落としていた。
さらにその奥はサファが縁から飛び、ドンドラから離れている。
バルコニーから離脱しているのがぼんやりと見えた。
サファに見られている気がした。
リサが駆けてくるのが視界に映る。
ブローチ戦の彼女と比べると、あまりにも遅かった。
本当に遅い。別人だ。
しかし猶予はなさそうだった。
ノードの近くに着地し、ナイフを突き立てようとナギは考えていたが、さすがに悠長かもしれない。そう思った。
ラグナロクで柵を斬り落としたり、蹴り潰したりして近づいてきている。
飛び越えればいいのに。そう思いながら柵に足をかけた。
左足で踏み切って、ノードに向かって魔法で加速する。
視線が高い。
バルコニーの向こう側の風景が目に入る。
とんでもない高さに腰の辺りがむずむずした。
ノードに手を翳すが発声が間に合わない。
目を閉じそうになるが、近づくリサが気になる。
衝突覚悟で発声した。
「やわく―――」
言い終わる前に鼻先に迫るノード。
このままノードにぶつかって何回かぶん殴ろう。そう覚悟した時だった。
感触がない。
翳した手がノードに埋まっていく。
視界に薄く白い靄がかかり、赤い塊が顔の横まで近づいている。
魔法が減速する。
バルコニーの縁の向こう側が見える。
落ちる。慌てて何かを掴もうと、ノードの中心にある赤い塊に左手を伸ばす。
熟しすぎたフルーツのように、ぶよぶよしていた。
塊は抵抗なくするりと動く。
血管のような、細く赤い糸が、左手で握り締める塊を追うかのようについてきた。
クラゲの触手のようだった。
視界の白い靄が晴れた瞬間、胸のあたりに衝撃。
縁の柵にぶつかったのだとわかった。
勢いで視線が下がる。
真下の広場の風景が目に飛び込み、あまりの高さに頭がくらくらした。
とんでもない高さだ。
向かいのS棟の建物の壁面にドでかいムカデが這っているのが見えた。
(デカムカデ!)
めきめきと足元から嫌な音がした。
ぐらつく視界に焦りながら足元を見る頃には、体を支えている柵の感触が胸から消えていた。
柵というには心もとない〝手すり〟が折れている。
いや、そうではない。
左手で握った箇所がねばつくように、糸を引いていた。
溶けている。
その箇所から崩れ、体重を支えられなくなっていた。
右手で手すりを掴むが、手すりも一緒に動く。
意味がない。
元々手すりに体重をかけていたのもあり、崩れた箇所から縁の向こうに、はみ出すように広場にむかって倒れている。
手を振って体を逸らしバランスを取る。
リサが向かって来ているのを思い出した。
(一旦落ちたほうが安全かも。)
下を見たくない。
体を反転させる。
目をがばっと開いているリサと目が合った。
右前に迫っており、あと数歩で剣の間合いだった。
落ちかけている事よりも、そっちの方がひやりとした。
膝を少し曲げ、バルコニーの縁を蹴る。
すでに体が傾いていたので蹴る力はあまり入らなかった。
全身がくすぐったい。感じた事のない浮遊感。
右手を伸ばし、腹から声を出した。
表情を消し、リサを煽る。
「助けてお姉ちゃん!」
(揺らげ!)
何故かエヴィがちらつき、リサに伸ばした掌をひっくり返して中指だけを立てそうになる。
バルコニーの縁でリサは視界から消えていった。
外套の裾がバサバサと音を立てて口元にまとわりつく。
適当なタイミングで、魔法で壁に張り付こうと、落下に身を任せていた時。
〝つかむ〟が切れたサファが落下しながらナギに手を翳しているのが右側に見えた。
何かされると思い、壁を魔法で掴む。
手と壁に出来上がった魔法の帯が赤黒い。
癖ですぐに引っ張ると、視界が一瞬で壁になる。
顔面を強打した。
鼻につんとした痛みが広がる。
息がしにくい。
浮き上がった外套の裾が口元を撫でながら、腰のあたりに戻っていった。
広場の喧騒が耳に飛び込んできた。
いつのまにかタリフの爆音魔法は聞こえなくなっている。
下を見ると、まだ高い。
へばりついている壁は三階の辺りだろうか。
左右に首を振って確かめるが、どうしても魔法の帯が気になる。
赤黒い、異様な色。
(なんだこの色!)
