第九話 供述
# 第九話 供述
笹原からの着信は、呼び出し音が五回鳴ったところでようやく繋がった。
さっき届いた検証資料の文字列が、網膜の裏にこびりつく。
「スクショは取った?」
「取った。メタデータも保存した」
「触りすぎないで。改変したと騒がれる」
通話越しの声は落ち着いているのに、机を叩くような短いリズムが混じっていた。笹原が急いでいるときの癖だろう。
「今から共有フォルダに上げて。明日の朝、保全申立てを前倒しする」
「久世は否定すると思う」
「否定は権利。問題は、その否定がどこまで持つか」
通話が切れたあと、澪は窓ガラスに映る自分を見た。寝不足の顔のまま、目だけが妙に冴えている。何かを暴きたいわけではない。けれど、もう「知らなかった」で済ませる余地もない。
夜明け前、街は配送トラックのブレーキ音で目を覚ます。澪はコンビニの紙コップコーヒーを手に、飯田橋の笹原事務所へ向かった。
会議室の机には、いつもの訴状束の横に、新しい紙が一枚だけ置かれていた。
【争点整理(暫定)】
一、作品価値と制作手段は同一か。
二、制作手段の開示を義務化する合理性はあるか。
三、手段開示は誰を守り、誰を排除するか。
笹原は赤ペンで三に二重線を引いた。
「ここ。法廷は理念をそのまま採点しない。制度が実際に誰を落とすかで見る」
戸塚が口を開く。
「でも世論は、もう結論を持ってます。『隠す人間が悪い』って」
「だから分けるの」笹原は即答した。「道具利用の自由と、表示義務。ここを混ぜると、道徳しか残らない」
白井が眉を寄せる。
「表示義務って、結局また提出地獄にならない?」
「強制開示じゃなく、目的限定のラベル。しかも任意・標準ラベルを分ける。食品表示と同じで、流通のための情報は要る。でも、人格審査のための提出は要らない」
皆川の視線入力端末が小さく鳴った。
「ぼくは、何を使ったかより、何を書いたかで読まれたい。けど、読む側が選ぶ情報まで奪うのも違う」
笹原はうなずいた。
「その両方を残す設計を出す。全面禁止でも全面解禁でもない、第三の地味な案を」
午前十時半、地裁の廊下は湿った紙の匂いがした。報道の腕章が並び、傍聴抽選の番号札が剥がれる音が断続的に響く。
法廷に入ると、久世は原告席ではなく参考人席の後方にいた。濃紺のスーツ。ネクタイは黒。前髪だけが少し乱れている。いつもなら視線を集める側の人間が、今日は視線の中で呼吸を整えていた。
審理は、証拠保全の確認から始まった。
裁判長が淡々と告げる。
「提出されたデータは、真正性の判断を留保した上で、現時点では関連性を認める」
法廷書記官のキーボード音だけが細かく続く。
最初に問われたのは、リークされた草稿ファイルのことだった。
「あなたは、当該期間にScribeForgeの校正機能を利用しましたか」
久世は、唇を一度だけ舐めた。
「定義によります。誤字訂正と整形は使いました。生成は使っていません」
傍聴席がわずかにざわつく。
笹原が立つ。
「確認します。あなたが公の場で繰り返した『汗の純度』という語は、補助利用の全面否定を含みますか」
「私は、人間の努力を守る文脈で話した」
「質問にお答えください。含みますか、含みませんか」
沈黙。
「……運動の中で、そう受け取られた可能性はあります」
「あなた自身はどうですか」
「私は、補助と代替を分けるべきだと考えています」
その言葉に、澪は胸の奥が冷えるのを感じた。考えているのに、言わなかった。言わないまま、群衆の速度と力を利用した。
午後の休廷中、廊下の自販機前で久世に声をかける。
「いまの供述、やっと本音?」
久世は紙コップの縁を指で潰しながら答えた。
「本音と建前を分ける余裕が、もうなかっただけだ」
「便利な言い方ね」
「便利じゃない。遅すぎる」
彼は視線を上げないまま続けた。
「俺は『使ってない』を証明できる人だけが残る世界を作りたかったわけじゃない。だけど、過激な言葉を選ぶと人が集まる。集まった人を失うのが怖くなる。怖くなると、次の言葉ももっと強くなる」
