2 森の主
自由都市連合を目指すと決めたものの、道のりは長い。
レインは森の中を三日間歩き続けた。太陽の位置を頼りに、西へ西へと進む。地図はない。食料も、干し肉の残りわずかしかない。水は小川を見つけるたびに補給したが、食料はそうもいかない。
(腹が減ったな……)
木の幹に手を当て、荒い息をつく。左腕の傷はまだ痛む。完全には治っていないが、化膿はしていない。熱も下がった。システムのHP回復のおかげだろうか。それとも、ただ運が良かっただけか。
三日目の午後、レインは森の様子が変わってきたことに気づいた。木々が太くなり、空を覆う枝葉が厚くなっている。足元の下草も、背丈ほどにまで伸びている。陽の光がほとんど届かず、薄暗い。鳥のさえずりも聞こえない。
(……何かがいる)
レインは短剣を握り直した。ここ数日、ゴブリンや小型の魔物を何度か倒したが、この雰囲気は違う。何か、もっと大きなものがいる。空気が、張り詰めている。
《警告:近くに強力な魔物の気配を感知しました》
システムの通知が、頭の中に響く。レインは足を止めた。強力な魔物——どのくらいの強さだ?
《推定脅威度:Cランク》
(Cランク……)
システムを手に入れてから、レインは魔物の脅威度を学んだ。ゴブリンはEランク。Dランクが小型の獣型魔物や下級の魔物。Cランクともなれば、熟練の傭兵でも単独では危険な相手だ。
(回避するか……?)
だが、その時だった。前方の茂みが、ざわめいた。低い唸り声が聞こえる。地面が、微かに震える。レインは短剣を構え、身を低くした。
茂みを割って現れたのは——オークだった。
身長は二メートルを超える。筋肉質な体に、醜い豚のような顔。手には棍棒——いや、木の幹をそのまま折ったような棍棒。その目は、レインを捉えていた。オークは口元を歪め、唾液を垂らしている。
(……まずい)
レインは後ずさった。オークはCランク。今の自分では、勝てるかどうか分からない。レベル1、STR13、VIT7。ステータスは低い。装備も、錆びた短剣一本だ。
(逃げるか?)
だが、逃げられるだろうか。オークは動きが遅いが、その分一撃が重い。逃げようとして背を向ければ、一瞬で追いつかれる。
《クエストを提示します》
《クエスト:オークを討伐せよ》
《報酬:殺戮ポイント200 KP、スキル『剛力Lv1』》
《期限:なし》
《拒否:可能》
(200 KP……!)
レインの目が、わずかに見開かれた。今まで倒したゴブリンは、一体5 KP。オーク一体で、ゴブリン40体分のKPが手に入る。しかも、スキルまで。
(でも、勝てるのか……?)
オークが唸り声を上げ、棍棒を振り上げた。レインは横に跳んだ。棍棒が地面を叩き、土煙が舞う。地面が、クレーターのように凹む。
(……あれを食らったら、死ぬな)
レインは悟った。だが、逃げる選択肢もない。オークはレインの動きを目で追っている。次は、確実に当てに来る。
(やるしかない……!)
レインは短剣を握り直し、オークに向かって走り出した。オークが棍棒を振り下ろす。レインはそれを横に転がって回避し、オークの左脚に短剣を突き刺した。
「グオオオオ!」
オークが咆哮する。だが、致命傷ではない。レインはすぐさま距離を取る。オークの蹴りが、レインの直前を通過した。風圧だけで、体が吹き飛びそうになる。
(硬い……! まるで皮が鎧みたいだ)
短剣の刃先は、オークの分厚い皮膚に浅くしか刺さらなかった。もっと深く、急所を狙わないと。
オークが再び棍棒を振るう。レインは後ろに跳ぶが、完全には避けきれない。棍棒の先端が、レインの右肩をかすめる。
「ぐあっ……!」
激痛が走る。肩が外れたかもしれない。レインは歯を食いしばり、体勢を立て直す。オークは止まらない。棍棒を振り回し、レインを追い詰めていく。
(……このままじゃ、ジリ貧だ)
レインは周囲を見回した。木々、茂み、岩——何か使えるものはないか。目に入ったのは、太い蔓だった。木から垂れ下がる、腕ほどの太さの蔓。
(あれを……)
レインは走った。オークが追ってくる。レインは蔓の下をくぐり抜け、振り返らずに走り続ける。オークが蔓の下に差し掛かった瞬間、レインは短剣を蔓に投げつけた。
短剣が蔓を切断する。太い蔓が、オークの体に絡みつく。オークがバランスを崩し、棍棒を取り落とす。
(今だ!)
