第115話/バケモノ VS 魔女(2)/Limited_NAGI
ブローチは少女になった。
明るい茶髪をふんわりと盛り上げている。
長いまつげ。大きなネックレスをつけ、魔法キャンディがいくつも連なっているようなブレスレットを手首に巻いていた。
まるでギャル。
ブローチはリサに声をかけた。
「そうかあ。お兄ちゃんに剣を向けちゃったのね。お姉ちゃん。」
ナギには、ブローチが強引に心配をしている様子を作っているように見えた。
少し考え込んでから口を開く。
「じゃあ、それを精算するにはね、お姉ちゃん。やっぱりお兄ちゃんと一緒に旅をするしかないと思う。お姉ちゃんもう、頭働かないでしょ?誰かに支配されたみたいに考えが湧いて出てきて。それを認識しようとすると、足元から抜ける感覚でしょ?それとも息は出来るのに胸が苦しくなる、重くなる感覚かな?お姉ちゃん、アルセナに帰って何するの?一生、生きにくさを抱えて生きるの?お兄ちゃんに申し訳なさを感じて生きるの?そんな生き方が出来るの!?お姉ちゃんに!?」
わざとらしく口を両手で覆いながらリサの鼻先に顔を近づける。
目を丸くさせて言った。
表情とは裏腹に、声は弾んでいる。
しばらく覗き込むと、おくれ毛を指でくるくる回しながら顔を離して言う。
剥かれた目には嘲笑が滲んでいる。
「無理でしょー!お姉ちゃんが!ははは!忘れられないよ~?体拭いてる時、寝る前。不安になった時。嫌な事があった時。良い事があった時だってそう!朝日をあびた時。男の人を抱くとき、抱かれる時。湧いて出てくるんだから!今回、たぶん経験してるでしょ?勝手に考えが浮かぶの。頭の中に文字が出てきて止められなかったでしょ?それね、止められる人と止められない人がいるの。お姉ちゃんには止められないんだよ。お兄ちゃんには出来るの。」
「あっ成長したとかしてないとか関係ないよ。」顔の前で掌をひらひら振りながら、そう付け加えた。
手に入れた玩具の新しい遊び方を発見した子供のように、さらに声を弾ませる。
「じゃあ!じゃあ!これからのお姉ちゃんがね。独りでアルセナに帰ったとしてさ、頭の中にぐるぐる文字が出てきた時の未来を特別に教えてあげる。」
掌をリサの頬に当てた。
垂れる血を親指でなぞり、不敵な笑みを浮かべながら言う。
「ぐるぐる考えが浮かんだ、その次はね、何を考えるかって言うと。なんでナギだけ幸せになって、どうしてあたしだけ苦しいの?って思うんだよ。」
言い終わる頃には得意げな顔に変わる。
頬に当てていた指を顎に這わせ、リサの顔を上げさせた。
「お兄ちゃんはね、お姉ちゃんと離れたら百パーセント幸せになれるの。」
そう言いながら噴き出した。
虚ろな顔つきのリサの肩を両手で揺する。
「聞いてるお姉ちゃん?お兄ちゃんはね。貴方と離れたら百パーセント幸せになれるの。うははは!これを言われてもお姉ちゃん離れられないよね!言われた〝から〟離れられないかな!うーわはは!」
がくがくと揺れるリサの顔。
ブローチは顔を紅潮させながら叫ぶ。
笑いが落ち着くと、まじまじとリサの死んだ顔を覗き込む。
下唇を噛みながら、少女がぶるっと震えたように見えた。
「お姉ちゃんはアルセナに戻ったとするじゃん?で、お兄ちゃんは世界救って。誰かと結婚してさ!緑のお姉ちゃんかもね!これから先の旅でモテちゃった内の一人かもしれない!お兄ちゃんモテるんだよ!ちゃんと理由もあるの!」
〝まあ、それはいいか〟肩を揺らす手を離しながら低い声になる。
ブローチはオーバーオールを着た男になった。
赤と白のチェックのシャツを下に着ている。
クマだろうか。目の周りが黒い。ナギは後ずさりした。
足元にフライパンが当たる。
「〝お兄ちゃん〟が幸せになった時に、おまえは考えるはずだ。なんで、どうしてあの隣にあたしがいないんだろうって。その感情は苦しいぞ、リサ。それだけで終わるわけがない。その感情、思考が浮かぶとな、おまえが誰かと一緒になっても、常にナギの人生と自分の人生を比較する。」
