1 処刑場の雨
雨が降っていた。
冷たい雨が、石畳の広場に容赦なく叩きつけられる。灰色の雲が低く垂れ込め、まるで世界の終わりを告げるかのようだった。広場の中央に組まれた処刑台の上で、レイン・クロウは両手を荒縄で縛られたまま、空を見上げていた。
(……最悪だ)
雨粒が目に入り、思わず目を細める。首に巻かれた縄の感触が、やけに生々しい。ざらざらとした麻の繊維が、皮膚に食い込んでいる。処刑執行人の男が、傍らに立っていた。身の丈ほどもある大斧を両手で握り、無表情でレインを見下ろしている。その目は、ただの作業を見るような、感情のない光を宿していた。
広場の周囲には、大勢の市民が集まっていた。雨にもかかわらず、その数は数百人を超える。傘を差す者、濡れるままに立つ者、建物の軒下から覗く者。彼らの表情は様々だった。好奇、嘲笑、無関心——そして、ほんの一部だが、涙を浮かべている者もいた。
(……誰か、泣いてくれているのか)
レインは苦笑した。こんな状況でも、そんなことを気にする自分が滑稽だった。
「レイン・クロウ」
声が響く。処刑台の前に立つのは、グランディア王国の貴族、バルド・フォン・グランディア。レインの元上司であり、騎士団長の座を狙う男だった。四十がらみの、恰幅の良い男。豪奢なマントを羽織り、雨の中でも濡れないように従者に傘を差させている。その顔には、抑えきれないほどの悦楽が浮かんでいた。
「貴様の罪は重い。国王陛下に対する反逆、国家機密の漏洩、そして——」
バルドはわざとらしく間を置いた。雨音だけが、広場に響く。
「——セレスティア・グランディア嬢への誘拐及び監禁未遂」
(違う)
レインは心の中で叫んだ。セレスティアは自らレインのもとに来たのだ。二人の関係を知ったバルドが、嫉妬と権力欲からでっち上げた罪だった。セレスティアは騎士団長の娘。レインは平民出身の騎士見習い。身分違いの恋——だが、二人は本気だった。それをバルドが許さなかった。
(セレスティアは、今どこに……)
レインは広場を見回した。彼女の姿はない。捕らえられたのか、それとも逃げ延びたのか。それすらも分からない。
「処刑を執行する」
バルドが宣言した。その声には、勝利者の驕りがあった。
処刑執行人が斧を振り上げる。鈍い銀色の刃が、雨を弾いて光った。レインは目を閉じた。
(……セレスティア)
最後に思い浮かんだのは、彼女の笑顔だった。銀色の髪に、青い瞳。騎士団の訓練場で出会った日から、ずっとレインの心の中にいた。剣を交えるたびに、笑い合うたびに、その存在が大きくなっていった。
(ごめん。君を守れなかった)
斧が振り下ろされる——
その瞬間だった。
ドンッ!
爆発音が響いた。処刑台が激しく揺れ、レインは地面に転がり落ちる。背中を強く打ち、息が詰まる。何が起きたのか理解する前に、広場が混乱に包まれた。
「な、何だ!?」
「魔物だ! 魔物が城壁を突破した!」
「逃げろ! 東の門が破られた!」
悲鳴と怒号が入り混じる。市民たちが一斉に走り出し、将兵たちが武器を抜いて叫ぶ。雨音をかき消すほどの喧騒。レインは縛られたまま、必死に体を起こした。
(今だ……!)
処刑台の下に、短剣が落ちていた。処刑執行人が落としたものだろう。レインは縛られた両手を必死に伸ばし、指先で短剣を掴む。ざらざらとした柄の感触。縄に刃を当て、何度もこする。一分——いや、もっと短かったかもしれない。縄が切れ、両手が自由になる。
「逃がすな! レイン・クロウを捕らえろ!」
バルドの怒号が背後から聞こえる。だが、混乱に乗じて逃げるレインを止める者は少なかった。将兵たちは、城壁を突破した魔物の対応に追われている。レインは一目散に走り出した。
(どこへ……?)
グランディアの城下町を走り抜ける。雨で濡れた石畳が滑る。何度も転びそうになりながら、レインは城壁の外へと続く路地を目指した。背中に、左腕に、全身に痛みが走る。処刑前の拷問で、体はボロボロだ。まともに走ることもままならない。
「いたぞ! レイン・クロウだ!」
背後から声がした。振り返ると、三人の騎士が追いかけてくる。レインは必死に路地を曲がった。狭い路地、積み上げられた木箱、干された洗濯物——必死に障害物を乗り越え、追手を振り切ろうとする。
(まずい……!)