レインはオークに飛びかかり、落ちた棍棒を拾い上げた。重い。両手でなければ持ち上がらない。だが、振り下ろすだけなら——
「おおおおおっ!」
棍棒が、オークの頭部に叩きつけられる。鈍い音。オークの体が、ぐらりと傾く。レインはもう一撃、振り下ろす。
《魔物を討伐しました。殺戮ポイントを獲得しました:200 KP》
《スキル『剛力Lv1』を獲得しました》
オークの体が、地面に倒れる。レインもその場に膝をついた。肩が激痛を訴えている。息が荒い。全身が汗と血にまみれている。
(……勝った)
システムの通知が、視界に浮かぶ。
```
【ステータス】
名前:レイン・クロウ
レベル:1
HP:5/30
MP:10/10
STR:13
VIT:7
AGI:9
INT:10
DEX:8
LUK:5
──────────
殺戮ポイント:215 KP
スキル:ゴブリン語Lv1、剛力Lv1
```
HPが5しかない。あと一撃でも食らっていたら、死んでいただろう。レインは荒い息をつきながら、システムに意識を向ける。
(……剛力Lv1って、何だ?)
《スキル『剛力Lv1』:筋力を一時的に強化します。持続時間:30秒。使用間隔:5分》
(なるほど……)
レインは立ち上がった。肩の痛みはあるが、骨は折れていないようだ。オークの死体から、使えそうなものを漁る。少しの硬貨、粗末な革袋、そして——小さな魔石。魔石は、魔物の体内にできる結晶で、換金できる。自由都市連合なら、いくらかになるはずだ。
(これは、助かる)
レインは魔石を革袋にしまい、オークの棍棒も拾った。重いが、短剣よりはマシだ。だが——
《クエストを提示します》
《クエスト:オークを50体討伐せよ》
《報酬:スキル『剛力Lv2』》
《期限:なし》
《拒否:可能》
(またか……)
レインは苦笑した。ゴブリン10000体、オーク50体。先は長い。
(まあ、一つずつだ)
レインは棍棒を担ぎ、再び歩き出した。森の奥へ——自由都市連合を目指して。
---
その夜、レインは木の根元で野宿した。
焚き火を起こし、オークの肉を焼く。まずい。硬い。だが、腹は満たされた。久しぶりのまともな食事だ。
(……セレスティアは、どうしているだろう)
焚き火の炎を見つめながら、レインは彼女のことを考えた。銀色の髪、青い瞳。剣を握る姿。笑った時の、少しだけ垂れる目尻。すべてが、鮮明に思い出される。
(無事でいてくれ)
レインは目を閉じた。明日も、歩き続けなければ。強くならなければ。セレスティアを救うために。そして——
(……何のために?)