「それだけならともかく…。」男はため息交じりにそう言うと、立ち上がって話し続ける。
「それからさらに、おまえが一緒になった男とナギを比較する。浮かぶんだよ頭の中に。延々と浮かぶ。考えないようにしようと思うほど考える。男が笑いかけてくる度に、ナギを思い出す。ナギとの共通点が分かる度に浮かぶ。ナギとの共通点じゃないと気づけば、より浮かぶ。」
少し男が笑ったように見えた。
「ナギと、その男を比較してるって考えをだな、振り払おうとした時にはもう遅い。振り払っちゃダメなんだそれは。振り払った時、〝目の前の男〟からも目を背ける事になる。比較を通してしか人間を見れないおまえさんの頭に問題があんのさ。目の前の男すら見る事が出来なくなって、世界を認識できなくなったら、まあた、おまえさん独りになっちまう。」
ひとつ息をした。
「じゃあどうすりゃいいんだって?比較するんだよ。それしかねえ。比較しなくなるまで比較するしかねえ。その間は暗闇だ。真っ暗闇。醜い自分と向き合い続けるのさ。その苦しみに耐えられるのか?おっとリサ。いくら辛いからって相手にそれを伝えて、わかってもらって楽になろうなんて思うなよ。〝あたしは比較しちゃう人間だけど、貴方が受け入れてね?〟なーんて無様な人生送るなよ。」
虚ろな顔のリサの髪を撫でながら男は続ける。
「それはそれでその男との関係が拗れるんだ、必ずな。今だってそうだろ。比較はしてないにしろ、ナギに縋りついているからあいつとの関係が拗れてるんだろ?わかるか?人間にはな、必ず一人で受け止めなくちゃいけないもの…領域がある。それを…そこの部分を受け止めてから世界に関わらないと拗れるんだ。必ずな。」
男は改めて、しっかりとため息をついた。
無言のリサの思考を先回りするかのように話を続ける。
「じゃあ女に行くか?リサ。あのな、性別は関係ない。同じだよ。男も女も。おまえの世界への関わり方の話をしてるんだ。人間同士の関わり合い方の話をしてるんだ。」
男は、結んでいるリサの毛先を撫でながら言う。
「頭の中に次々に考えが浮かぶ違和感。止まらない怖さ。同じ考えが延々と巡り、同じ事を考えているかどうかもわからない辛さ。この街で散々わかったろ?ここでナギと別れて、これから先、他の人間と一緒になった時。それが毎晩毎晩続くんだ。目の前のその人間が、おまえを求める度にぐるぐる頭に浮かぶのさ。おまえが優しくされる度に嫌な自分が顔を出す。辛いぜそれは。無理だろ?おまえには。そんな自分と向き合えるならミトハロなんかでぶっ壊れてねえよ。」
尻を床につけ、男はリサの前であぐらをかいて座った。
〝ずっとうごくな〟そう囁いた後、もう動けるわけないか。そう自問して話を戻す。
「〝この状態〟には続きがあるんだ。そうなったら人間は、どうなるかって?…ここからが恐ろしい。」
話の先を誰も催促していない。
しかし、男はもったいつけるように咳ばらいをひとつした。
リサは男を向いているが焦点が合っていない。そんな感じだった。
「わざと相手に嫌われようとするのさ。自分から堕ちるんだ。自分はこんな人間なんです!って卑屈になってな。今回の例で言うと…なんだろうな。」
男は視線をリサから床に外し、少し考える。
ナギは聞き入っていた。
リサに視線を戻して男が続ける。
「複数の男にわざわざ抱かれにいくとかじゃねえの?知らねーけどよ。愛してくれる人間との肉体関係が、快楽においても一番なのにだ。目先の別の快楽に流れちまうんだ。本当の刺激を知らずに、刺激的!って言い聞かせてな!ぶはっ!なんか、今の、おまえみたいだな。知らねーけど。でもまあ、そりゃあそうか、未来のおまえの話だもんな。」
我慢できなかったのか途中で噴き出した。
震える声で言う男。