路地を曲がったところで、レインは足を止めた。目の前に、魔物が立ち塞がっていた。
ゴブリン——身長はレインの腰ほど。醜い顔に、爛れた皮膚。手には錆びた短剣。だが、その目は獲物を見つけた獣のそれだった。ゴブリンはレインを見て、にたりと笑った。いや、笑ったように見えた。
「グルルル……」
ゴブリンが唸る。レインは周囲を見回した。逃げ道はない。背後からは追手の足音。前には魔物。
(……やるしかない)
レインは短剣を構えた。柄を握る手が震える。恐怖ではない。体が限界に近いのだ。だが、生き延びるためには、戦うしかない。
ゴブリンが飛びかかってきた。レインは必死に短剣を振るう。だが、ゴブリンの方が速い。鋭い爪がレインの左腕を切り裂く。
「ぐあっ……!」
痛みに顔を歪めながら、レインは体勢を立て直す。血が滲む。だが、構わず前を見る。ゴブリンは再び襲いかかってくる。レインは横に転がり、ゴブリンの背後に回り込むと、短剣を突き刺した。
「ギャアアア!」
ゴブリンが悲鳴を上げる。レインはさらに何度も短剣を振るった。ゴブリンの体が、びくびくと痙攣する。やがて、動かなくなった。
(……倒した)
荒い息をつきながら、レインはゴブリンの死体を見下ろした。返り血が頬に付く。雨がそれを洗い流す。
と、その時だった。
《魔物を討伐しました。殺戮ポイントを獲得しました:5 KP》
頭の中に、直接語りかけるような声が響いた。レインは周囲を見回すが、誰もいない。追手の足音は、いつの間にか聞こえなくなっていた。魔物の襲撃で、撤退したのだろう。
《ステータスを確認しますか?》
(……何だ? これは)
レインは戸惑いながらも、心の中で「はい」と答えた。すると、視界に半透明の文字が浮かび上がった。
```
【ステータス】
名前:レイン・クロウ
レベル:1
HP:15/30
MP:10/10
STR:8
VIT:7
AGI:9
INT:10
DEX:8
LUK:5
──────────
殺戮ポイント:5 KP
スキル:なし
```
(……これは、何だ?)
レインは混乱した。目の前に浮かぶ文字——これは幻覚ではない。確かに見えている。だが、追手の足音が近づいている。考える時間はない。
「とにかく……逃げるしかない」
レインは再び走り出した。システムのことは後で考える。今は生き延びることが最優先だ。
城壁の外へ続く小さな門——普段は使われていない非常口——にたどり着いたレインは、その扉を押し開けた。錆びついた蝶番が、不快な音を立てる。外は深い森が広がっている。雨はまだ降り続いていた。森の木々が、雨を受け止めてざわめいている。
レインは森の中へと足を踏み入れた。振り返ると、城下町の灯りが遠くに見える。あそこには、もう戻れない。セレスティアも、仲間も、すべてを置いてきた。
(……セレスティア)
彼女の無事を祈りながら、レインは森の奥へと進んだ。体は限界に近い。だが、止まるわけにはいかない。木の根に足を取られ、何度も転びそうになりながら、レインは歩き続けた。
森を進むこと数時間。雨が止み、夜が明け始めた頃、レインは小さな洞窟を見つけた。入り口は狭いが、中は意外と広い。湿った土の匂いが鼻をつく。だが、雨風を凌ぐには十分だ。
「……ここで、少し休むか」
壁に寄りかかり、レインは目を閉じた。全身が痛む。特に左腕の傷は深い。服を破いて簡易的に止血するが、満足な手当てもできない。
(……死ぬかもしれないな)
そんな考えが頭をよぎる。だが、不思議と恐怖はなかった。処刑台の上で死ぬよりは、マシだ。少なくとも、自分で選んだ道の上で死ねる。
システムのことは、起きてから考えよう。そう思った矢先——
《クエストを提示します》
再び、あの声が響いた。
《クエスト:ゴブリンを10,000体討伐せよ》
《報酬:万物調伏》
《期限:なし》
《拒否:可能(ペナルティ:全KP没収)》
(……は?)
レインは目を見開いた。
(10,000体……? 今、1体倒したばかりなのに……?)