ふと、そんな考えが浮かんだ。強くなって、どうするのか。復讐か。それとも、ただ生き延びるためか。
(分からない)
だが、今は歩くしかない。立ち止まる理由はない。
レインは焚き火の火を消し、眠りについた。
---
翌朝、レインは森を抜けた。
目の前に広がるのは、なだらかな丘と、その向こうに続く平原。遠くに、大きな城壁が見える。自由都市連合の最初の都市——リベルタスだ。
(……着いた)
レインは安堵の息をついた。三日間の森の旅。何度も死にかけた。だが、生き延びた。
リベルタスは、自由都市連合の中でも最大の都市の一つ。傭兵や商人、冒険者たちが集まる場所だ。ここなら、情報も手に入る。装備も整えられる。そして——
(セレスティアの情報も)
レインは歩き出した。城門に向かって。門の前には、衛兵が立っている。だが、グランディア王国の兵ではない。自由都市連合の衛兵だ。ならば、入れるはず。
「止まれ。身分証は?」
衛兵が問う。レインは首を振った。
「……ない。流れ者だ」
衛兵はレインのぼろぼろの姿を見て、眉をひそめた。だが、すぐにため息をつく。
「入市税、銀貨五枚だ」
レインはオークから奪った硬貨を渡した。衛兵はそれを確認し、門を開ける。
「リベルタスへようこそ。……長くは居ないだろうがな」
その言葉の意味を、レインはすぐに理解することになる。
---
リベルタスの街は、活気に満ちていた。
石畳の大通りに、露店が並ぶ。武器屋、防具屋、薬屋、酒場——ありとあらゆる店が軒を連ねている。人種も様々だ。人間、エルフ、獣人、ドワーフ。ここでは、種族の違いなど問題にならない。実力だけが、ものを言う。
(すごい……)
レインはしばらく、街の喧騒に圧倒されていた。グランディアの城下町とは、まるで違う。自由と混沌。その両方が、この街にはあった。
だが、問題があった。金がない。オークの魔石を換金すれば、いくらかにはなるが、宿に泊まればすぐに消える。装備を整える金もない。
(どうする……)
レインは考えた。冒険者ギルドに行けば、仕事があるかもしれない。魔物討伐の依頼や、護衛、探索——腕に自信がなくても、できる仕事はあるはずだ。
冒険者ギルドは、大通りの突き当たりにあった。大きな建物で、入り口には剣と盾の紋章が掲げられている。中に入ると、様々な冒険者がいた。酒を飲む者、依頼書を眺める者、パーティを組む相談をする者。
レインは受付に向かった。受付嬢は、エルフの女性だった。長い金髪に、碧い瞳。にこやかな笑顔で、レインを迎える。
「いらっしゃいませ。冒険者登録ですか?」
「……ああ」
「では、こちらに記入を」
受付嬢は、羊皮紙と羽根ペンを差し出した。レインは名前と、簡単な経歴を書いた。元騎士見習い——とは書かなかった。グランディアの追手に、見つかるかもしれない。
「レインさん、ですね。冒険者ランクは、Gから始まります。依頼を達成すると、ランクが上がります」
「分かった」
「では、こちらがあなたの冒険者証です」
受付嬢は、小さな鉄のプレートを渡した。名前とランクが刻まれている。
「Gランクの依頼は、こちらです」
受付嬢が指差したのは、掲示板の一番下のエリアだった。依頼書が何枚か貼られている。そのほとんどが、雑用のようなものだった。薬草の採集、迷子の捜索、家畜の世話——だが、中には魔物討伐の依頼もある。
《依頼:森のゴブリン討伐》
《報酬:銀貨十枚》
《討伐数:十体》
(ゴブリン十体で、銀貨十枚か……)
悪くない。宿に一泊するには、銀貨五枚必要だ。食事も含めれば、もう少し。この依頼を二回こなせば、数日は暮らせる。
レインは依頼書を取った。受付嬢に渡すと、彼女は微笑んだ。
「頑張ってくださいね、レインさん」
「……ああ」
レインはギルドを出た。外は、まだ明るい。日が沈むまで、あと数時間。今日中に依頼をこなせるかもしれない。
(まずは、装備だ)
レインは武器屋に向かった。オークの魔石を売り、いくらか金を作る。そして、まともな剣を買いたい。今の錆びた短剣では、いつ命を落とすか分からない。
武器屋の店主は、ドワーフの老人だった。分厚い beard を蓄え、鋭い目でレインを見る。
「兄ちゃん、何が欲しい?」
「……剣だ。予算は、これだけ」
レインは魔石を売って得た金を差し出した。銀貨二十五枚。店主は金を見て、唸る。
「これじゃあ、新品は無理だな。中古で良ければ、あるにはある」
店主が差し出したのは、少し錆びた長剣だった。だが、レインの短剣よりは、はるかにマシだ。
「……これを、くれ」
