第七十一話
すっかり見慣れた、重厚なヘンリーの執務室。2人きりで独占するにはいささか広すぎるこの部屋で、私は1人の男と相対していた。
正面にいる男は真っ直ぐにあたしのことを見つめている。
「話とは、なんだ」
「この前ノア様と話をした。その時の報告だ」
「殿下との婚約を破棄したと聞いた。一体、どういうことなんだ?」
どこか不安と期待が入り混じったその声色に、あたしはふっと口角を緩める。
「他に、一緒に歩みてえやつができたんだよ。ノア様以上にな」
ヘンリーはこちらを見たまま黙り込む。こちらに向けられた視線に、話の続きを急かされているような気がした。
「あたしは、自分の強さを認めてくれる人間が欲しかった。あたしを支えてくれる、そんなノア様の優しさに目を奪われた。あたしを理解してくれるのはノア様だけだと、ずっとそう思ってたんだ」
あたしとヘンリーの視線が交差する。その瞬間、やつのアメジストの瞳が小さく揺れた。
「だがそれは、あたしの勝手な思い込みだった。自由に生きるって言ってたのに……自分自身に縛られてたのは、他でもねぇあたし自身だったんだ」
あたしは椅子から立ち上がり、テーブルの向こうにいるヘンリーへと歩み寄る。そして腰掛けたヘンリーの手を取ると――そっと、その体を抱き寄せた。
「あたしを一番見てくれたのは……あたし自身を認めてくれたのは、先生だった。なぁ、先生――いや、ヘンリー」
「っ……!」
息を呑むヘンリー。その頬が、急速に熱を帯び赤く熟れていく。その表情が、あたしの鼓動を早まらせた。
「あたしはヘンリーを選びたい。あたしを見てくれたお前だけを、これからもずっと見つめていてぇんだ」
「俺で……いいのか……?」
かすかに漏れた声。その姿は、食べてしまいたくなるほど可愛らしくて。
「お前以外いらねぇよ。……あたしはもう、揺れねぇ。あたしが選ぶのはお前だけだ」
あたしの声にヘンリーはびくりと大きな体躯を揺らす。赤く染まった頬とかすかにひそめられた眉が、その心のうちを語っているようだった。
「お前はどうしたいんだ? なぁ、ヘンリー」
耳元で甘くそう囁く。それに合わせてヘンリーの体が跳ね――次の瞬間、あたしの体が強い圧に包まれた。
腰に回された力強い腕。口元を覆う肩の温かさ。ふわりと鼻腔をくすぐる安心感のある香りに、あたしはふっと目を細める。
「そんな事を言われたら、俺は……俺は、お前を、諦められなくなる。本当に、それでいいのか……?」
揺れるヘンリーの声。欲を抑えつけるようなどこか色気を孕んだそれに、あたしはふっと口元を緩ませた。
「当たり前だろ。あたしの心を奪ったんだ。覚悟はできてんだろな?」
ヘンリーの腰に回した腕に力を入れ、噛み付くように言葉を紡ぐ。
「愛してる。……逃がさねぇよ、ヘンリー」
「っ……! 俺もお前を愛している。他の誰にも渡さない。お前だけがいてくれれば……俺は、それでいい……」
ヘンリーの腕が強く締まる。その圧すらも甘く、心地よく感じられて。
この瞳も、指先も、髪の毛の一本だって……ヘンリーにならやってもいい。そして――それと同じぐらい、ヘンリーの全てが欲しかった。
ヘンリーの顎を掴み、ぐっとその手に力を入れる。触れ合うまつ毛と、揺れる瞳。アメジストのような美しいそれに、自然とごくりと喉がなる。
「ヘンリー……」
出てきたのは自分でも驚くほどに甘い声だった。
ヘンリーは一瞬目を開いてから――覚悟を決めたように、そっと目を伏せる。その顔はまるで、眠りから覚める前の白雪姫のようだった。
触れる吐息と、重なる仄かな熱。それが何よりも明確にヘンリーの心を表している気がして、胸の奥が熱くなる。
あたしは半年で運命を切り開き、あたしだけの王子様を手に入れた。
最初の願いとは全く違う形だった。でも今のあたしは、どの時よりも、誰よりも……甘美な幸福で満たされていた。




