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もう、奪えなくなった男の話

 他人のものを奪う瞬間が、好きだった。地位、名声、恋人。大切にされているからこそ、そこに手を伸ばす価値がある。奪った相手の恋人や伴侶の自信が崩れる、その一瞬の表情を見るのが……何より甘美だった。


 だから、あの店に通い始めたのも、最初はただの気まぐれだった。


 小さなショコラトリー。店主は穏やかで少し警戒心が薄くて、それでいて芯がある。既婚者だと知った瞬間、胸の奥がくすぐったくなった。


(――ああ、これは奪える)


 何度も通った。他愛のない会話を重ね、彼との距離を縮めて、笑顔を引き出す。


 彼は疑わなかった。まさか“王国最強の騎士”の伴侶に、こんな真似をする愚か者がいるとは。


 そしてあの日。強く抱き寄せて、唇に触れようとしたその瞬間――空気が死んだ。


 扉が開く音。足音は静かだったはずなのに、全身が一気に硬直した。


 ――来た。


 視線を向けた瞬間、理解してしまった。あれは人じゃない、理性を纏った災厄だ。


 金髪の騎士が、そこに立っていた。抱き合う俺たちを見て声も荒げず、剣も抜かない。ただ、蒼い瞳で見るだけ。


 なのに、心臓が潰れるかと思った。骨の奥まで冷え切り、膝が笑い、呼吸ができなくなる。


(……奪う? 俺が? ――彼を?)


 無理だと理解するより先に、本能が逃げろと叫んでいた。私は情けなく踵を返し、貴族としてあるまじき速さで逃げ帰った。


 それからだ。


 誰かの恋を壊そうとすると、あの視線が脳裏に浮かぶ。静かで冷たくて「次はない」と告げる蒼い目。


 ――奪う喜びは、恐怖に変わった。


 今では、夜会で誰かが噂話をしていると思う。


(……知らない方がいい)

(王国最強の騎士の“本気”を、あれ以上――)


 あの店の灯りを見るたびに、胸が少しだけ痛む。もう近づくことはない。奪う資格など、最初からなかったのだ。


 ……ああ、本当に。人のものを奪う趣味は、あの日で終わった。

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