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王国最強騎士の殺気についての正式抗議

 アルセリア王国騎士団団長室。団長は、その手紙を三度読み返した。そして四度目で、机に額を打ちつけた。


「……は?」


 手紙の差出人は、グリューンヴァルト侯爵家。内容は簡潔だった。


先日、我が嫡男レオニスが騎士団副団長リオン・ヴァルハート殿より、不当な威圧・精神的圧迫を受け、いまだ夜間に震えが止まらぬ状態である。正式な説明と謝罪を求める。


 団長は天井を仰いだ。


「不当……?」


 副官が恐るおそる訊ねる。


「その、原因は……」

「分かっている」


 深いため息を吐き、それにのせるように呟く。


「ショコラトリエだ」

「ああ……」


 副官も遠い目になる。団長は、気だるげに椅子に背を預けた。


「状況報告は受けている。副団長は剣を抜いていない」

「はい」

「当然、暴力もない」

「はい」

「殺気のみだ」

「……はい」


 それ以上、団長は言葉を続けることができなかった。副官も沈黙を貫く。そして――。


「なぁ殺気のみ、とは何だと思う?」


 副官は答えない。答えられない。団長は手紙を机に叩きつけた。


「“精神的圧迫”だと?」


 団長は眼鏡を押し上げながら、低く唸る。


「リオンの伴侶に抱きついて唇を奪おうとした挙句、当人が威圧されたと訴えるとは、どの口が言う!」


 副官がぽつりと漏らす。


「事実関係は、どう返答されますか」

「事実のみを書く」


 団長は、さらさらと筆を走らせた。


『当該事案において副団長は剣の使用、魔力行使、物理的接触を一切行っていない。発生したのは“視線および気配による威圧”のみである。なお、発端は貴家嫡男による、既婚者への不適切な接触未遂である』