「でな、堕ちた自分が、その先で誰かに肯定された時に、涙を流してよ。これは愛だなんだって喚くんだ。でもな、それまで愛してくれていた人間からの愛は受け取れない。そうなるとよ、堕ちた先で会った人間からの愛しか受け取れねーんだな!人間ってやつは!ぶはは!戻ってこようとするとよ、堕ちた先での愚かな行動がまーた足かせになって、いずれまた拗れる。ループだな。ぶははっ。」
男の上半身がぐわんぐわん揺れる。
天井を見上げて笑い出す。
「おい!もうひとつ別のパターンもあるんだよ!聞いてくれ!ぶはは!自分で堕ちれなかった奴はな!相手を堕とすんだ!相手が悪い!相手が憎い!相手のせいだ!自分がやってる事は正しいんだ!正義だ!相手が悪いから相手を堕とすんだ!自分は悪くないんだ!ってな!」
あまりにも男が上体を揺らして声を出すので、聞き取りにくい。
「で!で!堕とした人間とは、〝何か逆の要素〟を持ってる人間に愛を感じるんだ!それって〝堕とした人間発信〟で愛が生まれてね!?」
叩きそうになっている両方の掌を、衝突する寸前で止めた。
「わかりにくいか!じゃあナギで例えるか!リサがよ!あいつを心の中でこき下ろしてよ!頼りないとかがありがちか!?んで!ワイルドな男に惚れるって流れだよ!ぶわっははは!俺からしたら今日のあいつほど残酷な人間はいねーけどな!」
話を戻すぜ。男は笑いながらそう言った。
「つまりだ!それって〝堕とした人間基準〟で愛が生まれてね!?ぶわーはっはっ!そういう奴ほど言うものさ!いい人生だった!自分は間違えていなかった!ワイルド最高!ぶわっはははっはは!ぶわは!最高って言うなら!消去法じゃなくて!最初から行き着いて見せろ!拘り見せろ!ぶわははっはは!」
口の前に持ってきて咳ばらいをし、声の調子を戻している。
行き場のない掌を天井に向け、意味もなくひらひら動かしながら続けた。
「失礼失礼。おまえの話をしてたんだった。」
再び咳ばらいをして続ける。
「まぁでも、これはおまえの未来でもあると思うぞ。千年生きてきた俺が言うんだから、言い得て妙ってやつだよ。せっかくすでに愛してくれる人間が目の前にいるのに、それに気づけずによ。自分が見られたい部分だけを見られて愛を感じるって、不憫だよなそりゃあ。」
男の声が震えている。
(あれ、笑ってるでしょ。)
ナギは鼻で笑いながらその様子を見ていた。
「愛ってなぁ、受け取られる側の考え次第なんだ。愛を感じられる人間は愛されて過ごす。愛を感じられない人間は一生独りで過ごす。世界に愛がないんじゃない。世界にあるのに気づけない。愛は錯覚だなんて言う奴いるけど、俺はそうは思わない。〝感じる事全て〟が錯覚だって話を広げる事になるからよ。そりゃ議論にならんだろ。今、お互いが居るテーブルの上で議論するから面白いんだろ?急に確かめられない、引き出しの中身を主張されてもな…。」
一呼吸で男が老婆になると同時に、笑みを滲ませる。
「気づける奴は気づいているのに!気づけない奴は自分だけ気づけないのさ!」
どかんと壁に衝撃があったかと思う程の声の大きさだった。
上半身を前に傾け、顔をリサに近づけて叫んでいた。
叫びながらショートカットの黒髪がロングヘアにぶわっと伸びる。
リサがびくついた。
ナギも思わず肩が跳ねた。
「リサ、おまえ。今アタシに何されてるかわかんねえだろう。追い詰めてるわけじゃないさ。助けてやりたいんだよ。〝ラグナロクのよしみ〟だろう?働いてないその頭に、もっかい言ってやる。頭の中に勝手に湧いてくる言葉を止める方法知ってるぞアタシゃ。ナギと一緒にいるんだよ。難しい事考えんな。一緒にいれば楽になれるぞ、リサ。こいつの笑顔を見る度に、胸がスッとするはずさ。媚びろ、尽くせ。なんでも良い。役に立て。」
言いながらリサの胸を指でつつく。
膨らみに指が少し埋もれていた。
険しくなるリサの表情から目を逸らさずに、ブローチは続ける。
「こいつの役に立つ度に、体の芯からじんわり暖かくなるぜ。頭空っぽになって気持ちよくなれるんだ。濡れちまうかもねえ。〝それ〟よりも良いかもなあ。」
(ひっひっひ来る!)
