第十話 ラベルの街
# 第十話 ラベルの街
最初の公開会議は、驚くほど地味だった。
飯田橋の貸し会議室。窓際の観葉植物は半分枯れていて、延長コードが床を蛇みたいに這っている。そこに、出版社の実務担当、投稿サイトNOVA-ARKのエンジニア、書店連盟の渉外、障害当事者団体、そして原告側の弁護士チームが、互いに目を合わせる時間だけ長く取って座っていた。
議題はひとつ。
透明性ラベル制度の仕様。
笹原は冒頭で、紙を一枚掲げた。
「目的を先に固定します。これは純度審査の制度ではない。読者の選択肢を増やす制度です」
会議録の先頭に、その一文がそのまま打ち込まれる。
提案されたラベル案は、最初から揉めた。
人間執筆。
共同生成。
補助利用あり。
不明(制作情報非開示)。
「非開示をラベルに入れるのは逃げ道では?」と、書店側の担当が言う。
「逃げ道じゃなく出口です」笹原が返す。「非開示を悪として扱った瞬間、また提出儀式が始まる」
火野はノートPCをプロジェクタにつなぎ、投稿画面のモックを映した。入力欄の下に、小さな注釈が付いている。
《ラベルは作品の価値を保証しません。制作プロセスに関する任意情報です》
「この一行を消すと、レビュー欄が『偽物判定』で埋まる」火野は言う。「説明文は、UIの防波堤です」
会議は四時間続き、決まったのは半分だけだった。
それでも、半分決まればシステムは動き始める。
翌週、NOVA-ARKに試験運用バナーが出た。
【制作プロセス・ラベル(試行版)】
公開初日はアクセス集中で二度落ちた。三度目の復旧後、投稿画面に並ぶ選択肢を見て、澪は妙な既視感を覚えた。これは裁判の判決文ではない。スーパーの棚札に近い。日常が制度を飲み込む速度は、想像より速い。
書店の棚も、静かに変わり始めた。
神保町の大型店では、POPに小さなアイコンが付いた。丸がひとつなら人間執筆、ふたつなら共同生成、三角は補助利用あり。凡例は控えめで、目立たない。それでも、客の足は確かにそこで一瞬だけ止まる。
最初の週末、澪は私服で棚の前に立った。
高校生くらいの二人組が、文庫を手に取りながら話している。
「これ人間100%らしい」
「こっちは補助あり。どっちにする?」
「うーん、あらすじはこっちが好き」
結局、二冊とも買っていった。
その背中を見て、澪は少しだけ肩の力を抜く。選択が対立でなく比較に戻るだけで、空気はこんなに違う。
もちろん、全部がうまくいったわけではない。
ラベル導入三日目、SNSには新しい断定が流れた。
《非開示は黒》
《共同生成は実質AI》
《補助利用あり=手抜き》
古い二元論は、ラベルの上からでも増殖する。
白井の翻訳連載には、初めて「共同生成」ラベルが付いた。下訳支援の利用を明記したからだ。コメント欄には好意と嘲笑が半々で並ぶ。
《誠実》
《もう作家じゃない》
《読みやすければいい》
《ラベル以前に本文を読め》
白井は打合せ帰りの喫茶店で、ストローを回しながら言った。
「怖いのは変わらない。でも、前は『隠してるだろ』だけだった。今は、少なくとも中身の話をする人が戻ってきた」
皆川の短編は、公開初日に「補助利用あり」で出した。視線入力と予測補助の使用を明記したら、想定より読了率が高かった。感想欄には、技術の話より物語の話が増えた。
《ラストの会話、刺さった》
《主人公の歩幅の描写がいい》
皆川は端末に視線を置いたまま、機械音声で短く言う。
「やっと、作品として怒られたり褒められたりした」
その言葉は、訴状より強かった。
市場データは、さらに意地悪な現実を示す。
人間執筆ラベルだけが勝つわけではない。
共同生成ラベルだけが伸びるわけでもない。
読者は思ったより雑で、思ったより誠実だった。
面白ければ読む。
嫌なら読まない。
その前提に、ラベルは薄く重なるだけ。
書店連盟の月次報告会で、担当者が苦笑しながら言った。
「正直、もっと綺麗に分かれると思ってました。ところが、同じ読者が人間執筆と共同生成を同時に買っていく。もしくはそもそも手に取らない。まったく棚の導線が読めません」
笹原は資料に目を落としたまま答えた。
「導線が読めないのは健全です。読者を一種類にする制度のほうがずっと危険だから」
久世は、しばらく表に出なかった。
PLの定例配信は、代表不在のまま三回続いた。代わりに公開された短文声明は、以前より語尾が弱い。
《ラベル制度は暫定的妥協であり、評価は継続する》
それでも、運動の勢いは目に見えて変わった。強硬派は「制度に取り込まれた」と怒り、穏健派は「ようやく話ができる」と安堵する。分裂は止まらないが、分裂が必ずしも崩壊ではないことを、誰もまだ言葉にできないでいた。
ある雨の夕方、澪は代官山のソノラに寄った。厨房の湿度は相変わらず高く、玉ねぎの甘い匂いが客席まで来ている。
葛西は鍋を混ぜながら、棚上のタブレットを顎で指した。
「見て。今月の予約、戻ってきた。で、面白いのが、ラベル導入後に初めて来た客が『この店、公開する皿としない皿の線引きが好きです』って言って帰った」
「線引きが好き、って変わった感想ですね」
「だろ。でも、たぶんそういうことなんだよ」
葛西は火を弱め、蓋を少しずらした。
「全部開けるか、全部閉じるか、じゃなくて。どこを開けるかを自分で決めてる感じが、味になる」
店を出るとき、雨脚は細くなっていた。澪は傘をたたみ、スマホの通知を払う。未読の仕事メールは、まだ少ない。生活は完全に戻っていない。けれど、止まっていた歯車が一枚だけ噛み合い始める音は、確かに聞こえる。
その夜、自宅の机で澪は、ラベル導入後の反応ログを整理していた。読了率、離脱率、コメント分類。数値を追う作業は無機質なはずなのに、行ごとに人の迷いが見える。
午後十一時四十分、受信箱に新着が入った。
差出人は、文芸誌「群青線」編集部。
件名は短い。
【新連載のご相談】
本文は、丁寧すぎるくらい丁寧だった。
《朝倉澪様
突然のご連絡失礼いたします。
現在の社会実験とその周辺で起きている変化について、当誌で月次連載をご執筆いただけないかと考えております。
お願いしたいのは、立場の代弁ではなく、観察と記述です。
可能であれば、次号企画会議の前に一度オンラインでお話しさせてください。
追伸
あなた自身の言葉で、この時代を書く気はありますか。》
澪は画面の最後の一行で、手を止めた。
通知音はもう鳴っていない。
部屋には、PCファンの低い回転音だけがある。
言葉を守るために制度を作るのか。
制度を壊さないために言葉を削るのか。
その問いに、いま返事をするとしたら、たぶん逃げ道はない。
制度が街に実装された次は、書き手自身がその制度の前でどう立つかを問われる。
澪は空の返信欄を開き、カーソルの点滅を見つめた。
そして、最初の一行だけを打った。
《お引き受けします。》