「まいど。大事に使えよ」
レインは長剣を受け取り、鞘に納めた。重さが、心地よい。これで、少しは戦える。
(よし……)
レインは森へ向かった。ゴブリン討伐の依頼をこなすために。
---
森に入ってすぐ、レインはゴブリンの群れを見つけた。
五体。以前なら、苦戦しただろう。だが、今は違う。オークとの戦いで、レベルは上がっていないが、スキル『剛力Lv1』がある。
(試してみるか)
レインはスキルを発動した。体の内側から、力が湧き上がる感覚。筋力が、一時的に強化される。
「……行くぞ」
レインはゴブリンたちに襲いかかった。長剣を振る。以前よりも、はるかに鋭い斬撃。一体目の首が飛ぶ。二体目、三体目——ゴブリンたちは、なすすべなく倒れていく。
《魔物を討伐しました。殺戮ポイントを獲得しました:5 KP》
《魔物を討伐しました。殺戮ポイントを獲得しました:5 KP》
《魔物を討伐しました。殺戮ポイントを獲得しました:5 KP》
《魔物を討伐しました。殺戮ポイントを獲得しました:5 KP》
《魔物を討伐しました。殺戮ポイントを獲得しました:5 KP》
《ゴブリン討伐数:9/10》
(あと一体……)
レインは周囲を見回した。ちょうど、木の陰からゴブリンが一体、姿を現した。レインは長剣を一閃。ゴブリンの体が、二つに分かれる。
《ゴブリン討伐数:10体達成。スキル『ゴブリン語Lv2』を獲得しました》
(Lv2になったか)
レインはシステムの表示を確認する。
《スキル『ゴブリン語Lv2』:ゴブリンの言語を理解し、会話が可能になります。Lv1よりも詳細な意思疎通ができます》
(……まあ、役に立つ日が来るかもしれない)
レインはゴブリンの死体から魔石を回収し、ギルドに戻った。依頼を達成し、報酬を受け取る。銀貨十枚。これで、しばらくは暮らせる。
「お疲れ様でした、レインさん。初依頼、おめでとうございます」
受付嬢が、にこやかに言う。レインは軽く会釈し、ギルドを出ようとした。その時だった。
「おい、あんた」
声をかけられた。振り返ると、そこには一人の少女が立っていた。レインより少し年下だろうか。猫の耳と尻尾を持つ獣人。肩までの黒髪に、琥珀色の瞳。小柄だが、その目は鋭い。腰には、古びた短剣と、いくつもの鍵がぶら下がっている。
「……何だ?」
「あんた、強いね。Gランクで、あんなに速くゴブリンを狩る奴、珍しい」
少女は、にやりと笑った。
「あたし、ミア。盗賊やってる。あんた、名前は?」
「……レイン」
「レインね。ねえ、レイン。あんた、パーティ組まない?」
(パーティ……?)
レインは眉をひそめた。一人で行動する方が、自分の秘密を守りやすい。システムのことも、グランディアから追われていることも。だが——
「あたし、情報収集が得意なんだ。あんた、何か探してるでしょ? グランディアから逃げてきたんでしょ?」
レインの体が、わずかに強張った。ミアはそれを見て、笑みを深める。
「大丈夫、言いふらしたりしないよ。あたしも、自由都市連合に来たばかりで、仲間が欲しかったんだ。どう?」
(……この少女、只者じゃないな)
レインはミアを見つめた。琥珀色の瞳が、まっすぐにレインを見返している。嘘をついているようには、見えなかった。
「……一つだけ、聞いていいか」
「何?」
「なぜ、俺なんだ?」
ミアは少し考えて、そして言った。
「……あんたの目。死んでない目をしてる。スラムで生きてきたあたしには、分かるんだ。そういう奴は、強い。そして、強い奴と組みたい」
レインは、しばらく沈黙した。それから、小さく息をついて言った。
「……分かった。しばらく、組んでみるか」
ミアの顔が、ぱっと輝いた。
「やった! よろしくね、レイン!」
こうして、レインは最初の仲間を得た。
だが、その夜——リベルタスの宿屋で眠っていたレインは、システムの通知で目を覚ます。
《警告:グランディア王国より、指名手配書が発行されました》
《対象:レイン・クロウ》
《罪状:反逆、国家機密漏洩、セレスティア・グランディア誘拐》
《懸賞金:金貨500枚》
(……来たか)
レインは、暗い天井を見つめた。金貨500枚——破格の懸賞金だ。これで、賞金稼ぎが動き出す。自由都市連合にも、グランディアの手が伸びるかもしれない。
(時間がないな……)
レインは目を閉じた。だが、恐怖はなかった。むしろ、決意が固まった。
(強くなる。もっと、もっと強く)
セレスティアを救うために。そして、自分の道を切り開くために。
——流亡の剣士は、今日も歩き続ける。