ブローチはひっひっひと笑っていた。
ほくそ笑むナギ。
「その内、アイツからの、おまえを見る目も変わっていく。人間なんてそんなもんだ。」
ブローチが前傾姿勢だった上体を戻す。
あぐらをかいている自分の膝を軽く叩き、まじまじとリサを見ている。
「今回よ、おまえがあいつを裏切っちまったけど。あいつは、おまえを拒絶しないんだよ。できないんだ。多分この街で視座が上がっちまってる。前回アタシが会った時のアイツだったら、ノード食った時におまえなんか瞬殺だぜ。紙一重だったねえ。」
長い髪の毛をばさりと肩にかけながら言った。
ナギにはブローチが何を言っているのかわからなかった。
脇腹をぽりぽりと掻きながら眺める。
老婆の語調が変わる。真剣なものになった。
「おい。そろそろ戻って来な。もう十分駄々こねたろ?安心しな。誰も怒っちゃいない。他の人間も全員死んだだろ?仕方のない事だったんだ。大丈夫だ。おまえは何も悪くない。」
ブローチがひとつ大きな呼吸をする。
リサの顔から怒りが消えているように見えた。
僕はけっこう怒ってるんだけど。ナギはそう思った。
リサの表情を窺うブローチ。
語調だけでなく、主張も変える。
「まあ、しかしだな。あんたが警戒するのもわかる。アタシは魔女だからな。だから、アタシの言う事に耳は傾けなくていい。これだけ考えな。おまえさん、魔王を育ててんのか、愛を育んでんのかどっちだい。世界を守りたかったのか、自分を守りたかったのかどっちだい。それとも、さらに最悪か?自分だけの世界を作りたかったのか?何から逃げた?何を見つめられなかった?何が怖かった。こう言った方がいいかねえ。そこまで深いあんたのそれ。もはやちょっとした〝自戒呪〟だ。勇者になる前からじゃないのかい?〝いつからだ?〟」
老婆は首を掻きながら、立て続けに言った。
声は相変わらずしゃがれていた。しかし、心地の良いリズム。聞き取りやすい速さ。
何かを探るような目つきで話していたが、言い終わる頃には眉が上がっていた。
「おや、これでも気づけないかい?もっと深いのかい?相当なもんだ。」
眉を上げたままの顔つきでそう言った。
あぐらを崩して膝を揃え、床につく。
リサの両肩を掴んで話しかける。
瞳の奥を見ているような真剣な眼差しをリサに向けて、ブローチは切り出した。
「ナギを失うのが怖かったかい?失わずに済むのが怖かったかい?もしかして、ナギから逃れるために、ナギに自分を傷つけさせようとしていたかい?それとも、ナギから離れたかったんじゃなくて、ナギから離れた自分なら、ナギを裏切ってもいい。そう思えるような状況を作りたかったかい?」
くっくっくと喉を鳴らす。
虚ろな表情のリサを見て、なるほど。ぽつりとブローチがそう言った。
「もしそうなんだとしたら。もはや自分で自分を騙してるんじゃなくて、自分で自分を追い詰めてるねえ。そういう事なら、おまえが見つめられなかったものの正体がわかる。」
にやりと笑うブローチ。
ナギにはなんの事だかさっぱりだった。
お腹がぐぅっと鳴った。
「じゃあ、猶更だリサ。おまえはナギと一緒に行くべきだ。盗賊に犯されたくないだろう。弱いから犯されるんじゃない。勿論それもあるが、それだけじゃないんだよリサ。猶更ナギと進め。エーテルノードが消滅して、この辺一帯の治安も悪くなる。今のおまえの一人旅じゃ、すぐに犯されて終わりだ。強いのにな。」
ブローチは歪みそうな唇を引き結んでいる。
今にも声を上げて笑い出しそうな様子だった。
立ち上がり、ナギに体を向けて老婆は口を開く。
「ナギ、今回おまえは本当によくやったよ。おまえはただ生きるのに必死なだけだったと思うけどねえ。抱き締めてやりたいくらいさ。一晩共にしたいねえ。」
ナギは首を大きく左右に振る。
それを見たブローチは眉を上げて大笑いした。
「そう言うなよ。おまえ好みの姿で相手出来るぜ。」
言いながら、眉間に皺を寄せて、壁にもたれかかっているリサに手を翳す。