 ほかに伝えたいことも書き終え、筆が止まる。団長はゆっくり顔を上げた。


「これを送ればどうなる」

「……侯爵家の面子が潰れます」

「だろうな」


 団長は目を閉じた。


「しかし謝罪はしない。副団長は何もしていないんだから」

「……何も?」

「何もだ」


 言い切るが、団長の声に疲労が滲む。副官が言いにくそうに小声で聞く。


「副団長に注意は……」

「した」

「なんと?」


 団長は遠い目をした。


「“市街地では規模を抑えろ”と」

「副団長の返答は?」

「“承知しました。今回は抑えています”だってさ」


 副官、沈黙。


「……抑えて?」

「抑えてだ」


 団長は再び天井を見上げた。


「私は、何と戦っているのだ」


 副官は少しだけ笑いをこらえる。


「団長は本当に……とばっちりですね」

「違う」


 団長は静かに言った。


「私は緩衝材だ」

「……は?」

「副団長と世界の間に挟まる、唯一の存在だ」


 副官は笑いをこらえながら絶句した。


「侯爵家には事実のみを返答する。もちろん謝罪はしない」

「承知しました」

「それと」


 団長は振り返らずに言った。


「副団長には絶対伝えるな」

「え?」

「知れば、次は“視線”では済まなくなる」


 団長の告げた起こりうる未来を考えた瞬間、副官の顔色が蒼白になる。


「……せめて家庭円満でいてくれ」


 それが、王国の安寧なのだから。



***

 最初に届いたのは、王城からの正式な書状だった。


 差出人――騎士団長。文面は丁寧で礼節も完璧。だが、行間がやけに重い。


『当該事案につき事実確認のため、貴家嫡男レオニス殿より直接事情を伺われることを強く推奨いたします』


 侯爵は、嫌な予感を覚えた。「推奨」という言葉を使う時、騎士団長はたいてい「既に結論は出ている」


 ――呼べ。


 執事に命じ、息子を執務室に呼ばせた。


 しばらくして現れたレオニスは、目の下に濃い影を作っていた。夜会を欠席している理由が、一目で分かる。


「……座れ」


 低く告げる。


「王城から、こういう手紙が来ている」


 書状を机に置くと、息子の肩がびくりと跳ねた。侯爵は、ゆっくり問いかける。


「お前は――本当に“何もしていない”のか?」


 一瞬の逡巡。それだけで、答えはほぼ出ていた。


「……父上」


 レオニスは、絞り出すように口を開いた。


「私は……」


 視線が床に落ちる。


「彼が……既婚者だと知っていました」


 侯爵の指が、机の縁を掴む。


「誰の伴侶だ」


「……副団長、リオン・ヴァルハート卿の」


 室内の空気が凍る。


「……続けろ」

「奪えると思いました。いつもみたいに」


 はっきりとした言葉だった。


「他人のものほど、欲しくなる……これは私の癖です」


 侯爵のこめかみが、微かに痛んだ。


「それで?」

「彼を抱き寄せて……唇に近づいた瞬間」


 喉が鳴る。


「“来ました”」

「……何が」

「騎士です」


 その言い方が、すべてを物語っていた。


「剣は抜いていません。声も、荒げていません。ただ……見て、いました」


 レオニスは、震える手を握りしめる。


「……父上。あれは“警告”ですらなかった」


 侯爵は、静かに問い返す。


「では、何だ」

「“確認”です」


 息子は、顔を上げないまま言った。


「私が、次に何をしようとしたかを」


 長い沈黙。侯爵は、深く息を吐いた。


 ――なるほど。騎士団長が謝罪を拒否した理由が、完全に理解できた。


「……お前は、生きているだけで幸運だ」


 ぽつりと呟く。


「謝罪を要求するなど、愚かだった」


 レオニスが、かすれた声で言う。


「もう……奪う気はありません」

「当然だ。奪えると思うな。二度と」


 侯爵は立ち上がり、王城宛の返書を書き始めた。


先日の抗議につき当家の非を認め、深く反省しております。騎士団副団長殿には今後一切、接触しないことを誓約いたします。


 署名を終え、封を閉じる。


 そして、息子に向き直った。


「よく覚えておけ。世界には、“奪ってはならないもの”がある」


 レオニスは、深く頭を下げた。その姿を見ながら、侯爵は思う。


(……王国は、あの騎士が敵でなくて、本当によかった)



***

 騎士団長は、久しぶりに深く息を吐いた。机の上に置かれた一通の返書。グリューンヴァルト侯爵家からの正式なものだ。


当家の非を認め、今後一切、副団長殿およびその伴侶に接触しないことを誓約する。


「……やっと、話が通じた」


 心からの呟きだった。副官もほっとした顔で、団長を見つめる。


「これで、あの件は終わりですね」

「ああ。余計な波風は立たない。めでたしめでたし」


 団長は椅子に深く腰掛けた。


「副団長には、知らせずに済んだ。あれは知らなくていい」


 その瞬間、ノックもなく扉が開いた。


「失礼します」


 低く、落ち着いた声。団長の背筋が、条件反射で伸びる。


「……副団長?」


 そこに立っていたのは、リオン・ヴァルハート。完全武装ではないが、纏う気配はいつも通り――いや、いつも以上に静かで重い。


「何か、問題がありましたか」


 問いは穏やか。だが、団長は悟った。


(コイツ……何か、察している)


「いや、特に――」


 言いかけたところで、リオンの視線が机の書状に落ちた。一瞬。ほんの一瞬だが、見逃されなかった。


「……苦情文書ですか」


 団長の胃が、きり、と音を立てた。


「副団長、それは――」

「内容は、把握できます」


 すぐさま歩み寄り、机の横に立つ。


「グリューンヴァルト侯爵家。文面の構成から見て、精神的被害を主張している」


 副官、青ざめる。


「真琴の店で放った……私の殺気についてでしょうか」


 静かな副団長の声に、団長は観念した。


「……ああ。伴侶への不適切な接触未遂が原因だ」


 言った、言ってしまった。部屋の空気が、完全に止まる。副団長は、瞬きひとつしない。


「……なるほど」


 それだけ。それだけなのに、団長は立ち上がった。


「副団長、落ち着け」

「落ち着いています。剣も抜いていません」

「抜くな」

「魔力も使っていません」

「使うな!」


 団長は机を叩いた。


「ここは団長室だ!」


 副団長は首を傾げる。


「では、問題は何ですか?」


 団長の胃が、限界を迎えた。


「問題は、お前が“何もしていない”と言い切れることだ!」


 副官が、そっと一歩下がる。副団長は、静かに言った。


「……伴侶は、無事だった」

「そうだ」

「謝罪を求められる筋合いはない」

「その通りだ!」


 団長は叫びかけて、頭を抱えた。


「だからこそ……だからこそ、これ以上話を広げるな!」


 副団長は少し考え、静かに頷いた。


「承知しました」


 団長、安堵しかける――が。


「ただし」


 低い声が室内に響く。


「次があれば、視線では済みません」


 団長の胃、完全死亡。副官が小声で呟く。


「……次がないよう、全力で守ります」


 副団長はそれを聞いて、初めて少しだけ表情を和らげた。


「それでいい」


 踵を返し、去り際に一言。


「……団長」

「何だ」

「ご配慮に感謝します」


 それだけ言って、扉が閉まる。団長は、椅子に崩れ落ちた。


「……私は、何を守っているんだ」


 副官は、答えなかった。答えられる者など、ここにはいなかった。

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