第64話 腕に残るぬくもり
◇◇◇
「いーい? スティルク。好きな人や恋人ができたときは姉さんにちゃんと言うのよ?」
「……え? う、うん……」
「年頃の男の恋路に首突っ込むんじゃねぇよ、アストリア」
「何でよ!? 兄様は可愛い弟が心配じゃないの!? こんなに男前に育っちゃったのよ!?」
「心配は心配だけど、お前が口出すとめんどくさいことになるだろうが!」
ぎゃあぎゃあと騒ぐアストリアにシグルフがため息をつく。
弟が悪い女に捕まらないか姉として心配なんだと彼女は熱弁する。少々芝居がかっているようにも見えるが、姉はこれで通常運転なのだ。
「何だ何だ? 騒がしいな」
「いくつになっても落ち着かない子たちだねぇ……」
にぎやかな声に顔を出したソルガンとフレイナが呆れたように、しかしわずかに楽しそうに眉をしかめる。
「ねーっ! 父さまたちだって心配よねぇ!?」
「一体何の話だ……」
突如水を向けられた父はおろおろとしながら母に助けを求めるような視線を送る。その視線を受け、母は頭上に疑問符を浮かべながらもニコニコと笑っていた。
──幸せだった明るい家族の光景が遠のいていく。あの日々が何ものにも代えがたい幸福であったとようやく理解できたのに、両親と兄姉の姿がぼやけて、霞んでいく。
(あぁ……生きた姉さんに、好きな人ができたって……言いたかったな……)
ゆっくりと瞼を開けたスティルクの目に入ったのは、見知らぬ天井の梁だった。
夢の残骸を追うように無意識に伸ばした手が虚しく空を掴んだ。
身体のどこにも痛みはない。ただ視線が揺れ、頭がぼんやりしていた。
かけられた毛布と背中に感じる柔らかな感触に、どこかの寝台に寝かされているのだと悟る。碌に思考が働かないまま身を起こすと、ぐらりと頭が揺れて身体が傾きかけた。
「う……っ」
かろうじて堪えると、自分が見覚えのない着物を着ていることに気がついた。真白い絹のような柔らかな肌触りのそれは、山奥で暮らす一族の村では見たこともないものだった。
「これ……」
「目が覚めたみたいね」
耳に届いたのは、凛として澄んだ声。
視線を向けると、籠を手に栗色の髪を揺らす愛しい恋人が扉に背もたれるように立っていた。
「セラさん……」
「怪我は治してあるけど、相変わらず血は足りてないわ。寝ている間に多少は回復したでしょうけど、無理はしないでね。あなたと私の契約は終了しているから、新たな回復には対価が必要になるわ」
淡々と言いながらセリヴァルは寝台の傍へと歩み寄り、籠を床に置いた。中にはスティルクが着ていた黒の魔術礼装が綺麗に畳まれている。
「洗って乾かしてあるから、あとで着替えなさいね。それから……」
「待って……、待ってセラさん!」
思わず彼女の手首を掴み、未だ焦点の揺れる視線を懸命に据える。
「ここはどこですか? それに……契約は終了している、って……。じゃあ、奴らは? 村はどうなったんですか?」
翠玉の瞳が一瞬揺れた気がする。それでも、逸らすわけにはいかない。
「……アヴリオンは滅びたわ。私が滅ぼした」
「……え?」
「エルディンガルの村はあなたが見た通りよ。ここは、”どこでもない場所”。どの次元とも繋がっていないけど、どこにでも行ける場所。昔、なんとなく夫と私で創った別荘地ね」
淡々と、訊かれたことにだけ彼女は答えていく。無感情にも思える口調だったが、わずかに下がった柳眉と細められた瞳が、彼女の心の内を表しているように思えた。
「しばらくここで休みなさい。恐れるものは、もう何もないわ」
それは、ある意味で残酷な事実だった。
救い出しに行ったはずの姉も、その帰りを待っているはずだった父と兄も、親友までも既に亡く、その怒りを向けるべき元凶たるアヴリオンも滅びている。
失うものなど何もなく、奪いに来るものもいない。空虚になった胸の中で、静かな風の声だけが響いた。
「セラさん……」
慰めの言葉も、励ましの言葉もない。
ただ事実だけを告げる彼女を、冷たいなどとは思わない。彼女もまた、幾重もの感情を押し殺しているのだと分かる。
分かっていてなお、そこに気を配るだけの余力がスティルクには残っていなかった。
「スティルク?」
掴んだ手首を引き寄せ、柔らかな身体をぎゅうっと強く抱きしめる。
──生きている。
最後に残った、ただひとつの温もりが、今はひたすらに欲しかった。
「抱かせてください、セラさん。今は何も、考えたくないんだ……」
セリヴァルの口元が何か言葉を紡ぎかけ、しかしきゅっと結ばれる。
「……いいわよ」
その許しが耳に届くなり、スティルクは彼女の身体を押し倒した──。