しばらく何も起きなかったが、ブローチの目がぴくりと動くと、眉間の皺が緩んだ。
リサの輪郭がぼんやりと光り、胸から光の球がふわりと飛び出した。
ブローチが、リサに翳していた手をゆっくりとナギに向ける。
三人の視線が集中する中、光の球がナギに近づいた。
「このウジ虫はいらねえってよ。くっくく。じゃあ、おまえにやる。」
光の球からブローチに視線を移し、一瞬身構える。
しかし光の方が早い。
宙に浮く球体に視線を戻した頃には、ぼんやりとした光が自分の胸に吸い込まれていた。
胸を擦るが何も感覚はない。
左手を咄嗟に見るが何も変わっていない。
老婆の叫び声がした。
声の方に顔を向ける。
「こんだけアタシが何を言おうにも!何にも返さねえ!返事もしねえ!ま!そんな事はわかって話しかけてんだけどねぇ!」
ブローチが呆れたジェスチャーをするように、身体の前で両方の掌を天井にひっくり返し、笑みを浮かべて叫んでいた。
リサを向いているのに吹き飛ばされそうな圧力。
目を瞑り、顔を背けるリサが目に飛び込んだ。
「でも!だからこそ!いらねえよな。力なんてよ。リサ、おまえの力の一部はこいつのもんだ。なんの力だろうな。気になるねえ。勇者の力か?そもそも勇者の力なんて何があるんだろうな。っひっひ。すげえ弱くなったかもしれないし、大して弱くなってないかもしれない。失うって怖いなあ。ひっひ。」
そう言うと、声のトーンが落ちる。
腰に両手を当てて幾分か静かに言う。
「でもおまえは、持ってる事に甘えすぎだな。少しは失った方がいいかもなあ。」
冷ややかな視線でリサを見下ろしている。
ナギに顔を向けた。
ブローチの黒い髪がばさっと揺れたのが真っ白いシャツでよく見えた。
「そういえば、約束を忘れる所だった。悪いねえ。千年も生きてるとモノ忘れが激しくってね。」
にやりと笑い、揶揄うように言った。
ブローチは、天井に向けてひっくり返している自分の片手と、ナギの顔を交互に見る。
親指と人差し指をくっつけて、丸を作ると、口元を緩ませて眉を上げていた。
それを見たナギは、はっと目を見開く。
ジョージを思い出した。
血の気が引いていくのがわかる。
思わず叫んでいた。
「いやだ!いらない!やめろ!」
目を丸くさせるブローチ。
くっつけた親指と人差し指をつけたり離したりしている。
やがてにやりと笑う。
「まあそう言うな。アタシは大好きなんだがね。人類最大の発明品じゃないか。たしかに、一気に世界が回り出したが、物事を複雑にしないと気が済まなくなった。結果的に種族が停滞する。しかしそれを認められない。なんて人間らしい。破壊しながら今日まで何も変わらずに続いている。破壊していると知りながら続いている、このカオスがアタシは好きなんだよ。」
「だから!いらないって!おまえが好きならブローチ!おまえにやる!やめろ!」
鳥肌が立った。
呪いをかけられていたのは、おそらく自分の方だった。
必死に叫ぶナギを見て、ブローチの表情が明るくなる。
長い髪をかき上げながら言う。
「そう怯えなさんさ。いいものだぞ。しかし、このタイミングで気づけるのかい。相当、ミトハロで苦しんだんだねえ。いや、今も苦しんでいるのかな。お姉さん心配。」
老婆から二十代くらいの女に変化して言った。
胸と腰に布を巻いただけ、肌の露出が多い女。
目を細めて心配そうな顔で続けた。
「ナギ君。プレゼントあげる。頑張ってるみたいだから、もっとあげたくなっちゃう。アタシ本当に、今日機嫌いいの。わかるでしょ?」
「わかったから!わかりました!色々ありがとうございました!もうなんもいらない!本当にいらないから!いつもありがとね!」
掌を前に突き出して声を張る。
「そんな事言わないで。」そう甘く言うと女は〝リサは聞くな〟そう笑顔で囁いた。
目を見開き顔を上げるリサが、卑しく笑いながら口を開き出すブローチの向こう側に映る。
「大サービスね。アタシが今日、ここを去った時のね。この女の子の、第一声。教えてあげる。」
親指でリサを差しながら言った。
