第42話 去る理由
「……ねぇ、セラさん」
不意に、スティルクの声が沈んだ。抱きしめる腕にも力が込められる。
どうしたのかと肩越しに振り向くと、切なげに細められた黒瞳が見つめていた。その表情に、彼が言わんとしていることを察する。
「ずっと、村にはいられないんですか?」
「……えぇ」
迷いながらも、答える。
以前ソルガンが言っていた通り、セリヴァルはいつまでも彼の傍にはいられない。しかしそれは彼女にとって気まぐれなものではなく、かつての時代の終わりに定められた約定ゆえのことだった。
その事情を知らないスティルクは問い続ける。
「前に……一緒に街に下りたとき、言ってましたよね。気が向いたところに出かけて、気が済んだらシルバルク山脈に帰るって。……それって、セラさんにとっての居場所はそのシルバルク山脈ってところで、セラさんの帰りを待ってる人がいるってことですか……?」
妙なところで聡い男だ。
思わず目を見開くと、彼の方はいっそう瞳を沈ませる。
これまで訊かれなかったから話さなかっただけで、別段隠していたわけでもないのだが。
「……そうね。まぁ、私が帰るときは必ず山にいるけれど、待っているかは知らないわ。あの人はあの人で、人世に遊びに行っていたりするみたいだし。」
「それって、旦那さん?」
「えぇ」
「セラさん……怒られない?」
「え? どうして?」
問い返すと、スティルクはぼそりと返した。
「僕に抱かれたから……。僕は、嫌ですよ。セラさんが他の男に抱かれるの」
「あ〜…………そういうことね」
セリヴァルは嫉妬や貞操の概念が皆無と言っても過言ではなかった。それは夫にとっても似たようなもので、特に人間が相手ならば咎められたことは一度もない。
まさか多数の女性と関係を持っていたスティルクが、そのようなことを言い出すとは思いもよらないことだった。
「それは大丈夫よ。私たちは永久の貞操を誓い合ったわけではないもの」
言いながら、そういえばと思い出す。相手が同じ神格者の場合なら話は別だと、契を交わしたときに告げられたのだ。咎めはしないが、どんな手を使ってでもまた奪い返すと言って、夫は笑った。
それにしてもと、ちらりと視線を向ける。
「あなた、独占欲とかあったのね」
「だって……想像してみたら、たまらなく嫌で……」
「ちょっ……、ちょっとスティルク! いだだだだ!」
ぎゅうっと締め上げる腕のせいで骨が悲鳴を上げた。慌ててタップすると、ハッとしたように太い腕が緩む。
しゅんとした顔で謝られたが、彼の馬鹿力で拘束されるのは危険かもしれない。冷や汗を流しながらセリヴァルは改めて思った。
「旦那さんもセラさんみたいに、精霊とかそういう……永く生きてる人ですか?」
スティルクの尋問は続く。
この際だ。彼の知りたいことには総て答えてやろうと嘆息が零れる。
「人非ざる尊きものたちにも、格があってね。彼は私より遥かに格上──神に次ぐ座の存在で、準神というやつよ」
「準神……。じゃあ、何千年も前から?」
「そうね。えっと……三千年……くらいかしら?」
正確な年月はもはや覚えていないが、おそらくそれぐらいだろう。しかしその年月に対し、夫婦が共にいる時間はそこまで長くはない。セリヴァルが常に人世をふらふらしているせいだ。
とはいえ、寿命の短い人間からしてみれば、人生を数度回しても足りない期間ではあるのだが。
「僕はセラさんと離れたくないです。行かないでください」
「スティルク……」
「セラさんがいなくなるなんて……そんな覚悟、僕にはできない」
本当は、こうなる前に村を出ようと思っていた。
背中の温もりが恋しいものになってしまう前に、胸に芽生えた愛おしさが育つ前に、彼の傍を離れようと。
これまでもスティルクは少しずつでも感情を露わにするようになってきていた。もうソルガンとの約束も果たせたろうと思っていたのだ。
「ダメなのよ、スティルク。私は──」
「嫌です。やだ」
駄々っ子のようになってしまった。本当にあの一家は良い育て方をしてくれたものだ。無感情に堕ちた虐待児をよくぞここまで仕立てたものである。
それでも、拗ねたように強く抱きしめながらも、先程のように締め上げぬよう加減はしてくれているらしい。
「怒られないならいいじゃないですか。旦那さんのところに帰らないで……」
「そうじゃないのよ。私はただ、人世では一つの場所に長くいられないの。そういう決まりなの」
「決まり……?」
頷き、セリヴァルはようやく村に滞在し続けられない理由を語った。
三千年ほど昔、人間が神々の支配から脱するべく大きな戦が起きたこと。
神々を嫌っていたセリヴァルはその戦において、なし崩し的に人間側について戦ったこと。戦に負けた神々は人の世から退き、神界へと引っ込んだこと。
「神格の力を持つ存在は、今後の人の手によって築かれる歴史には二度と手を出さない。滅ぶも栄えるも、人が選ぶままに──それが、戦の終わりに交わされた約定。元精霊の私は神格者ですらないけれど、それでも長く一か所に留まれば信仰が生まれる恐れがある。かつての神々が立っていた信仰の中心に、私が立つわけにはいかないのよ」
「……こんなに小さな村でも?」
「人の営みがそこに在る限り、どこであろうと関係ないわ」
エルディンガル一族はセリヴァルのような古の存在の力には頼らず、自分たちの力だけでひっそりと生きていくことを信念としている。
それでも、今後も崇拝が生まれないとは限らない。
そもそも村で暮らし続ければ、その事実は風を通じて必ず夫に伝わる。同じ風の属性を持ち、なお且つそれを司る権能を持つ夫には隠せるはずもない。
(そのときは強制的に連れ戻されることになるでしょうし……、スティルクとあの人を戦わせるわけにいかないわ)
夫の直接的な戦闘力はそれほど高くはないが、相手は仮にも準神。さすがのスティルクでも無事では済まない。
村を去る以外の選択肢はセリヴァルにはなかった。
不本意ながらも理解したらしいスティルクが小さく口を開く。
「……分かりました」
ちくりと胸が痛む。
表に出すことは決してしないが、恋しい相手との別離はセリヴァルとて苦しくないはずもない。
それを知ってか知らずか──スティルクは身体を起こし、何かを決意した瞳で真っ直ぐにセリヴァルを見下ろした。
「セラさん。僕も連れていってください。旦那さんに会いたいです」
その言葉にたっぷり五秒ほどの沈黙を挟んだセリヴァルは、
「……は?」
と、かろうじて返した。




