第6.5話/初めての勝利/RISA.pov
足先の違和感で意識が戻る。
自宅でも宿屋の天井でもない。
暗闇の隙間から青い空が見えた事で記憶を辿り出す。
頭痛や吐き気はない。
顔だけ起こすと視界に入る少年で記憶が戻る。
あたしの左にはお尻を突き出し突っ伏したまま動かないナギがいる。
足の痛みに襲われる。
体を起こそうとすると痛みは指先に移り、
耐えられずに再び仰向けになる。
痛みの先を見て息をのむ。
爪が尋常じゃない長さだ。
指一本分以上は確実に伸びている。
暗闇が視界を塞ぐ。
隙間から見るとネイルはなくなっており、指を動かすと先に爪同士が当たる。
暗闇を手首で分ける。
仰向けで、爪を眺めたまま硬直した。
いつもと変わらない空を背景に、変わり果てた魔女のような爪がカチカチと鳴る。
足の痛みに意識が戻る。
腹筋だけを使って上体を起こすと暗闇が現れる。
暗闇をかき分ける。
やけに体が軽い。
リュックサックにあるポケットナイフを思い出したけど
爪が長すぎてリュックサックを探れないだろう。
ラグナロクが目に入り、手の甲で暗闇をかき分けながら肘を使って少し這う。
柄が握りにくい。
爪が当たり、持ち上げる動作が難しい。
鞘から出し、刀身を摘まんで指を切らぬよう、
暗闇をどかしながら慎重に、長さは適当に爪を切断する。
まだ長いがそれよりも足が痛い。
ラグナロクは異様なほど軽かった。
座ったままブーツに手を触れる。
つま先と足の甲に締め付けるような痛みが響く。
暗闇が襲う。
ゆっくりと時間をかけてずらしていく。
足から離れたのと同時にブーツから〝砂〟が落ちる。
ウールの靴下を脱ぐと、量を増して落ちた。
足の裏についた〝砂〟を払って暗闇の隙間から痛みの原因を探る。
爪も伸びていたが指ほどではなかった。
特に傷はない。
目を瞑り、思いつく限りの関節を動かす。
肩が突っ張る。
足の痛みは引いていった。
目を開けるとまた暗闇。
リュックサックを探りながらそれを切り裂こうか躊躇うが、
まずは手足の爪だ。
動きにくくて仕方がない。
取り出したナイフで雑に削る。
不快感が減り、深く呼吸を繰り返す。
やたら視界を覆う暗闇の正体と向き合わなければならない。
〝上から垂れているたくさんの長い糸〟としか思いたくなかった。
頭の重さが覚悟を催促した。
立ち上がると、髪の毛が腰のあたりまで来ているのがわかった。
そのままでは前もよく見えない。
一瞬ナギに視線を映すが、特に変化はないようだ。
「なにこれ…?」
堪らず呟いた声は低く感じた。
髪を手繰り寄せていると、先端の方に紫のエクステが見える。
たしかにあたしの髪だ。
エクステを見た途端、違和感が次々湧き上がる。
体が苦しい。
呼吸ではない、圧迫感。
動きにくい。
着ている洋服がきつい。
肩が張り腕が伸ばしにくい。
胸とおしりの辺りがきつい。
胸元のレースアップを調節すると少し楽になる。
雑に巻かれたベルトを外すがあまり変わらない。
元々腰に圧迫感はなかった。
時折遠くを見ると、視点も少し高い。
その分、ワイドパンツの裾がいつもより短くなっている。
状況を見るほどに徐々に確信に変わる。
涙が出そうになるのを堪える。
髪が長過ぎる。
ラグナロクを使って適当なところで切断し、結ぶ。
改めて体を動かすが、痛みはない。
外傷もないようだ。
ナギの姿勢を仰向けにしてやり、その横に膝を抱えて座る。
ワイドパンツがきつい。
油断すると肺に空気を送るのを忘れる。
大きく息を吸って思考をなぞる。
あたしは成長していた。
時間が進んだ?
ナギだけの時間が止まっている?
あたしが進んでいる?
世界はどうなっている?
