16 主の玉座
試練の間を抜けた先は、静寂に包まれていた。
通路は緩やかに下り、壁の青白い苔が、淡い光を放っている。だが、その光は以前よりも弱く、まるで闇に飲み込まれまいと抗っているかのようだった。
「……静かだな」
レインが呟く。ミアが、周囲を見回しながら頷いた。
「魔物の気配が、ない。試練の間とは、えらい違いだね」
「ああ。だが、油断するな。むしろ、この静けさが不気味だ」
セレスティアが、剣を握り直す。リィエルとシャドウも、それぞれ警戒を強めていた。
通路の終わりに、また扉があった。今度は、石ではなく、黒い金属でできている。表面には、深淵の眼の紋章が、脈打つように浮かんでいた。
「この先が、主の玉座……」
レインは、次元の指輪をはめた手で、扉に触れた。指輪が、微かに熱を帯びる。扉が、ゆっくりと開いた。
中は、広大な空間だった。天井は見えず、床は黒い鏡のように滑らかで、レインたちの姿を映している。そして、空間の中心に——玉座があった。
黒い石でできた、巨大な玉座。その上に、何かが座っている。人の形をしているが、輪郭がぼやけている。影そのものが、実体を持っているかのようだった。
《警告:深淵の使徒の主を感知》
《推定脅威度:測定不能》
(測定不能……!)
レインは、息を呑んだ。ガーディアンでさえSランクだった。その上を行く存在。だが、恐怖はなかった。
「……来たか、観測者の器よ」
声が、空間に響く。低く、だが、どこか優しげな声。影が、ゆっくりと立ち上がる。その姿は、人の形をしているが、顔はない。ただ、無数の目が、体の表面に浮かんでいる。
「私は、深淵の使徒の主。名は、深淵の王。……もっとも、名など、お前たちには関係ないだろう」
「俺を、待っていたのか?」
「ああ。ずっと、待っていた。観測者が、どんな器を選ぶのか。どんな魂を持つのか。興味があった」
深淵の王が、一歩、前に進む。そのだけで、空間全体が、圧迫されるような感覚に襲われる。
「器よ。お前の力、その魂——全てを、私に譲れ。そうすれば、お前の仲間たちは、無事に帰してやる」
「断る」
レインは、即答した。深淵の王が、少し首をかしげる。
「なぜだ? お前は、観測者のために戦っているのではない。観測者に、利用されているだけだ。私に従えば、自由になれる」
「自由、か。……お前の言う自由は、他人を犠牲にする自由だ。俺が欲しいのは、そんなものじゃない」
「ほう?」
「俺は、仲間と一緒に生きたい。セレスティアと、ミアと、リィエルと、シャドウと。そして——観測者とも」
深淵の王が、笑った。無数の目が、一斉に細くなる。
「……面白い。観測者を、仲間と呼ぶか。だが、その観測者は、お前を器としか見ていない。利用しているだけだ」
「違う」
レインは、首を振った。
「観測者は、俺を心配してくれた。俺が壊れるのを、望んでいないと言ってくれた。……お前には、分からないだろうな。誰かを、心配する気持ちが」
深淵の王の笑みが、消えた。無数の目が、冷たく光る。
「……後悔するぞ、器よ」
「後悔は、しない。俺は、自分で選んだ道を歩む」
「ならば——」
深淵の王が、腕を振るう。その瞬間、空間が、激しく歪んだ。試練の間の比ではない。次元そのものが、崩壊しようとしている。
「——『深淵の終焉』」
レインは、次元操作で空間を固定しようとする。だが、指輪の力でも、太刀打ちできない。空間が、軋み、ひび割れていく。
「レイン!」
セレスティアが、叫ぶ。レインは、歯を食いしばった。
「みんな、下がれ! 俺が、何とかする!」
「無茶よ! 一人じゃ——」
「一人じゃない。お前たちがいる。だが——」
レインは、仲間たちを見た。
「ここは、俺に任せてくれ。お前たちは、俺が合図したら、一斉に攻撃してくれ」
「……分かった」
セレスティアが、頷く。ミアも、リィエルも、シャドウも、それぞれの武器を構えた。
レインは、深淵の王に向き直った。そして、システムの表示を見た。
《観測者よりのメッセージ:レイン。私の力を、すべてあなたに託します》
《観測者の加護、最終段階——『観測者の器・覚醒』》
《全ステータス、100%上昇。次元操作の精度が、限界まで向上します。ただし——》
《この力の使用後、あなたの魂に大きな負担がかかります。最悪の場合、魂が砕ける可能性があります》
(魂が、砕ける……)
レインは、少しだけ迷った。だが、すぐに決断した。
(構うか。ここで負けたら、みんな死ぬ。それなら——)
(俺が、死ぬ方がマシだ)
《観測者の器・覚醒——発動》
レインの体に、凄まじい力が流れ込む。全身の細胞が、悲鳴を上げる。魂が、軋む。だが、力が漲る。魔素の剣が、金色に輝く。次元操作の精度が、桁違いに上がる。
「……なんだ、その力は……!?」
深淵の王が、初めて動揺した声を上げる。レインは、剣を構えた。
「これが、俺の——そして、観測者の力だ」
「馬鹿な……! 観測者が、そこまで力を貸すとは……! 器を、犠牲にする気か……!?」
「違う。観測者は、俺を信じてくれている。だから——」
レインは、踏み込んだ。次元操作で空間を固定し、深淵の王の動きを封じる。そして、金色の魔素の剣を、深淵の王の中心——最も大きな目に、突き刺した。
「俺も、それに応える!」
「ぐあああああ!?」