「―りょくーんてー!」
サファの叫び声が右から聞こえる。
顔を向けようとした瞬間、尻に不快な浮遊感。
外套の裾が暴れ出す。
壁に張り付いていた魔法の帯が切れている。
壁に向かって〝つかむ〟を発声するが、落下が止まらない。
魔法が発動しない。
焦りながら上を見て叫ぶ。
「ほんとに助けてお姉ちゃん!」
体が動かしにくい。
すぐ後ろから布の破ける音。
肩、足が突っ張る感覚。
首を動かしにくい。
壁に手を伸ばすと何かの出っ張りを手で掴めた。
(窓塞いでる板!レイルばんざい!)
落下が止まりほっとするが、掌で掴んでいた板の感触がなくなる。
左手の木材はとろりと糸を引いている。
右手で握った木材は粉砕し、掌に破片が残る。
浮遊感。再び外套の裾が暴れ出す。
ケタ違いの力。普段と全く違う握力。
視界を遮ってくる外套に苛立った声を上げながら、再び適当な木材の出っ張りを手で掴む。
掴んだ木材がとろりと溶け、空を掻いた左手に舌打ちをした時だった。
頭に衝撃。
驚いて右手も強く握り締めてしまった。
掴んだ部分の木材が粉砕し、浮遊感が体を覆う。
顔を上げると目の前には外套とは違う布。影。ズボン。ブーツ。
「私を掴め!」
女のよく通る声。
無我夢中で抱き着くと、落下が止まる。
顔を見上げるとウォッチと目が合った。
「痛っ!いった!何その体!おっも!」
焦った声でそう聞こえると同時に、ウォッチが壁に伸ばしていた〝つかむ〟が千切れる。
不自然なタイミングで落ち始めた。
ウォッチの腰の辺りに腕を回す。
再び〝つかむ〟の声が上から聞こえた。
浮遊感が遠のいた。壁面に張り付いているようだ。
頭上から苦悶の声。ずるりとナギだけ落ち始めた。
左の掌がぬめっている。
手を回していたウォッチの腰の一部をこそぎ落したのだとわかった。
壁面に張り付いたウォッチが遠ざかる。
何度か木材を手で掴み、落下と停止を繰り返す。
左手は使えない。右手の力加減に意識を集中させる。
下を向き、次に掴む場所を確認しながら落ちる。
落下スピードを減速させていった。
最後は目の前の壁を蹴り飛ばして後転しながら着地の衝撃を逃がす。
上半身だけ起こして左手を見ると〝無数の青い糸のような触手〟がグローブの隙間からふよふよと顔を出していた。
グローブは赤く染まっていた。
(なんでグローブは消えないんだ?)