不安で涙が零れてくる。
ただ泣くのもなんか悔しかったので
ポケットナイフで爪の長さを整えながら泣いた。
*
どれくらいの時間が経過したのか疑問に思う程には時間が経った。
不自由を感じない長さに爪が揃う。
そのちょっと前には、もう涙は止まっていた。
先端はまだ歪だ。
ナギはまだ起きない。
移動させた方がいいだろうか。
どんな症状があるかわからない。
不用意に動かしたくはなかった。
足首ほどの草むらの原っぱで見晴らしはいいが、
両側を林で挟まれているため少し怖い。
城からも離れているので何が起こるかわからない。
出来ればこの場から離れたい。
抱いた恐怖と状況の矛盾をきっかけに、沸々と怒りが湧いてきた。
膨れ上がり、乗っ取られそうになる。
発露を抑えようと下を向く。
今までのそれとは何かが違う。
視界に入る風景から世界が変わったとは思えない。
おそらく自分の見え方というか、感じ方が変わっている。
今感じている怒りは、きっと理不尽に対してだ。
これまでであれば、こんなにも膨れ上がった怒りの矛先は間違いなく、
横で気を失っている少年に向けられていただろう。
おしりを蹴飛ばして無理やり起こしているかもしれない。
今は全く違う。
〝やり場のない事がわかる〟怒り。
無理やり押し付けられたものに対する怒り。
どこに感情を向ければいいかわからない不安。
そもそも、押し付けられたわけでもない焦り。
八方ふさがりに感じる悲しみ。
今まで感じてきた怒りとは全く違う。
今までと違うという事が、なぜか腑に落ちる。
抱く感情が違和感のフィルターを通して細かく映る。
それ自体が違和感だ。
感情のベクトルに情熱と彩度が共存しているよう。
あたしが変わったわけじゃない、見え方の問題だ。
主張の激しい桃色も存在感あってカッコイイけど、淡い桃色の良さもわかるような。
うまく言えないけどそんな感じだった。
思考が広がって良くも悪くも馴染んでいく。
強い風に顔を叩かれ顔を上げる。
しばらく周囲を見る。
林の草影が不自然にざわつく。
意図があるような不規則さで風でない事がわかる。
ラグナロクに手をかけ、息をのむ。
狼が二匹、顔を出した。
おそらくこちらに気が付いているだろう。
いや、あたし達が目的かもしれない。
まだ距離はある。
ナギをちらりと見るが様子は変わらない。
視線を林に戻す。
行き場を失った感情が胸の中で黒い靄になっていく。
彼が悩んでいたこの数日間の苦しみがなんとなくわかった気がする。
ひょっとすると苦しみという言葉も違う。
受け入れられない理不尽に抗っていた。
理不尽である事を〝認めていた〟。
彼が優しいのか、臆病なのかはさておき。
ナギの場合、その抗いは世界に向かなかった。
黒い靄が充満してしまった自分に見て見ぬふりをしながら、
ラグナロクを握る手に力を入れゆっくりと立ち上がる。
「〝つよくなれ〟」
左手で鎖骨あたりを抑え、ぽつりと呟く。
右手にあるラグナロクが一気に軽くなる事に安心した。
ゆっくり近づくと、林から狼が姿を出す。
三〝体〟いる。
〝匹・頭〟といった数え方に違和感を感じるような大きさだった。
大きい〝狼型の何か〟だ。
他にもまだいるかもしれない。
あたしの後ろにナギ。
左前に現れた〝狼型の何か〟の集団がゆっくりとあたしを囲もうとしているのがわかる。
剣を両手で握り、構えながら右にかわすように位置をとる。
三体ともあたしに体を向けている。
右に逸れながらも距離が徐々に近くなる。
真っ黒だ。
木々の影かと思っていたが、どうやら違う。
元々そういう色のようだった。
狼とは顔も違う。
目は真っ白、瞳孔がない。
牙は肥大し、もさっとした毛のようなものが顔周りに特にたくさんあり、
ゆらゆら揺れている。
よく見る獣の体毛とは全く違う。
ゆるやかな〝揺れ方〟が見て取れる。
高さはあたしの腰くらいだろうか。
もう少し大きいかもしれない。
一体、胸の高さに迫る個体がいる。
右に逸れる事ができた。
左方向に離れたナギ。
正面に〝狼型の何か〟の集団。
一斉に飛び掛かられると対応できない距離に迫っていた。
あたしは更に右方向にじわりと移動する。
とりあえずナギから離したかった。
持ってないみたいにラグナロクが軽い。
素足に伝わる草の感触が気を失う前の現実との変化を実感させてくる。
一体が左に回り込む。
ナギとあたしの間に入った。
ナギの方向に走り出されると追いつけない。
〝狼型の何か〟は強風の日の雲の動きのような、じんわりとした動きになっていた。
飛び掛かる機を窺っているようなスピードだ。
引き離すのはこのあたりが潮時かもしれない。
「〝こおれ〟!」
左に回り込んだ個体に視線を移し左手をかざす。
結晶ができる。
手をかざしてからのスピードがさっきよりもはやい。
結晶のサイズも大きい。
後ろ足と胴体が凍り、ばたついているのが見えた。
正面と右前の個体に集中する。
右前に最大サイズ。
二体がじわりと距離を詰めてくる。
いつ飛び掛かってきてもおかしくない。
