第54話/アネットがついた嘘(1)/Limited_ Annette
(私はナギ君に二つ嘘をついた。)
西の大通りを外れて裏路地をゆっくり進む。
キューの宿とドーゲンミライ道場の中間に位置する裏路地だった。
胸に手を当てると〝ぶつりからまもるね〟と優しく囁いた。
上から物が降ってきている。
(仲間からの離脱を告げて私はとても気持ちが楽になった。もう頑張らないでいい。苦しまないでいいって思った途端、今までの執着の波が嘘のように引いていった。でもダメだった。さっきナギ君に〝つかむ〟をされて引っ張りながら振り向いた時、リサが目に入った。リサの事は大好き。一緒に居て楽しい。初めて気兼ねなく話せるって思った女友達。絶対に親友になれた。でも目に入ってきた瞬間、執着がリサを媒介にして襲い掛かってきた。いや、私の中で膨らんだ。)
オーイ!と上から声がする。
叫ぶ時もあれば微かに聞こえる時もある。
女だろうか。
掠れた声。
生気のない声。
誰かに呼ばれている。
降ってくるものに注意しながら見上げて声がする方へ移動する。
〝ぶつりからまもるね〟が切れたのが腑に落ちた。
(すごいスピードで視座が変わっていく彼の傍に入れない寂しさ。私ならもっと教えられるのにって悔しさ。リサへの嫉妬として一瞬で膨れ上がった。リサの存在、ポジション、ナギ君と旅を続けられる事。全部が妬ましかった。負の感情の発散先として他人への攻撃を習慣としていない私は、ナギ君に嘘をつくという形で世界に関わっていった。転んだ彼を起こす時〝エッチな気持ちは執着に繋がるから気を付けてね〟なんて優しく言ってしまった。それが一つ目の嘘。彼にとっての師匠という立場すら執着に呑み込まれた。立場を利用してしまった。彼が私を信用してくれている事をわかった上で、そう言ってしまった。)
声の出所を大体特定した。
建物の壁面に向かって〝つかむ〟を発声し、一気にジャンプする。
壁面に足をつけ、魔法の張力で建物にへばりついた。
顔を左右に振る。
声は止んでいた。
建物の上から突き出している納戸のような窓から覗く、長い髪を垂らした老婆と目が合った。
落下中に再び〝つかむ〟を老婆の近くに撃つ。
老婆のにやついた顔が迫る。
どんどん歪んでいくのが映った。
「わあー!」
窓に到達した瞬間、大声を出すアネット。
感情がない目つきで口を大きく開けて文字だけ叫んだ。
尻もちをつく老婆。
「なんですか!」
アネットが淡々と叫ぶ。
「は、入るな!…来るな!…それ以上入ったら違反…い!違反!法律の!」
目を剥いて半開きの口で、震えながら途切れ途切れに言った。
尻もちをついた老婆は後ずさっていた。
「呼ばれたから来たの!なんですか!」
アネットは抑揚のない声で叫ぶ。
文字だけ発声した。
怯える老婆の周囲を見ると足の踏み場もないほどゴミで溢れている。
小さい虫が大量に飛んでいた。
ゴミの中から黒ずんだ人間の足が飛び出しているのが見えた。
これだけ騒いでいるのにぴくりとも動かない。
狼狽している老婆に視線を移す。
「次、物投げたら!また来るからね!中入るから!用がないなら呼ばないで!わかった!?」
「は、入るな!…来るな!…それ以上入ったら違反…い!違反!法律の!」
老婆は同じ言葉を繰り返していた。
歪む顔を見据えるアネット。
(散々呼んで物まで投げて。いざ近づかれたら来るなだって。子犬みたい。かわいいね。)
そのまま落下すると周囲を確認し、ゆっくりと歩いて行った。
(どこまで考えたっけ。ああ、エッチな気持ちね。そうそう。嘘。うん。あれ嘘。そう。嘘ついちゃった。正確に考えよう、私までブレちゃう。エッチな気持ちは執着になり得る。欲望は逃避になり得る。でも自分でコントロールすればなんの問題もない。それは性欲に限った事じゃない。食欲も、安心感も。ほぼ全てにおいて言える。溺れたら執着。〝自分ってものがそれに同化したら執着になり易い〟。同化しちゃだめ。自分が土台である事を認識しないとだめ。そうやってしっかり見つめてコントロールすれば大丈夫。でも嘘ついちゃった。リサの立場が羨ましかった。隣で彼の成長を見られる事が羨ましかった。私も一緒に旅をしたかった。でもそれは〝ナギ君に指導している私〟で自分を保とうとしている私も混ざってる。〝旅を諦めた自分〟すら許せない私も混ざっちゃってる。だからこのまま仲間として居ても良い結果にならない。私が破滅に導いちゃう。〝そんな自分も許せない〟。短い間だったけど二人の事がとても好きだから。でも嘘ついちゃった。)
アネットの師〝プロフィッド・ティル〟に教わった事を思い出しながら粛々と思考した。
自分の体験を素材として、過去受けた指導を自らに腑に落としていった。