疑問が浮かぶが、ぬめる赤い液体に思考が途切れる。
間違いなくウォッチのものだ。
顔を上げると、地上に着地するウォッチが目に入る。
立ち上がって駆け寄った。
「腰大丈夫!?」
ウォッチは苦悶に表情を崩し、自分の腰の辺りをしきりに見ていた。
シャツが破けている部分に手を翳し、回復魔法を声に出す。
血がズボンまで垂れ、腰の辺りに赤が広がっていた。
手がぼんやり光ったのを見て息をつくと、ウォッチが顔を上げる。
ナギの左手と足に視線を往復させながら言う。
「おまえ!何その体!大丈夫なの!?えっ!そ、その手!きもいんだけど!」
足から順番に視線を這わせ、ナギの左手で目が止まった。
途切れ途切れの焦った声。
ナギは外套をまくり腕を出し、自分の左手に視線を落とす。
ブレスレットがキツい。太くなった手首で割れそうだ。
手首から体に伸びる腕が、かなり太くなっている。
焦って右腕も見るが明らかに太い。
右腕を見るために左手で摘まんでいた部分の外套が溶けた。
わけも分からず焦って左手を離した。
右腕を上げて外套から出し、再び視線を注ぐ。
あまりにもめんどくさかったので左手で溶かしながら外套の袖をまくる。
太いというよりも、筋肉そのものだ。血管が浮き出て、張りがある。
はやく世界を体験させろと喋り出しそうなほどの隆起。
人間の体の最高の状態。ナギはなんとなくそんな感じがした。
ウォッチの回復魔法の声が再び聞こえた。
左手に視線を戻す。
フィンガーレスグローブの下から〝血管のような青い糸〟が変わらず溢れ出している。
ノードの中で咄嗟に握った時はたしかに赤色だったが、青くなっていた。
指先とブレスレットに伸び、蠢いている。
うねうねと蠢くそれは、ブレスレットをつついては離れるような動きを繰り返していた。
おそるおそる、慎重につついているように見える。
離れる動きも、驚いたようにその瞬間だけ俊敏だった。
意志を持っているかのような無数の糸。
タンポポの綿毛の一本一本を彷彿とさせる細さ。
しかし綿毛よりも長い。指二本くらいの長さ。
クラゲの触手のように揺蕩っている。
掌の部分のグローブは少しだけ盛り上がっていた。
指を曲げて触れるとぶよぶよする。
グローブは溶けなかった。
(これノードの中に入ってたやつだよな…。)
見上げるがバルコニーのエーテルノードは角度的に見えない。
代わりに、エーテルシューズを履いて飛び回る人間が視界に飛び込んだ。
ノードの機能が停止したわけではなさそうだった。
動かしにくかった肩に視線を戻す。
外套を右手で捲り、左肩を出す。
ウォッチがぎょっとした顔で見つめていた。
肩の部分のシャツは裂け、パンパンに膨れていた。
別人のような腕。
浮かぶのはもちろん彼。
(なんかレイシーみたい!)
ぎょっとした顔で固まるウォッチを尻目に少し笑う。
改めて体を見る。手足だけがおかしい。
ムキムキだった。
ズボンがはち切れそうだ。
ブーツがきつい。
そういえば、少しだけ目線も高い気がする。
両手でシャツをめくり腹を見るが上半身は変わっていない。
左手で掴んだ裾が溶けた。
最近食欲がなかったからか、痩せた気がする。
あばら骨が少し浮いている。
手足だけ発達した筋肉は気持ちが悪かった。
視線を上下させているウォッチを一瞥する。
腰の血は止まっていた。
ほっとしながらウォッチに向かって回復魔法を唱えるが、何も起きなかった。
N棟の壁に体を向ける。
手を翳し〝つかむ〟〝もえろ〟を順番に声に出す。
魔法は出なかった。
破裂音がした。
ふと、目の前の広場に視線を這わせる。
かなり離れた、W棟とS棟の間で目が止まる。
薄い青と濃い青、それぞれのバンダナを身に着けた人間が入り乱れている。
シューズで跳ぼうとしている人間を〝つかみ〟転んだ人間にナイフを振り下ろしている。
つい目を細めてしまった。
S棟の壁面から加速して突っ込んでいる三人組。
屋根でマナステーションを点け、見下ろしている集団。
雑木林から石を投げつけている男。
プレーノを探すが見当たらない。
ダガヤ・クルーの人間の痛ましい姿を見る度、足が動きそうになった。
ドミヌスのアジトの守りが薄かったのを思い出し、踏みとどまる。
ウォッチに視線を戻す。
髪を解いて紐を口で咥え、頭のお団子を慣れた手つきで作り直していた。
放った言葉と同時に目が合った。
「魔法が出ない。でも筋肉が凄い。」
外套を捲り、左手で力こぶを作りながら言う。
お団子を作り終えたウォッチが、ナギの力こぶに手を伸ばす。
「なんで…?」
揉みながら独り言のように尋ねてきた。
顔を紅潮させている。
言葉を返さずに付近を見回そうと視線を切る。
どうしても周りが気になる。
振り向くと、W棟方面の少し離れた場所にピンクの頭。
どこかで見た事のある赤いシャツ、緑のズボン。
ドーゲンだ。
背を向けている。
隣にはベージュ色の髪。
ショートツインテール。
さっきミカの髪を切断したのでわかりやすい。
あれはマヤだ。
時折、顔を見合わせている。
何か話しているようだ。
(ドーゲンってヤマカミなの?あ、ドミヌス?)
