第23話 母親
◇◇◇
「ただいま帰りました」
「おっかえりー、スティルク!」
扉を開けると、すぐさまアストリアが満面の笑みで飛び込んできた。九年間変わらない、姉の癖である。
それを受け止めるスティルクも、もう子供の頃のように勢いに負けて転びかけることもない。むしろ微動だにしない体幹に彼女の方が弾かれかけるのが今の日常だった。
「お前……いい加減、弟離れしろよ。ちょっと出かけてただけだっつーのに……。スティルクだって、もう小さい子供じゃないんだぞ」
それを眺めるシグルフが呆れたように窘めるも、アストリアは不満げに反論した。
「何よぅ。兄さまがあまりさせてくれなかったからでしょー? 言っとくけど私、弟離れどころか兄離れだってしてないんだからね」
えへん、となぜか胸を張る。
「何を威張ってるんだよ……。で、スティルク。それは?」
飛び込んできたアストリアに潰されぬよう、咄嗟に持ち上げた花束にシグルフの視線が向いている。その声で初めて気がついたように、アストリアの視線も上向いた。
手にしたそれを下げ、スティルクは微笑む。
「お見舞いには花だって聞いたから。同じ家に住んでてお見舞いっていうのも何だけど……」
黄色と白の小さな花々から淡い香りがふわりと漂う。
その香りを確かめたアストリアも満足げに頬を緩ませた。
「可愛いね。絶対喜ぶよ。それにしても……」
ようやく身体を離し、彼女は改めてスティルクを見上げた。
「本当に成長したねぇ……。スティルクが花を持って帰るなんて。いい男になった! 姉さんは嬉しいよ!」
「そう?」
「うんっ。昔のスティルクも可愛くて大好きだったけど、今のかっこいいスティルクも私は好きよ!」
逞しく育った筋肉を確認するようにぺたぺたと胸板に触れるアストリアに対し、シグルフはくくっと喉を鳴らした。
「童顔で女顔なのは相変わらずなのに、長身で体躯もいいってんだからなぁ。もう俺よりだいぶデカイし……」
「見た目だけの話ではないのよ、兄さま! でも兄さまだっていい線いってると思うわ!」
「フォローあんがとよ……」
くわっと目を見開いて力説するアストリアへ、シグルフが心にもなさそうに礼を言った。
「僕は姉さんも可愛いと思うよ」
「え? ぇぇええ? なぁに~、もうっ。スティルクったら! えへへへへ。私、花瓶取ってくるね!」
この上なく緩んだ真っ赤な頬を両手で押さえ、アストリアは目尻もふにゃふにゃに垂れ下げてぱたぱたと走っていった。
それを見送り、シグルフはフッと唇の端を吊り上げる。
「お前、あいつの扱い巧くなったな」
「え? そう? でもアストリア姉さん、褒めると喜ぶから」
「知ってるけど、俺なら絶対に言わねぇよ。あいつすぐ調子に乗るんだから、お前もあんまり甘やかすなよ」
可愛いに対する否定の言葉が出てこない辺り、彼にとってもアストリアは愛すべき存在なのだろう。日頃うっとうしそうにしてはいるものの、シグルフが彼女を本気で邪険にしたことは一度もない。
(何だかんだ言って、兄さんも姉さんには甘いんだよね)
二人の兄姉を見ていると、全身の筋肉が弛緩するような感覚を覚える。その感覚の呼び名は未だ分からぬままに、スティルクは手元の花束を見つめた。
◇◇◇
花を生けた細い花瓶を手に、スティルクは静かに扉を開いた。
「おや。スティルク……」
「フレイナさん。起きてたんですか?」
寝台に横たわるフレイナが、ゆっくりと首を向ける。痩せて落ちくぼんだ目はそれでも変わらず穏やかで、眦を下げて微笑んだ。
「たくさん寝たから、もう瞼が溶けてしまいそうだよ」
冗談めかして言いながら、その視線が花瓶の花へと向けられた。
「綺麗な花ねぇ。スティルクが用意してくれたのかい?」
「はい。アストリア姉さんにも驚かれましたよ」
「あらまぁ……。ありがとうねぇ」
白く小さな花は、以前フレイナが好きだと言っていた花と似ていた。明るい色が入った方がいいかもと思って黄色の花も加えてみたが、気に入ってくれたようだ。
寝台の傍にある小さな卓に花瓶を置く。ここなら、いつでも彼女の視界に入れられるだろう。
半年ほど前から病で臥せったフレイナは随分と痩せ細り、今では誰かの手を借りねば身体を起こすことさえままならない状態だった。
もう長くはないと本人も知りながら、彼女が気弱な言葉を吐くことはなく、顔を合わせるたびに優しく笑うのだ。
「……スティルク、こっちへ。顔をよく見せて?」
力なく伸ばされた手を取り、床に膝をつく。
骨と皮になってしまったような手の甲には血管が浮き上がり、かつての面影は見られない。だというのに、その手はやはり変わらずスティルクの頬をそっと撫でた。
「……本当に、大きくなったね。いい男になったよ」
「それも、さっき姉さんに言われました」
返した言葉にフレイナは嬉しそうに笑った。
しかしその瞳が、不意に切なげな色を浮かべる。
「……スティルク。私はあなたの、いい母親でいられたかしらねぇ」
瞬間、スティルクの頬が強張った。
笑みを返すこともできず、唇が震える。
「何ですか? 急に……」
「……なんとなくね。あなたはいつも穏やかな顔をしているけれど、あまり心の内を話す子ではなかったからね……」
母親という言葉が脳裏に木霊する。
九年間自分を育ててくれた彼女が恩人であることに間違いはない。それでもスティルクは、フレイナを母親だと思ったことはなかった。
彼女はあくまでもシグルフとアストリアの母親であり、スティルクにとっては違ったのだ。スティルクの知る己の母親というものは、彼女のような人間などでは決してない。
病床で死を待つだけの彼女が、自分にどんな言葉を欲しがっているのかは容易に想像がつく。
それでもスティルクは、それを口にすることができなかった。
(……嘘は、つきたくないなぁ)
短く息を吸い、思うままの言葉を紡ぐ。
「……僕は、いい母親というものを知らないので……。ただ、シグルフ兄さんとアストリア姉さんが羨ましいなと思ったことは、何度もあります」
その回答は彼女の期待に沿うものではないだろう。
失望させてしまうかもしれない。
目を合わせることもできず、不安に鼓動を打ち鳴らしながら、スティルクは続けた。
「僕も二人のように、あなたの子だったなら……。あなたが僕の母親だったなら、僕も、もう少し真っ当な人間になれたんじゃないか……って、そう思うんです」
二人の兄姉にとってのフレイナは、それこそいい母親そのもののはずだ。真っ直ぐで素直な性質の彼らを思えばこそ、スティルクは己をそこに当てはめることがどうしてもできない。
血で汚れた刀が脳裏に浮かぶ。
あの刀は結局、ソルガンが人知れず処分したらしい。どこでどう処分したのかは教えてもらえなかった。
フレイナもあの刀の存在は知らないはずだ。
「スティルク」
静かな声に視線を上げる。
「あなただって、私の息子だよ。私はずっと、そう思っていたんだから」
耳朶を震わせ、鼓膜から全身に染み渡っていくような声だった。
胸が苦しい。
沸き立つ想いの正体が分からない。
(……ごめんなさい、フレイナさん。僕はあなたを、母とは呼べない……)
言葉を返すこともできず、スティルクはただ皺だらけの手を握りしめた。




