第47話 紡がれた願い
◇◇◇
兄の背に刻まれた傷にスティルクの瞳は怒りに燃えていた。すぐにでも村を飛び出しかねない様相だが、今は兄の言葉を聞くのが最優先だという理性は残っているらしい。
「アヴリオンの、預言者が……、アヴリオン滅亡の夢を視た、って……。そこに……、俺たちエルディンガルが深く関わってる……って、そう言って……」
巨大魔術都市が擁する預言者ならばその力は本物だろう。ソルガンのような勘の鋭さとは一線を画す未来視の持ち主は、稀にではあるが確かに存在する。
(魔術師に未来視の預言は不可能なはず……。その人物は魔導士ね。けれどそれでも、稀有な才能のはずだけど)
理側の存在であるセリヴァルでさえ未来視の力は持っていない。魔導の修行を積めば手に入るようなものではないからだ。
未来視はいわば、神々の権能の残滓をその身に宿すようなものだった。人間に扱い切れる代物ではない。
「だから……忠誠の呪いを受け入れるか、自ら……滅ぶか、選べって……」
そこまで言ってシグルフは激しく吐血した。やはり傷は背中だけではなさそうだ。
「あなたが見せたかったものはこれだけね? 先に治療しましょう」
これ以上は危険だとセリヴァルは判断した。スティルクとソルガンも頷きを返す。
そしてセリヴァルは荒々しくスティルクの顔を引き寄せると、その唇に深く口づけた。しかしそこに今朝までの甘美さはなく、舌先が触れ合った途端に彼の全身から一気に血の気が引いた。
「──っ!」
唇を離すと、スティルクはガクリと崩れ落ちかけ、しかし腕に抱く兄のために懸命に堪えていた。荒く息を吐き、瞳の焦点がぐらぐらと揺れている。眩暈に襲われているのだろう。
「大量の血気を抜いたから少し貧血状態になると思うけど、あなたならすぐに回復するわ。それより緊急事態だから、我慢してね」
言うが早いか、セリヴァルは即座にシグルフの前に屈み、その顔を上向かせる。
(瞳孔が開いているし、もうまともに見えてはいなさそうね。よくここまで意識を保っていられたものだわ。さすがは長の嫡男。大した男ね)
気迫だけで村までの山道を登ってきたのだろう。その底意地の強さに驚嘆しながら、青紫の唇に口づけ、舌を差し込んだ。
セリヴァルにとっての唇への口づけは愛の意味を持つが、今は危急の場だ。四の五の言ってはいられない。スティルクにも動揺の様子は見られない。何を最優先すべきなのかを、彼も分かっていた。
重ねられた唇に淡い光が浮かび、シグルフの肌に徐々に血色が戻っていく。
やがて唇を離すと、セリヴァルはシグルフの額に手をかざした。
「スティルクから抜いた血気をシグルフに移した。傷も塞いだわ。記憶を読むわよ、シグルフ」
短く、矢継ぎ早に告げる。未だ朦朧としながらも、シグルフは小さく頷いた。
その瞬間、かざした手から彼の記憶が脳内へと一挙に流れ込んだ。それと同時に、セリヴァルの視界に彼が見てきた地獄の光景が鮮明に映し出される。
繰り返される拷問。見覚えのある顔の女性が衣服を破られ、泣き叫ぶ姿。
その細い手足を押さえつけ、歪んだ笑みを浮かべる男たち。
「──っ!」
思わず顔を逸らすと、ぷつりと記憶の映像が途切れた。
「罠……だったんだ。治水工事のための魔導具制作なんて、嘘っぱち……」
身体の傷が癒された代わりに、胸の内に刻まれた傷の痛みが蘇ったのだろう。シグルフは奥歯を強く噛みしめ、怒りの涙を零した。
「……ちくしょう! あいつら……俺の目の前で、アストリアを──」
言葉が続けられるより先に、セリヴァルの手がシグルフの口を塞いだ。
震える彼の頭を抱き寄せる。
「言わないで」
やはりあの顔はアストリアかと眉根を寄せる。十八年前、セリヴァルの膝で無邪気な笑みを見せていた、幼い頃の面影を残したあの面立ち。
「……言わないであげて」
家族にこそ、見られたくない、知られたくないこともある。それは他の誰に知られるより、本人の心を深く傷付ける。
だからこそそれは、兄であるシグルフの目の前で行われた。
ソルガンとスティルクは冷たい汗を伝わせて顔を見合わせる。
──そう。アヴリオンに向かったのはシグルフとアストリアの二人。だが村に帰ってきたのはシグルフだけだ。
未だアストリアはアヴリオンに囚われている。
「……本気ね。本気でアヴリオンは、エルディンガル一族を滅ぼそうとしている。忠誠の呪いはおそらく、受け入れれば血に刻まれるものになるでしょう。子々孫々、永遠にあなたたちは魔術都市アヴリオンに逆らえなくなる」
それを逃れることができるのは、一族の一員でありながら血縁ではないスティルクだけだろう。呪いを受けた一族の人間は、命じられるがままに魔導具を生み出していく未来をたどることになる。
あるいは技術だけを総て奪われ、結局は滅ぼされるか。
いずれにしても数人の魔力を持たない一族の人間は、不要なものとして真っ先に殺される。やはりそれを逃れられるのも、凄まじい戦闘能力を持つスティルクだけだ。
シグルフが震える手を伸ばし、セリヴァルの腕を掴んだ。
「……あんた、セリヴァル様だろ? 昔もここに来た……。父さんから、あんたがどういうヒトなのかは聞いてる……」
彼はいずれ、ソルガンの後を継いでエルディンガル一族の長になる男だ。不定期に訪れる古の魔導士がどういう存在なのか、既に父から教え聞かされていたらしい。
だからこそ彼がセリヴァルにそれを願ったのは、当然の帰結と言えた。
「どんな対価でも支払う。俺の総てを差し出していい。命でも魂でも。俺の生きる今後の道が地獄であったとしても構わない」
「シグルフ!」
察したソルガンが止めようとしたが、両手と額を畳につけたシグルフの願いは紡がれた。
「妹を、助けてくれ……」




