第六十七話 ージュリアンナ視点ー
どんよりした分厚い雲、どこまでも暗い空。今にも雨が降り出しそうなその空模様は、まるで私の心を表しているようだった。
冷たい二月の風が私の体を撫でるたび、体温も、希望も、何もかも奪われていくような気がした。
今日のノア様はエイダさんを見ていた。まるで太陽に焦がれるひまわりのように、あの人だけをただ見つめていた。……まるで、私など存在しないかのように。
その事実が、ぎゅっと私の胸を締め付ける。縛られた心の奥底から、ぽたりぽたりと、瞳を通って雫が落ちた。
「今日は生憎の雨ですね。……その憂いを晴らす手伝いを、私にさせていただけませんか?」
そっと目の前に差し出されたシンプルな白いハンカチ。ぱっと顔を上げた先に見えたのは、美しい黒髪を揺らし、優しく微笑む男性だった。
「っ……! 何故、ここにいらっしゃるのですか……?」
「たまには図書館以外で読書も良いかと思いまして。腰を落ち着けるところを探していたら、貴女の姿が見えたものですから」
名も知らぬ彼はいつも通りの柔和な笑みを浮かべたまま、こてりと首を傾げる。優雅な雰囲気に似合わないその可愛らしい仕草が、何故かとても似合っていた。
「……ありがとうございます」
私は差し出されたハンカチを受け取り、濡れた頬をぬぐう。柔らかな布を肌に押し当てるたび、ローズの香りがふわりと鼻腔をくすぐった。
「申し訳ありません、このような見苦しい姿をお見せしてしまって……」
「見苦しい? この宝石のような雫をそう言い表すなんて、さぞ目の肥えた方なのでしょうね」
華奢なのに硬さを感じる彼の指が、私の目のふちにたまった雫をそっとすくう。手首についたブレスレットがしゃらりと動きに合わせて揺れた。
「私以外が見ることができない様に、その雫を止めてしまいたい。……どうか、お許しいただけますか?」
美しい赤色の瞳が私を覗き込む。その深い色に吸い込まれていく様に、いつの間にか私は、心のうちをさらけ出していた。
「ふむ……婚約者に別の女性の影がある、と」
「はい……私はあの方の妻として生きる様に育てられてきました。もしその役割を果たせなかったとしたらと、そう考えたら……私……怖くて……」
揺れる指先を祈る様に胸の前で組む。それでも震えは治らなかった。
私の手を、温かで大きな手が包み込んだ。力強い手の感触に、どきりと鼓動が跳ねた気がした。
「その恐怖も、悲しみも……その細い肩で背負うには、あまりにも重すぎる」
彼は手首からブレスレットを外し、私へそれを手渡した。揺れるシルバーの鎖とその先についた紫色の宝石。その美しさに私の視線は釘付けになる。
「貴女の秘密を聞いた分、私も一つとある秘密を話しましょう。私も昔、どうしても叶えたい願いがありました。そのために――とある禁術に、手を出したのです」
「禁術……?」
「えぇ。代償のかわりに、必ず願いを叶えてくれる……古代の魔法です」
"古代の魔法"
びくりと私は体を揺らす。許可のない魔法の使用はこの国では禁止されている、はずだ。なのに……それに、手を染めたなんて。
「そんな話……私にして、よろしいのですか……?」
「えぇ。……貴女のことを信じておりますから」
その言葉に私は息をのんだ。こんなに真っ直ぐに信じていると、そう言われたのはいつぶりだろうか。
彼はジャケットの懐に手を入れて、薄い茶色の封筒を取り出す。赤い蜜蝋で封がされたそれを、彼はそっと私に手渡した。
「ここに術の使い方が書いてあります。使うかどうかは、貴女次第ですが」
どくりと、心臓が強く跳ねる。
願いを叶える術。
どこまでも甘美なその響きに、ごくりと喉が鳴った。
「し、しかし……何故、名も知らぬ私に、そこまでしてくださるのですか……?」
すぐさま飛びついてしまいたい気持ちを抑え、私は正面に立つ彼を見る。いつもと変わらぬ穏やかな笑み。その奥を測り知ることなど、私にはできないと言うのに。
「……私は貴女に願いを叶えていただきたい。それが私の望みです」
彼は肩をすくめ、わずかに低い声でそう言った。どこか遠くを見ているような寂しそうな瞳が、妙に印象的で。
熱を覚ますように強く風が吹く。
彼の耳で、白いピアスが一際大きく揺れる。
その揺れは、まるで私の胸の内のようだった。