艶やかな声。
しかし、目は剥かれている。
諦めた顔つきのナギを気にせずに、ブローチは続ける。
「ごめーん!だよ!きっと!いや絶対!」
片手で口を覆い、笑いながら言った。
目尻が緩んでいる。
「ナギくーん!ごめーん!って!泣きながらかなあ!どっちでもいっか!ね!ごめーん!って!言うよ!」
上体を動かし、高笑いしている。
胸が揺れた。
リサからブローチの表情は見えていない。
綺麗な白髪の老婆に変化し、しゃがれた声になる。
長い髪が笑い声に合わせて小刻みに揺れていた。
「ゆるして~!ナギく~ん!って感じだろうな!ごめんねって便利な言葉だよなあ、寂しい言葉だよなあ!さみしいねえナギ。さみしいさみしい。人間は、気づいちまってからが地獄さあ。」
ナギは肩でひとつ大きな息をした。
何も話さなかった。
「独りでわけもわからず、くっっくく、街全部と戦って、〝ごめー、ん〟、だけ…。いや…ごめんて…。くっくは、やってらんねえよな。ミトハロで、ワケが分かっ、て戦ってた、なら、大したもんだけど。」
ブローチは笑いを堪えながら男になった。
紺のシャツに濃い緑のタイトなズボン。
つま先のとんがった短靴を履いている。
耳のピアスが光った。
「まだ、自我ぶっこわして操り人間になってもらった方がマシだよな。それなら色々やりたい放題だしよ。」
笑いを堪え切ったのか、後頭部を掻きながら真剣な表情でリサを見るブローチ。
視線をナギに戻す。
「おまえ多分、薄々気づいてんだろ?」
ブローチはラグナロクに手を翳す。
翳した手に吸い込まれるように飛び込んでいく柄。
「孤立してんのに平然としてるから、それ見たら、なんか大体察するけどよ。おまえが考えてる事、多分正しいぜ。どう捉えてんのかわかんねーけど。人は人じゃねえ時があるっつーの?」
床に開いた穴を剣先で差して言った。
「この線のコッチ側とアッチ側。その違いがもうわかんだろ。なんとなくでもよ。これから、会話しなくても、相手がどういう人間だってわかってくる時もあると思うぜ。会話もせずに人を括るな!とかって人間の言い分も正しいと思う。それでも、会話せずとも当たっちまうんだよな。寂しくなるな。ナギ。」
低い声だった。
目つきが鋭い。
ラグナロクが似合っている。なぜかナギはそう思った。
急に男が噴き出した。
「その時さえよけりゃいい人間がいるんだよ!ぶはっはっ!信じられるか?次の瞬間の自分なんてどうでもいいから、毎瞬毎瞬、自分が成立する方をひたすら選ぶんだ!自分が崩壊しない方を選び続けていくんだよ!俺ぁはさ!満たされない存在が〝自分ってモノを貪る〟って呼んでるよ!今回のこいつは多分相当深すぎるけど!」
笑いながら、剣先をリサに向ける。
「こいつ程、深くなくてもだ!自分が、認められない自分と遭遇するのを怖がるように、人は蠢くんだよ!自分が自分に対して不利にならないように!カッコいい、カワイイ自分で居られるように!バカにされないように!自分が認められない自分って認識にならないように!ってな!」
男の眉が上がっていく。
リサに向かって声を張る。
「あ!おい!おまえもしかして!良い人で居られるように!か!?良い顔をしていたい!か!?あり得るじゃん!嫌われるのが怖い!それあり得るだろ!いい人で居たいからナギを犠牲にする!あるある!」
もうどうでもいいか!弾んだ声でそう叫ぶ。
嵐が来る前日、補強した窓を満足げに見ているような視線をリサに残すブローチ。
再びナギに顔を向ける。
「悪い悪い!話戻すけどよ!まあそうなると!意識もねえかもな!毎瞬別人!違う事言ってよ!おまえ誰?って感じ!突っ込まれたくないからって大抵そういう奴って怒ってるよな!うおはっはは!さすがにウケるわ!なんで生きてんの?って感じだよ!俺からするとさ!意識を失ってまで生きる理由あんのかよ!身体と意識が揃って人間だろ!?わはっは!」
なんとなく肘を擦りながら、ナギはだるそうに聞いていた。
「常に次の瞬間で別人みたいな事言ってよ!なんで気づかないのか教えてやろうか!」