落下中の凄まじい握力が脳裏を過ぎる。
今も力が漲っている気がした。
そろりと近寄っていく。
気づいていない様子。
所属を聞こうかと思ったが、マヤに向けるデレたおじいちゃんの横顔が目に入る。
必要ないだろうと右手で優しく肩を叩く。
なかなか振り返らない、マヤとの会話に夢中なようだ。
それならばと、右拳を大きく振りかぶる。
ゆっくり振り向くドーゲン。
会話するのがめんどくさくなり、捻った腰を戻す勢いで、拳を突き出した。
拳に硬い感触。左肩に直撃した。
爆ぜるように肩から先が弾け飛ぶ。
女の短い悲鳴。
赤い霧のような飛沫が舞う中で、拳を振り抜いた。
困惑した顔つきから苦悶の表情へ変わるドーゲンと目が合った気がした。
左肩から先が無くなったピンク頭のおじいちゃんは、跳ねて転がり、雑木林に消えていった。
「ナギ君!?大丈夫?」
マヤが振り終わった態勢の右肩を掴んできた。
うんざりした顔でちらりと見て、左拳を振りかぶるナギ。
(こっちの手は殺しちゃうかも!)
腰を捻ろうと、力を入れた時だった。
頬に拳がめり込んだマヤの顔が目に映った瞬間、拳を振り抜くウォッチの姿に入れ替わる。
おくれ毛が揺れている。
顔を上げたウォッチの横顔は、獣のようだった。
吹っ飛んでいったマヤを睨み、走り出していく。
(ウォッチってレイシーみたいな感じじゃないのになんでこんなに強いんだろ。魔法?)
倒れたマヤを蹴り飛ばし、顔面を踏みつけ捲っている細い腰を見ながらそう思った。
ナギが掴んでしまった横腹の辺りが破けている。そのシャツの破り目には血が滲んでいた。
後ろから乾いた衝撃音。
それに続いて木材を削るような音に、思わず振り向いた。
N棟の壁にラグナロクを突き立てて、減速しながら下降してくる〝化け物〟がいた。
ナギとは距離がある。
(あいつ〝つかむ〟買ってないの?)
バルコニーにいた青い髪の女、黒髪の男が地面を魔法で掴んで滑るように着地してきた。
黒髪の男は血だらけだ。タリフにやられたんだろう。力が入りにくいのか、右腕に力がないように映る。
その近くにサファもいる。
胸に何か黒いものが湧いた。
駆け寄ろうとすると、タリフ、ドンドラがナギの横に着地し、気が逸れた。
(さっき僕、サファのなんの魔法を食らったんだろ。)
タリフが空に両手を翳し、嬉々とした表情で〝しゅうごう〟と叫ぶ。
再びけたたましい音。
(あっこっちは集合っていうんだ!)