あまりの理不尽さに、レインは思わず笑ってしまった。乾いた、自嘲的な笑いだった。
「……ふざけてるのか?」
誰も答えない。ただ、システムの文字だけが、レインの視界に浮かんでいた。
(……まあ、いい)
レインは目を閉じた。どうせ、断る理由もない。生き延びるためには、強くなるしかないのだから。
(10,000体……やってやるよ)
そのためには、まずこの傷を治さなければ。そして、食料も水もない。武器も、この錆びた短剣だけだ。状況は最悪だが、生きている。それだけで、十分だった。
レインは深い眠りに落ちた。外では、雨が上がり、雲の間から朝日が差し込み始めていた。洞窟の中に、淡い光が差し込む。
——こうして、流亡の剣士の物語が始まった。
---
レインが目を覚ましたのは、昼過ぎだった。
洞窟の入り口から差し込む日光が、顔に当たっている。体を起こすと、全身の関節が悲鳴を上げた。特に左腕の傷は、化膿しかけている。熱もある。だが、動けないほどではない。
(……水を探さないと)
喉が渇いていた。空腹も感じる。レインは短剣を手に、洞窟の外へ出た。森は静かだった。雨に濡れた木々が、水滴を滴らせている。鳥のさえずりが聞こえる。魔物の気配はない。
レインは近くの小川を見つけ、水を飲んだ。冷たい水が、喉を潤していく。傷を洗い、服を破いて包帯代わりにする。できる限りの手当てを済ませると、少しだけ気力が戻った。
(……そういえば)
レインはシステムのことを思い出した。
(ステータス、もう一度見せてくれ)
《ステータスを表示します》
```
【ステータス】
名前:レイン・クロウ
レベル:1
HP:18/30
MP:10/10
STR:8
VIT:7
AGI:9
INT:10
DEX:8
LUK:5
──────────
殺戮ポイント:5 KP
スキル:なし
```
HPが少し回復している。自然回復だろうか。それとも、休息によるものか。
(殺戮ポイント……5 KPか)
レインは考えた。このポイントを、任意のステータスに割り振れるらしい。どれに振るべきか。
(STRか、VITか……)
筋力が上がれば、攻撃力が増す。体力が上がれば、耐久力が増す。AGIは速さ、INTは魔法関連だろうか。だが、今のレインに魔法は使えない。
(とりあえず、STRに振っておくか)
《STRに5ポイント割り振りますか?》
(はい)
《STRが8から13に上昇しました》
体が、ほんの少しだけ軽くなった気がした。気のせいかもしれないが、剣を握る手に、わずかな力強さを感じる。
(よし……)
レインは短剣を構え、素振りをしてみる。確かに、以前より振りが鋭い。気のせいかもしれないが、それでもいい。前に進んでいるという実感が欲しかった。
(次は、食料だ)
レインは森の中を歩き始めた。魔物を探すためだ。ゴブリンなら、この辺りにもいるはず。食料にもなる。倒せばKPも得られる。一石二鳥だ。
森を進むこと三十分。レインは小さな足跡を見つけた。ゴブリンのものだ。泥の上に、三本指の跡がくっきりと残っている。しかも、新しい。
(近くにいる)
レインは足音を殺し、慎重に進んだ。木の陰から覗くと、小さな広場のような場所に、ゴブリンが三体いた。一体は焚き火の番をしており、残り二体は何かを食べている。食べているのは——猿の死体のようだった。
(三体か……)
レインは息を整えた。以前の戦いで、一体倒すのに苦労した。三体 simultaneously は危険だ。だが、やるしかない。食料も必要だし、KPも欲しい。
(まずは一体ずつ……)
レインは石を拾い、広場の反対側に投げた。石が木に当たり、音が響く。ゴブリンたちが一斉にそちらを見る。レインはその隙に、一番近いゴブリンに襲いかかった。
短剣がゴブリンの背中に突き刺さる。悲鳴を上げる間もなく、一体目は倒れた。
《魔物を討伐しました。殺戮ポイントを獲得しました:5 KP》
残りの二体がレインに気づき、襲いかかってくる。レインは短剣を振るい、二体目を斬りつける。だが、致命傷には至らない。ゴブリンの爪がレインの脚を切り裂く。
「くっ……!」
レインは体勢を崩しながらも、二体目の喉元を狙って短剣を突き刺した。二体目が倒れる。残るは一体。ゴブリンは恐怖したように後ずさりするが、すぐに牙を剥いて飛びかかってくる。
レインはそれを迎え撃ち、短剣をゴブリンの腹に突き入れた。
《魔物を討伐しました。殺戮ポイントを獲得しました:5 KP》
《ゴブリン討伐数:4/10》
《ゴブリン討伐数:10体達成。スキル『ゴブリン語Lv1』を獲得しました》
(……スキル?)
レインは目を瞬いた。ゴブリン語——そんなものが、今の自分に必要だろうか。
《スキル『ゴブリン語Lv1』:ゴブリンの言語を理解し、簡単な意思疎通が可能になります》
(……まあ、悪くはないか)
レインはゴブリンの死体から使えそうなものを漁った。汚い布、錆びた短剣、少しの干し肉。干し肉は、ゴブリンが食べていたものだろうが、そんなことを言っていられない。
「……ありがたく、いただくか」
干し肉を口にしながら、レインはシステムの表示を見つめた。
《ゴブリン討伐数:4/10》
(10体で一つのスキルか。100体、500体、1000体……先は長いな)
だが、希望はあった。強くなれる。このシステムがあれば、もしかしたら——セレスティアを救えるかもしれない。
レインは立ち上がった。傷は痛むが、動けないほどではない。
(まずは、この森を抜けよう)
自由都市連合を目指す。そこなら、王国の手は及ばない。そして、強くなるための情報も集められる。
レインは森の奥へと歩き出した。太陽が、木々の間から差し込んでいる。昨日とは違う、確かな一歩だった。