(やっぱちゃんと離脱すると頭回る。執着の薬は心の距離かな。)
アネットは小さな悲鳴をあげた。
足元に人間が横になっている。
たくさんの虫がたかっていた。
(これたぶん…。)
両方の掌を口の周りに当てて叫んだ。
「おはようございまーす!おーはーよー!」
上から老婆の甲高い笑い声が聞こえた。
顔を上げ空中を睨みつけるアネット。
目の前の人間から返事はない。
(ただの屍のようだ…。)
少し宿の方向に戻ってしまった。
宿から離れるように裏路地を進む。
思考を再開した。
(私はナギ君にも嫉妬していた。私から見たナギ君。それは〝異常〟だった。でも私がなりたい、到達したい心をすでに持ってた。ブローチとの接敵で明らかに彼は変わった。目がもう全然違う。発言も。その理由は、おそらく死を乗り越えた。)
歩幅を狭め、顎に手を当てる。
言葉を選んで少し繰り返す。
(乗り越えたって言い方は違うか、向き合った。うん、彼は向き合った。死は生と同じ部分がある。死に方を考えればそれがそのまま生き方になるように密接なもの。でも、大半の場合〝死と生〟は別々に認識される。死は怖いものと認識されているから中々密接にはならない。〝死〟は〝自分〟って認識に絡みつくように関係しているから。自分の存在が丸々否定される恐怖。それが死の恐怖に近いとされている。感じているのは未知。だから〝自分〟ってものが朧気になる経験。…今回の私みたいな、積み上げてきたものが崩壊したりだとか、自分がやってきた事に意味がないのかもって不安になる瞬間に、人は自分が崩壊するかもしれない不安を直視できずに無意識で執着に縋りつき易い。縋りついちゃうと世界を彷徨いはじめる。自分の認識が崩壊へ向かう恐怖は死と似ているから。)
「うぁわ!」
思わず声が出た。
足元で首のない死体が横から手を伸ばした状態で事切れていた。
進行方向とは別に分岐する路地の先に黒っぽい、丸いものが落ちている。
目を細めて見るアネット。
(たぶんあれか…。)
足元の胴体に目を向ける。
断面は凄惨なものだった。
強い瞬きを何回かした。
(魔法じゃないなこれ…、千切れてる?捥がれた?どうやって?こっわ~。)
見た事もない、想像もできない断面。
目を強く瞑り下唇を突き出す。
ぶるっと震えるアネット。
再び歩き出し思考を回転させた。
(ナギ君はブローチとの遭遇で〝死んだ事〟で魔女の発言にあった〝願い〟を考える機会になった。生と死がつながりかけた。だから彼は困惑してた。私が異常だと思うのはここから。〝死〟を感情なく見つめる事は普通は出来ない。できる人はいる。でもかなり難しい。それは〝生に納得する事〟だから。〝死んだら終わりなだけ〟とかって受け入れてるかのように言う人いるけど、本心からそれを受け入れているならそんなの言う必要ない。多くの場合それは死を納得させようとしてる自分への言い聞かせ。でもナギ君は違――――)
「ひぅあ!」
心臓が縮む。
路地の角から人間が突っ込んできた。
尻もちをつきそうになった。
突っ込んできた人間は急カーブして同じ所をぐるぐる回っていた。
赤面しながら横目で通り過ぎる。
(驚いたあ…。なに考えてたっけ、ナギ君は死をなんで見つめられたかだっけ?ああ、そうそう、それだ。普通は見つめられない。つまり、ナギ君の場合は極端に自分がない…意志がないという事ではなくて、自分という輪郭が曖昧過ぎる。だからすんなり死を見つめられる。魔法学の話をしてて気づいた。〝意味がない〟って事を受け入れるのが彼は早すぎる。会話が通じすぎる。意味がないって、言葉を理解する事はできても納得するって相当難しい。むしろ〝納得出来ちゃった〟方が平然と暮らしにくくなる。自分には意味があるはずだ。って心が働くから。ナギ君を見てるとまるで目の前のあらゆる事に意味がないって事を望んでいるみたいだった。だから〝自分って概念と密接に繋がってる死〟をあっさりと受け入れられたんだと思う。)
路地が分岐している。
不意に声を上げたくないアネット。
しかしミトハロ記念に路地裏は通りたい。
警戒して壁に背を向けてそろりそろりと顔を出す。
曲がり角の先を見た。
何もない。
壁から背を離して再び進む。
(彼の場合は自分の輪郭が曖昧だから死について考えられる。感情なく死だけを見つめられたからその体験で変われる。逆に命を投げ出し易くもなるけれど。死は人が、人生の最後の方、実感してきた時にやっと向き合えるものだとされている。私達三人はブローチの〝まぼろし〟の中で命を絶たれたけど〝今は〟生きている。感情が干渉すると恐怖が先立つから直視できないはず。怖さが勝つ。でも彼は感情が干渉しなかった。ただ体験を見つめただけ。その証拠に毎晩ブローチを反芻してるらしい。異常。彼は今も死をひたすら見つめている。)
