第3話 異臭扱いの甘い香り
◇◇◇
夜の空気は冷たく、満ちた月と星々が静かに輝きを放っている。
村の人間のほとんどが寝付いている頃合いだろうか。
肌寒い程度の夜風を心地良く感じる中、セリヴァルはソルガンの家を出て少し歩を進めたところでスティルクと鉢合わせた。
「あら? どこか出かけてたの?」
「えぇ、まぁ……ちょっと用事があって」
どうにも歯切れが悪い。
夕方頃までは姿を見かけていた気がするが、薄過ぎる気配の彼はセリヴァルにも捉えづらい。
いつからどこに出かけていたのかなど特に興味があったわけでもないものの、一瞬だけ宙に彷徨った視線は少し引っかかる。それをごまかそうとしているのか、スティルクはパッと笑みを浮かべた。
「セラさんは、こんな時間にお出かけですか?」
彼も年若い青年だ。言いにくい用事の一つや二つあるだろう。
セリヴァルも笑みを返して答える。
「お出かけってほどじゃないわよ。少し先の森にね、夜にしか咲かない珍しい花があるの。それを散歩がてら摘みに行こうと思ってね」
「ふぅん……?」
興味があるのかないのか判別しづらい反応だ。
小首を傾げて何かを思案するスティルクに、セリヴァルもまた首を傾ける。
「どうかしたの?」
「いえ。僕もそれ、ついていっていいですか?」
意外だった。セリヴァルがエルディンガル一族の村に来て三日ほど経っていたが、その間に言葉を交わしていたスティルクは、何ものにも関心がないように見えていたのだ。
人の好さそうな笑みとは裏腹に、どうにも彼の心情は掴みかねる。十二年暮らしているだけあって、村の者たちとの関係は良好なようだが、セリヴァルには彼の笑顔がどこか嘘くさく見えていた。
「来るのは別にかまわないのだけど、あなた今帰ってきたばかりなのでしょう? お疲れなんじゃなくて?」
エルディンガル一族の村は辺鄙な山の中だ。用があって出かけていたのなら、山の麓の街まで下りていたのではないか。
特に汗をかいている様子もなければ呼吸も乱れてはいないようだが──。
「大丈夫です。むしろ、夜の散歩なんて楽しそうだなって思って。この近辺に夜にしか咲かない花なんてものがあることも知りませんでしたし」
にこにこと無邪気な調子で言う。
彼の腰に提げられた刀をちらりと見やりながらも、セリヴァルは「いいわよ」と返した。
「じゃあ、一緒に行きましょうか。二十分くらい歩くけどいい?」
「はいっ」
真意のほどは分からないが、闇夜に二人きりでも特に支障はないだろう。
一般的な女性ならば警戒すべき状況であっても、それなりの戦闘力と魔導の力を持つセリヴァルにとっては特に断る理由にもならない。
歩き出すと、スティルクはその一歩後ろをついてきた。
◇◇◇
森へ続く小道は月明かりに薄く照らされ、風が草を揺らす音が小さく響いていた。
軽い足取りで進みながら後方を振り返れば、スティルクがにこりと笑みを浮かべる。それに笑みを返しながらも、セリヴァルは内心では驚いていた。
(最初に会ったときから思ってたけど……この子、本当に足音がしないわね……)
気配が極めて薄く、足音までもほとんど聞こえない。
歩きながらセリヴァルが時折振り向いていたのは、そうしなければ彼の存在をそこに確認することができなかったからだった。
それに加えて、彼はなぜか常に刀を所持している。
さほど警戒する必要もないだろうと思っていたのだが、その認識は改める必要がありそうだ。仮に今ここで背後から攻撃を受けたとして、はたしてそのとき、無傷で済ませられるだろうか。
(まぁ、さすがに空気が動く気配は分かるから大丈夫かしらね)
楽天的に考えていると、スティルクが明るく声をかけてきた。
「風が少し肌寒いですね。セラさんは大丈夫ですか?」
「平気よ。私は風の子ですもの」
冗談めかして肩をすくめると、クスリと小さな笑いが返ってくる。その音が夜の静寂に溶け込み、短い会話の余韻だけが二人の間に残った。
ふと、背後からそよぐ風に、甘く芳しい香りが乗る。
「……ん?」
香りの主はスティルクのようだ。
ぴたりと足を止めると、彼もつられて歩みを止める。
「どうかしたんですか?」
ふわりとスティルクの胸元に身を寄せると、彼は驚くでもなく首を傾げた。
鼻先の触れそうな距離でスンスンと嗅いでいても、スティルクは動揺一つ見せない。
「花街にでも行ってたの?」
高価な香木を焚いたような甘く蠱惑的な香りは、スティルクの着物に染みついているようだった。
よく見れば衿合わせもわずかに乱れている。その隙間に覗く肌からも、人工的な香りが漂った。
「えっ? 花街ではないですけど……何か臭いますか?」
ようやく動揺を見せ、スティルクは自らの着物の袖口を嗅ぎ始めた。嫌がられないことをいいことに、セリヴァルも遠慮なく彼の着物や首筋を嗅いでいく。
これほどの至近距離まで身を寄せれば戸惑う男も多いのだが、スティルクにはそのような様子もない。
それに加えてこの香り。
なるほど、とセリヴァルは思った。
「なんかセラさん、犬みたいですね」
「失礼ね」
つい夢中になって嗅ぎ過ぎたようだ。犬扱いでわしわしと頭を撫でられ、むっと半眼を返す。
「知ってるタイプの香りだったからよ。私も趣味で作ったことがあるわ」
「趣味?」
「媚薬よ、これ。催淫香ね。起きているときなら欲を刺激するし、睡眠時に枕元に置けばいい夢が視られるのよ」
ニヤリと笑ってみせるセリヴァル。スティルクが出かけていたことについて訊かれたときに歯切れが悪かったのは、そういうことだったのだろう。
花街ではないそうだが、これほど香りが染みついているのなら、お楽しみになっていたことは間違いなさそうだ。
「あ~。なんか妙な匂いがするなぁとは思ってたんですけど……」
「楽しめた?」
「いえ、別に。いつも通りでしたけど」
「いつも通り、ねぇ……」
スティルクは衿合わせを掴んで改めて自分の匂いを嗅ぎ、怪訝そうに眉をひそめている。
催淫香や経口摂取の媚薬は過去に依頼されたり悪戯心で作ったりしたことがあったが、この香りには魔力の気配がない。市井でも安価で売られている低品質なものだろう。
(可哀想に……。相手が悪かったみたいね)
こんなものまで用意したというのに、彼にとっては異臭扱いだ。
今晩彼と睦み合っていたであろう女性に思わず同情してしまい、セリヴァルは短い嘆息を漏らした。