「それで、どこまで行くつもりだったの」
「行き先は、ずっと前に見失ってた」
午後の証人尋問には、笹原が申請していた証人が呼ばれた。制度の是非を理念の応酬ではなく生活の傷として示すため、RML公開義務騒動で営業被害を受けた当事者、キッチン・ソノラの葛西陽介だ。
厨房からそのまま来たような黒いシャツに、袖口だけ薄くソースの色が残っている。法廷なのに、台所の匂いが一緒に入ってきた気がした。
「あなたの店は、RML公開義務騒動でどのような影響を受けましたか」
笹原の質問に、葛西は短く息を吐いてから答える。
「予約が減った。取引先から照会が増えた。いちばん削られたのは、料理の時間です」
「あなたは最終的にタレのレシピを公開した」
「しました。自分で決めて、です」
「強制ではなく」
「はい」
葛西は法廷全体を見回し、言葉を選ぶ。
「公開した皿で客が減ったわけじゃない。むしろ増えた日もあります。問題はその先です。『出していない皿の理由書を出せ』と言われ始めた瞬間、店は厨房より説明書を作る場所になってしまう」
傍聴席の後方で、誰かが小さく咳をした。
「私が守りたいのは秘伝そのものじゃない。順番です。作る、出す、食べてもらう。その後に必要なら説明する。最初に説明だけを義務にされたら、料理も文学も細っていくと思います」
その一文は、澪の中であの日の言葉を更新した。鍋より受信箱を見ていた男が、今日は裁判長の目を見て「何が削られるのか」を具体で示していた。
続いて火野が証言台に立つ。資料には、補助機能と生成機能のログ仕様が図で並ぶ。
「技術的には、境界は連続的です。ゼロか百かで切ると、運用は必ず誤爆します」
「誤爆の主な被害者は」
「締切が厳しい職種、身体的制約のある書き手、そして新人です。つまり、声の小さい側から落ちる」
審理の終盤、笹原は整理ペーパーを提出した。
表題は短い。
【道具利用の自由と表示義務の分離に関する提案】
一、制作手段の利用自体を不利益扱いしない。
二、流通上必要な情報は、標準化された任意・標準ラベルで示す。
三、虚偽表示のみを制裁対象とし、未表示を人格評価に接続しない。
裁判長は紙をめくり、しばらく黙った。
そして、被告側と原告側を順に見て言う。
「双方に確認したい。本件は価値観の勝敗を決める訴訟ではない。運用可能な着地点を探る訴訟である。そう理解してよいか」
笹原は即座にうなずき、相手方代理人はわずかに間を置いて同意した。
その日の審理が閉じる直前、裁判長は記録官に目配せし、一枚の文書を読み上げた。
「裁判所として、和解勧告案を提示する」
傍聴席の空気が、目に見えるほど張る。
「条件案は三点。第一に、制作プロセスの透明性ラベル制度を導入すること。第二に、ラベルは義務的提出ではなく、任意・標準ラベルを併設した選択式とすること。第三に、ラベル未記載のみを理由とする一律排除を行わないこと」
法廷の時計は、午後四時四十八分を指していた。
久世は、読み上げの途中から微動だにしなかった。笹原はメモを取る手を止めない。葛西は何かを噛みしめるように、奥歯に力を入れている。
散廷後、報道陣が廊下で雪崩のように動いた。マイク、ライト、同時に飛ぶ質問。
「久世さん、受け入れますか」
「朝倉さん、これは妥協ですか」
「笹原さん、実効性は」
誰の声にも、まだ答えはなかった。
夕方の外気は、雨の前の金属臭がした。地裁の石段を降りると、澪の端末に新着通知が一件だけ入る。
送信者は不明。
本文は一行。
《ラベルの仕様は、もう別の場所で書かれている》
添付リンクのプレビューには、見覚えのないリポジトリ名が浮かんでいた。
澪は画面を閉じ、息を浅く整える。
和解案は、争いの終わりではない。
制度を誰が書くかという、次の戦場の始まりだった。
そしてたぶん次は、法廷の中ではなく、街の棚と投稿画面の上で試される。