窓が勢いよく開閉するような衝突音がどこかからした。
連続して響く。
「やーめーてー!」
そう叫ぶと音は止んだ。
(素直だね。かわいいね。そういえば宿でもバンバンバンバンドンドンドンドンうるっさかったな~。ちょっと怖かったんだけど。あれ、何叩いてたの?壁?誰が?わざわざ夜に。迷惑だったな~。)
再び歩を進める。
ナギについての思考に戻した。
(ナギ君を見てると、まるで細かい絶望を小さい頃から丁寧に与えてきた人と一緒に過ごしていた感じがするんだよね。いじめとか虐待とかじゃなくて。反発すら抱かないような細かい、小さな小さな絶望。些細な拒絶だとか否定だとか、なんかそういうのよりももっと弱い絶望というか…。希望がない事を優しく伝えられ続けるような…。そういう事を囁き続けた人がいるんじゃないかな。そうじゃないとあんなに自分の輪郭は曖昧にならないんじゃないかなあ。自分の輪郭が曖昧になるって一長一短だから、人ってほっといても〝自分〟を何かで定義しようとするらしいし。会話が出来る家族と一緒に育って話し相手が一人でもいる状況であんなに孤独感は抱かないと思う…孤独感、絶望感?虚無感?んー。ナギ君の異質さを表現するのって言葉選びが難しい…。魔法そのものが〝同調〟とか〝つながる事〟、〝会話〟?そんなイメージになるって今までどれだけ彼は世界と距離を置いていたんだろう。年の割には内観…内省っていうの?自分の中で処理する力が発達し過ぎてる気がするし…。)
建物一階部分。
少しだけ開いた窓の隙間からアネットを見つめる老婆がいる。
目はとんでもなく見開き口角が上がっていた。
視線を絡ませたまま静かに近寄るアネット。
一歩一歩ゆっくり前に進みながら左右にゆらゆら揺れる。
老婆の眼球だけがアネットを追った。
(おお…。私を見ているぞ…。)
手が届く距離まで近づいた。
(この人っておばあちゃん?おじいちゃん?どっち?)
〝おそらく老婆〟の息遣いが聞こえる。
にんまり笑って両手を翳し、唐突に叫びだすアネット。
「〝もうれつ〟に!k―――」
窓が勢いよく音を立てて閉まった。
老婆は最後まで表情を崩さなかった。
(焦がさないって~、さすがに。冗談冗談。)
後ろから破裂音がした。
何かが降ってきたようだ。
〝ぶつりからまもるね〟と声に出し進む。
(ナギ君の思考はおそらく、すでにフラットだ。羨ましい。〝魔法使いだった私〟が到達したかった心。でも自分がフラットである事の自覚がないから彼はこれから色んな事で揺らぐ。ナギ君は無意識に誰に対しても分け隔てなく接する事ができるから人と仲良くなるのも多分はやい。)
紙屑が落ちてきた。
手に取って開く。
〝おはようございます。死ね。〟と書かれていた。
ため息をつき紙屑を捨てる。
(無自覚なフラット〝だから〟揺らぐ事もある。もっと言うとフラットだから人の執着が集まりやすい。そういう状態の人から嫉妬が集まりやすい。標的になりやすい。彼は無自覚だから近寄ってくる人間と自分の違いに困惑するはず。周りの他人もそう。理解できない人はナギ君の事を怖がると思う。彼が黙って立ってるだけで山…とか深い湖?みたいに感じる人も中にはいるはず。大きいものって怖いよね。その恐怖が執着になって彼にぶつけられる事だってある。特に彼は、人の顔色を窺う生き方を窮屈に感じているけどどうしようもないじゃんって日頃から言い聞かせている人間とは絶望的に相性が悪い。無自覚なフラットって場合によっては残酷。)
裏路地を抜けた。
「楽しかったぁ…。」
吐息交じりの言葉が漏れた。
(途中ほんとに怖かったぁ…。ちょっと後悔したぁ…。)
そのまま北方面に進む。
(私、〝死〟についてまだ冷静に向き合った事ないから、その部分の整理、あんまりうまくいかなかったなあ。ま、何が言いたいかと言うと、あれだ。ピュアなナギ君はミトハロとだいぶ相性が悪い。やっぱ治安悪いよねこの街。人は活気があってエネルギーもあって私は好き。ごはんも美味しい。レイルも楽しそうで良いと思う。でも〝不足〟とか〝争い〟を誰かに作り出されてる気がする。っていうか〝満足〟をコントロールされてる感じがするんだよね。特にバシナリー広場。今通ってきた裏路地よりも異様。異質?空虚?あそこで飛び回っている人達って全然楽しそうじゃない。〝レイルは楽しいものって事にされている〟からそういう表情してる感じ。異様な雰囲気だったなあ、あの広場。あんなの何が面白いのかわかんない。便利だとは思うけど。あ~、ナギ君死なないといいなあ。)
風に吹かれ足に抱き着いてきたゴミを払いのけてアネットはそう思った。
外套の肩の部分をはたきながら、どこに行くでもなく足早に北へ方向転換するのであった。