目まぐるしく情報が飛び込んでくる。
魔法の種類はとんでもなく多いのかも。そう思った。
耳を塞ぎたかったが自分の左手で触れると溶けるだろうと我慢する。
N棟とS棟、E棟の屋根の上、建物の影から、大量の人間が飛び出す。
壁面を這っていた〝デカムカデ〟はいなくなっている。
地面にいくつもの魔法の線が伸びる。
飛び出した人間が落下寸前に〝つかむ〟で地面を引っ張っていた。
加速しながら着地し、サファ達の周りをたくさんの人間が交錯する。
近くの魔物が逃げていき、広場が怒号で埋め尽くされた。
敵の退路を断つように〝コ〟の字で集まるグローブ・K。
空いた一辺にはナギ達が立っていた。
急に気が抜ける。
衣類の締め付けが緩む。
外套の輪郭がふわりと縮んだ。
筋肉がしぼんでいるとわかった。
ぞわぞわした脱力感に鳥肌が立つ。
情けない声が漏れ出そうになるのを我慢した。
(今おしっこ出そうだった…。)
「体、ーーたね。よーっー。」
隣から声が聞こえたが、タリフの魔法で聞こえない。
敵かと思い、平手打ちされたように素早く顔を向ける。
前傾姿勢で何かを引きずりながら、微笑んでいるウォッチと目が合った。
手の先には両腕があらぬ方向に曲がっている、髪が解け、顔面血だらけのマヤ。
血でわからないが、左耳が千切れているように見える。半分ないように思えた。
掴んでいた髪の毛とシャツから手を離し、その辺に投げ置いた。
べしゃりとマヤが突っ伏した。
ナギはマヤに両手を翳す。
試し打ちをしてみる事にした。
〝はなれて〟を声に出すと、マヤの体が跳ねる。
衝撃部分に、たくさんの赤黒い光の粒が、弾けるように飛び出した。
ぱっと出てふわふわ舞いながら、粒は地面に落ちる途中で消えていった。
マヤはN棟の壁面を貫通して見えなくなっていった。
(魔法出た…なんか威力が段違いに上がってる…。)
左手を見ると、青色だった無数の糸が赤くなっている。
ブレスレットと指に巻き付いていた。
けたたましい音が止むと、タリフが叫ぶ。
「サファ!もう無理でしょ~この状況!やっぱりスマッシャーにやられてるよね?ドミヌス全然いないじゃん!」
唇を歪ませながら、タリフを睨みつけるサファ。
リサが自分の胸に手を当てているのが見えた。
〝つよくなれ〟だろうな。ナギはそう思った。
(いつ切れたんだろ僕の〝つよくなれ〟。夢中でわかんないや。)
タリフとドンドラに少し近寄る。
「他の奴はほっとけ~!とりあえずサファ殺そうね~!」
〝コ〟の字の三辺に顔を振り、大声でそう言った。
殴り合いを挑んだ時の倍くらいの人数がサファ達の周りにいる。
たしかに。ナギは遅れてタリフの言葉に反応した。
ドミヌスは少なかった。アジトにも、N棟にも。
スマッシャー。つまり殺人鬼にもうやられているのだろうか。
そうなると、アジトの守りが堅くなったというダーガの情報はいったい何だったんだろう。
胸がもやついた。
あまり考えたくはなかったので別の事を考える。
(サファあっけなかったな…。キューの居場所聞かないとな…。僕よくあの真ん中で戦ってたなあ。こんな多くはなかった気がするけど。)
情報が多すぎて頭が纏まらない。
左手が気になりだし、視線を移動させる。
無数の赤い糸のほとんどはブレスレットに絡みついていた。
先端がぴょこぴょこ動いているのが数本ある。
たぶんこれ生きてる。動きからそう思わざるを得なかった。
タリフの声で視線を上げる。
「じゃあもういいよー!終わらせよ~!やっちゃってー!勢いあまって殺しちゃっていいからねー!」
数人の男がサファ達に襲い掛かると、一気に人間と怒号が雪崩れ込む。
サファと青い髪の女、黒髪の男が〝つかむ〟でN棟の壁に向かってジャンプする。