「もういいよ。」
投げやりに言い捨てる。
「おいおいそう言うな!拗ねるなよ!」目尻を手の甲で擦りながら、そうひとつ叫び、男は続けた。
「毎瞬毎瞬〝勝手に〟自分から飛び出た言葉をよ、〝後から〟正当化すんだよ!すげえよな人間って!自分は悪くない!自分はしょうがなかった!あれは仕方ない!ってよ!うわははっは!それでわかった気になって!やれ権力だ!やれ美貌だ!差別だなんだってやってんだぜ!自分の中の闇を放置しながら戦争とか言い出す奴!あれほんと最高!くっははは!世界の前にまず〝自分〟だろう!っていうか!自分の中の闇を処理できてないから戦争とか言い出すんだけどな!ひー!」
大笑いの勢いでラグナロクを投げつける。
リサの顔のすぐ横の壁に刺さった剣が、小刻みに震える。
独特の振動音を奏でていた。
砂で滑って転んだのか、男は腹を抱えて床に転げまわっていた。
そう言えば、こいつ揺らぎが好きだったな。ナギは思い出した。
自分に呪いがかけられていたのも納得だ。
いやらしい。いやらし過ぎる。そう思い、呼んだ事を少し後悔した。
転がっているブローチが、男のままで、嫌な話題を叫び出す。
「金は便利だ!金があるから、世界と美しい関わり方だってできる!これ本音だぜ。ナギ。」
はーあ。と漏らしながら、男のブローチは床に手をついて上半身を起こす。
声は少し落ち着いていた。
「でもよ、金がないと生きていけないって狂気だよな。俺はその狂気がたまらなく好きなんだけど。魔法だ文明だって言ってよ。種族間の生存競争から半分逃れてさ。生きる事が当たり前になるほど進化してんのに。」
少し間を置いて、ぽつりと静かに言った。
「生きる事が当たり前に感じるって、すごい事だぜ、それ。」
手についた砂を払いながら続ける。
「でもよ!実はガッツリ退化してんの!ふはは!皆で生きられるようになったのに金がないと死ぬんだぜ!〝みんないっしょ〟って言う割に〝みんないっしょ〟になるのが嫌な奴ってのが、一部に居るんだろ!つわぁはは!」
蝶が舞っている。ゴビポップだろう。
ブローチは再び床に背中をつけ、足をばたつかせ、床の砂を巻き散らし出していた。
「世の中の権力者はよ。〝退化を〟どんな感じで〝正当化〟してんだろうな!俺は大体なんでも思い通りになるけどよ!それだけは確認しないようにしてんだよ!ふっははは!想像した方がおもしれーからな!〝私は決めていない。私は悪くない。先代のせいなのだ〟か?〝世の中の流れは止められぬ〟とかって達観ぶってたらウケるよな!〝みんなのために!って言いながら搾取するのが世の中だ!〟が一番近いかもなー。〝権力構造が変わるのが怖い〟って素直になってりゃ救いはある。〝今更変えられない!社会が大混乱する!〟とかはリアルだな。法律はしれっとガンガン変えるのにな。」
言いながら徐々に落ち着いてきたのか、低い声に戻ってきた。
「まあ、人間みんながみんな、クズってわけじゃねえよ。」
思わず声が出るナギ。
「この流れでそれ言う?なんていうか…、しんどいよ。」
〝道端〟や〝狂ったリサ〟〝勇者の剣を抜いた時の自分〟が脳裏に過る。
舌打ちは我慢した。
ブローチが立ち上がりながら、サイドポニーテールの十代くらいの女に姿を変える。
一瞬ナギは目を丸くさせる。
身に着けているシャツとズボンの模様が、体内を這っていたノードの触手のようだった。
ブローチは何気ない表情で〝リサからはがせ〟そう声に出す。
リサの目がぴくついた。
音が戻ったのだろう。
「という事で。約束の〝五千万エンテ〟。入れといたよ。ミラの件、サンキュ~。」
ブローチの投げキッスが飛んできた。
本当にハートマークが飛んできていた。
後ろに飛びのき、距離を取る。
目を細めて身構える。
ブローチはそんなナギを横目で笑い、ふとリサを見て言った。
「ああ。〝愛しの隠れ蓑〟サファの件ね。」
卑しく笑いながら、そう言い捨てた。
ハートマークはふんわりと消えていった。