深淵の王が、悲鳴を上げる。体の表面の目が、一斉に閉じていく。だが——
「……まだだ。まだ、終わらんぞ、器よ」
深淵の王が、最後の力を振り絞る。空間全体が、さらに激しく歪む。次元が、崩壊しようとしている。
「みんな、今だ!」
レインが叫ぶ。セレスティア、ミア、リィエル、シャドウが、一斉に攻撃を放つ。セレスティアの剣、ミアの魔法具、リィエルの風の魔法、シャドウの短剣。四つの攻撃が、深淵の王に叩き込まれる。
「……ぬぬぬ……!」
深淵の王の体が、ぼろぼろと崩れ始める。無数の目が、一つ、また一つと消えていく。
「……見事だ、器よ。そして、観測者よ。お前たちの絆が、私を越えた……。だが——」
深淵の王が、最後の言葉を紡ぐ。
「我は、最後ではない。深淵は、常に存在する。お前たちが、光ある限り——闇もまた、存在するのだ」
深淵の王が、消滅した。
《深淵の使徒の主を討伐しました》
《報酬:殺戮ポイント50,000 KP、スキル『深淵耐性Lv2』、スキル『観測者との対話権』》
空間の歪みが、収まっていく。次元が、安定を取り戻す。レインは、その場に倒れ込んだ。体が、動かない。魂が、軋んでいる。
「レイン!」
セレスティアが、駆け寄ってくる。レインは、何とか顔を上げた。
「……ああ。何とか、勝った」
「バカ……! 本当に、バカ……!」
セレスティアが、涙を流しながら、レインを抱きしめる。ミアも、リィエルも、シャドウも、それぞれ涙を浮かべていた。
「……みんな、ありがとう。お前たちがいてくれたから、勝てた」
「当たり前でしょ……! 仲間なんだから……!」
ミアが、泣きながら笑う。レインは、そんな仲間たちを見て、少しだけ笑った。
(観測者。俺は、勝ったよ)
システムの表示が、微かに光る。
《観測者よりのメッセージ:……おめでとうございます、レイン。そして、ありがとう》
(どういたしまして、観測者)
レインは、目を閉じた。魂の軋みが、まだ残っている。だが、生きている。仲間も、全員無事だ。
(帰ろう。みんなで)
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深淵層を抜け、リベルタスに戻ったのは、三日後のことだった。
レインは、宿のベッドで目を覚ました。体の痛みは、ほぼ消えている。魂の軋みも、少しずつ回復しているようだ。
「あ、起きた」
ミアが、部屋の入り口に立っていた。手には、粥の入った器を持っている。
「……何日、寝てた?」
「三日間。ずっと、眠ってたのよ。心配したんだから」
「悪い。……みんなは?」
「全員無事。セレスティアさんは、ギルドに報告に行ってる。リィエルは、お祖父様に報告。シャドウは……どっか行った」
「そっか」
レインは、粥を受け取り、口に運んだ。温かい。体に、染み渡る。
「なあ、ミア」
「何?」
「俺、強くなれたかな」
ミアは、少し考えて、笑った。
「うん。強くなったよ。あたしなんか、足元にも及ばないくらい」
「……そうか」
「でもね、レイン」
ミアが、レインの顔を覗き込む。
「あんた、強くなりすぎて、無茶ばっかりしてる。もっと、頼ってよ。あたしたちに」
「……分かってる。だが——」
「だが?」
レインは、少し照れながら言った。
「お前たちを、危険な目に合わせたくないんだ」
ミアは、しばらくレインを見つめていた。そして、小さく笑った。
「……そういうところだよ。あんたの、いいところであり、悪いところ」
「何だ、それ」
「そのまんまの意味」
ミアが、立ち上がる。
「セレスティアさんたちが戻ったら、みんなでご飯にしよう。あたし、腕によりをかけて作るから」
「……期待してる」
ミアが、部屋を出ていく。レインは、粥を食べ終え、ベッドから降りた。体は、まだ少し重い。だが、動ける。
(さて、これからどうするか)
深淵の王は倒した。だが、彼は「最後ではない」と言った。深淵は、常に存在する。闇がある限り、戦いは続く。
(だが、今は——)
レインは、窓の外を見た。リベルタスの街並みが、夕日に染まっている。
(今は、少し休もう。仲間と一緒に)
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その夜、宿の食堂で、ささやかな宴が開かれた。
セレスティアが、ミアの作った料理を食べて、目を丸くする。
「ミアさん、これ、すごく美味しい!」
「でしょ? あたし、料理には自信あるんだ」
「本当に、何でもできるのね……」
リィエルが、感心したように言う。シャドウも、黙々と食べているが、その表情はどこか満足げだ。
レインは、そんな仲間たちを見回して、思った。
(俺は、幸せだな)
強くなった。仲間がいる。守るべきものが、ある。これ以上、何を望むことがあるだろう。
「レイン、どうしたの? ぼーっとして」
セレスティアが、心配そうに覗き込む。
「……何でもない。ただ、嬉しいなと思って」
「ふふ。そう」
セレスティアが、微笑む。その笑顔が、レインの心に、灯りをともす。
(観測者。お前も、一緒に食べられたらいいのにな)
システムの表示が、微かに光る。
《観測者よりのメッセージ:……その気持ちだけで、十分です》
レインは、小さく笑った。そして、仲間たちとの宴を、楽しんだ。
——流亡の剣士は、今日も歩き続ける。仲間と共に、明日へと。