リサは人の切れ目から抜けるように駆け出している。
動きはさっきよりも速かった。
サファだけに〝つかむ〟の帯が一斉に伸びる。
何本あるだろう。数えきれない。見るからに抵抗できない本数。
あまりにも魔法の帯が集中しているので、サファの体がぼんやりと光っているようだった。
N棟の壁面に到達する事なく引き込まれ、人間の渦に呑まれていった。
青髪の女と黒髪の男二人は壁面に到達している。
グローブ・Kの何人かが、人の切れ目を抜け出そうとしているリサに襲い掛かっている。
一人がラグナロクで腕を切断されると、他の人間はサファに軌道修正し、リサは集団を抜け出していた。
怒号が飛び交う中、タリフが話しかけてきた。
「ナギちゃ~ん。あっという間だったね~!次、宿の人探しに行こ~。っていうか左手なにそれ。」
「うん、そうしたい。なんかノードに突っ込んだらこうなってたんだ。」
「あれなんで?ノードってつっこめんの?」
言いながらタリフは目の前の怒号の塊に視線を戻して、腕組みしている。
「わかんないよ。でも突っ込んじゃってた。」
淡々とタリフに返事をしながら両手を翳してリサの動きを追う。
輪になる人間の外側から襲い掛かろうとしている。
〝つかむ〟を声に出す。赤黒い帯がリサの右肩を掴む。
(〝つかむの帯〟が長い。さっきの感じだと、引っ張る力も強くなってる。)
右手から出た赤黒い魔法の帯を左手で掴む。
ほんの、ほんの少しだけの力で引いた。
リサが横に吹っ飛び、地面に擦られながら転倒した。
肩についた魔法を睨みつけながら起き上がっている。
集団を背中から襲おうとする度にナギに引っ張られて転倒していた。
距離が近づいてきたので、起き上がる寸前に〝はなれて〟をリサに当てる。
S棟の壁の近くまで吹っ飛んでいった。
「お、おい!ちょっと!待て!待て!」
サファを囲んでいる集団から声がすると、怒号にどよめきが混じり出す。
様子がおかしい。
群がる人間達が徐々に遠のいていく。
青髪の女と黒髪の男はN棟の壁面から様子を窺っているようだった。
近寄ろうとするタリフとドンドラにナギも続く。
ウォッチは距離を取るよう、集団に怒鳴っていた。
人がまばらに飛びのいていく。
サファがいるはずだった中心には、ボロボロの衣服の男がうつ伏せに倒れている。金髪だ。
誰かと入れ替わったのでは。そう思って周囲を見渡そうとするが、たしかにサファが着ていた服だった。
肩と鎖骨の辺りを守る、防具のようなものを身に着けている。
肩当てというのだろうか。
装備の知識が全くない自分を悔いた。
男は肘を地面につき、起き上がろうとしている。
つい目を細めた。どこかで見た事のある金髪の男だ。
男は苦痛に歪ませた顔だけをナギ達に向けた。
細めた目が徐々に見開かれる、ナギは右腕で一度目をこすり、金髪の男を二度見した。
顔は血だらけだ。
折れているのか、体の外側に曲がっている左腕で顔の血を拭っている。
両唇から頬にそれぞれ伸びる傷がちらりと見えた。
ミライ君だった。
右手から赤黒い帯が伸びている。
誰かの魔法かと、焦って帯の先を見る。
広場の真ん中からミライ君を見つめる立ちすくんだリサの右肩に伸びている。
リサに放った〝つかむ〟の帯は、何故か消えずに残っている。
不気味な赤黒さだった。
周囲のグローブ・Kからはどよめきが途切れなく起きていた。
頭が真っ白になり立ちすくむナギ。
何が何だかわからない。
つい左手で右肩を掻くと、激痛が走る。体をくねらせた。
細い息を吸いながら目を細め、顔を向ける。
外套が溶け、皮膚がこそげ落ちていた。
焦って回復魔法を唱えながら、目の前の状況を窺ったのだった。