全身に力が入る。
胸の奥がべっとりとしたものに黒く満たされるようだ。
頭に血が上り、目が熱をもつ。
頭皮がぴりぴりする。
苦しくないのに呼吸が荒い。
怖くないのに涙が数滴零れる。
腹の底が燃えているように熱い。
何も考えずに飛び掛かりたい。
後先考えず、滅多打ちにしてやりたい。
鼓動のはやさに支配されたかのように叫びだしそう。
あたしのどす黒い感情に気づいたかのように、
正面にいる個体が機敏に動き出す。
こちらに来る。
そのまま正面から剣を刺してやろうとつま先に力を入れた時だった。
背中から布の破れる音がした途端、視界の両端が溶ける。
思考の入る余地なく〝狼型の何か〟との距離が想定より近くなる。
手を伸ばせばラグナロクの剣先が届きそうな距離。
何コマか現実をすっ飛ばしたかのようだった。
モンスターの動きがはやい。
口を開きながら飛びついてきたのが見える。
止まれない。
勢いがつき過ぎた。
方向転換を試み足の指に力を入れた一呼吸。
上半身にふわっとした感覚が広がる。
目の前が突然、空になる。
背中に走る衝撃と摩擦。
自分が黒い感情に支配されるかのように
あたしの上を通過するモンスターで視界の青色は黒で覆われていく。
自分が滑ったと理解するよりも先に体を捻る。
滑る勢いのまま、俯せを経由し低い姿勢で前を向く。
ラグナロクが擦れて眼前に草が舞う。
頭がいつもより重い。
髪が邪魔。
背中への衝撃で胸の中のどろつきは消えた。
姿勢の復帰と同時に片足で大地を蹴る。
交錯したモンスターの手前に力強く踏み込む。
想定以上の距離の縮まり方。
あたしの蹴り出しの力が強すぎるんだ。
こちらへ振り向き終わる〝狼型の何か〟の首にラグナロクを突き立てる。
左から唸り声が一瞬聞こえる。
体重を乗せたからだろうか。
ゆらゆら揺れる毛のようなものは特段硬くない。
感触に集中する間もなく深く刺さったラグナロクを切り上げる。
左を向くと最大サイズの個体が迫っている。
両手で構えているラグナロクに重さを感じた。
〝つよくなれ〟が切れた。
左側にかわすように半身になりながら右手で剣を突き立てる。
飛び掛かってきたそれの自重で剣が食い込む。
軽く目を瞑ってしまったが手首への負荷でそれを認識した。
〝狼型のそれ〟とすれ違う。
目を開くと至近距離に映る揺れる毛は〝狼〟とは似ても似つかず、異様だった。
重さに耐えられずラグナロクを弾かれるように放す。
剣が胸のあたりに刺さっているが浅い。
唸っていたが虚勢にも見えた。
〝こおれ〟と発すると顔全体に結晶が出来、
最大サイズの個体は頭を振り足をばたつかせていた。
剣を失った事に焦り素早く首を振ると、
最初に凍らせた個体は距離をとっているだけで向かってくる様子はない。
凍結が解けていたので
少し近づいて再度〝こおれ〟をかけると両前足が結晶に包まれた。
半身で避けた時どこか掠っていたのだろう。
右腕が痛んだ。
首を切り上げた個体は動いていない。
事切れたのだろう。
最大サイズに近づきながら〝つよくなれ〟をかけ、
規則性のない跳ね方をしているそれを一度蹴る。
少し大人しくなったタイミングを見計らって胸の剣を抜き、
そのまま振りかぶって首をはねた。
魔法の効果か体の成長か、はたまたラグナロクの切れ味だろうか。
すべてかもしれない。
振り下ろした時に硬度をあまり感じない。
胴体の〝揺れ動く毛〟がおとなしくなった。
周囲に別の個体はいないようで安堵すると
得体のしれない感情が再び湧いてくる。
両前足を凍らせた〝狼とは似ても似つかないモンスター〟に近づく。
藻掻きながら唸っている様子を冷ややかな目つきで見下ろす。
胸がどろつきで詰まる。
血が熱い。
大きく呼吸をしてもどろつきは取れない。
血液が黒くなったようだ。
歯を食いしばる。
足が沈んでいく感覚がする。
知らない感情が湧き上がる。
目の前の魔物を魔物として認識できなくなっていく。
その〝塊〟に対する攻撃性だけが残り、
どこかを力んでないと気が済まない。
どこに、どうやって、どれくらい刃を入れてやろうか。
どうせならその後、〝こおれ〟が解けるのを待ってやろうか。
そう考えた瞬間、遠くで気を失っているナギにピントが合う。
今日一番の深い呼吸をし、目を瞑る。
頭が冷え、腕が痛み出す。
滴る血で血液が巡っている事を思い出す。
一太刀でモンスターを終わらせて
剣を引きずりながら茫然と、少年の元へ歩いていく。
元居た場所に戻りラグナロクをその辺に投げ置く。
現実が襲ってきた。
何も考えたくない。
魔法の使い過ぎか魔物と相対したストレスか、吐き気がする。
リュックサックから衣類を出し、ポケットナイフで切断する。
右腕の怪我に巻こうと慣れない手つきで悪戦苦闘していると〝つよくなれ〟が切れた。
気怠さを感じるのと同時に、
丈の短くなったワイドパンツについた返り血が視界に映る。
家族の中で過ごしていた情景が浮かんできた。
布を巻く手を止めてナギの横に座り、
あたしはしばらく声を出して泣いた。




