第十一話 火を継ぐ
# 第十一話 火を継ぐ
連載の初回原稿を送信した夜、澪は送信済みフォルダを三回開いた。
いままで続いていた喧噪が、送信済みの一行に圧縮されている気がした。
文芸誌「群青線」に送ったファイル名は、味気ない。
`gsen_column_01_masakura.docx`
それでも、カーソルの点滅を他人へ渡した実感だけは、ずっと手に残った。画面の向こうへ差し出したのは意見ではなく、観察と記述だと決めたはずなのに、送信ボタンはいつだって小さな告白に似る。
朝六時半、窓の外で回収車がガラス瓶を鳴らす。
澪は湯を沸かし、紅茶を薄めに淹れ、机に戻った。
連載の二回目を書く前に、もう一つ書かなければならないものがある。
自分の長編。
タイトルはまだ仮のままだった。
「ラベルの街区(仮)」
仮題のまま三週間が過ぎて、ようやく澪は題名を外した。題名を外すと、本文は少しだけ呼吸を始める。制度の説明から入るのをやめ、最初の一行を、ひとりの読者が本を開く音に変えた。
その日、彼女は制作ノートを別ウィンドウで公開した。入力ログ、改稿履歴、補助ツールの使用箇所、削除した段落。隠せるものは隠せる。けれど、隠さないと決めた。
公開ボタンの前で、三輪からメッセージが届く。
《深呼吸してから押してください。あと、押したら寝てください》
澪は笑って、深呼吸して、押して、寝なかった。
公開三時間後、タイムラインは二つに割れた。
《ここまで開示する必要ある?》
《ここまで開示するなら読む》
四時間後には、別の第三の言葉が混じる。
《開示は開示として、本文がいい》
澪はその一行をスクリーンショットして、フォルダ名「救急箱」に入れた。
昼過ぎ、笹原から電話が来る。
「公開、見た。よくやった」
「誉められると思わなかった」
「誉めてない。弁護士としては冷や汗。読者としては、いい」
笹原は紙をめくる音を立てた。
「それと、和解条項の最終文言、通った。ラベル未記載のみを理由とする排除禁止は維持。表示フォーマットは年次見直し」
「じゃあ、制度は動き続ける」
「動き続ける。壊れる前提で、直しながら」
通話の最後、笹原は少しだけ声を落とした。
「あなたの本、法廷資料にしないでね。あれは本として読ませて」
午後、澪は久しぶりに湾岸スタジオへ行った。告知には「公開討論」としか書かれていない。観客席は満席ではないが、空席があること自体が前より健全に見えた。
登壇者一覧の最後に、久世連の名がある。
開演十分前、控室の廊下で久世とすれ違った。
黒いジャケット、白いシャツ、ネクタイなし。代表の制服みたいだった濃色スーツは着ていない。
「来ると思ってなかった」久世が言う。
「観客として来た。今日は」
「怖くない?」
「怖いよ。でも、怖い場所に椅子があるうちは座れる」
久世は短く笑って、すぐ真顔に戻る。
「今日、辞める」
「代表を?」
「ああ。PLの」
澪は頷くだけにした。慰めも祝福も、たぶん違う。
本番の照明が上がる。司会が会場を見回し、定型の挨拶を読み上げる。
「本日の主題は『制度の次に残るもの』です」
久世は最初の発言で、原稿を閉じたまま言った。
「私は今日をもって、PL代表を退きます」
客席がざわめく。スマホがいっせいに持ち上がる。
「運動は必要でした。いまも必要な部分はある。ただ、私は運動を守るために言葉を強くしすぎた。強くした言葉に、私自身が従わされるようになった」
間を置いて、続ける。
「これからは、代表としてではなく、書き手として、討論の席に戻ります」
その日の配信説明欄には、告知が一行だけ追記された。
《来月より、久世連名義で短編連作を公開予定》
拍手はまばらで、長く続かなかった。けれどブーイングも大きくはならない。誰もが「次の反応」を迷っている時間が、会場にゆっくり広がった。
討論後半、観客席から質問が飛ぶ。
「ラベル制度で、結局なにが変わったんですか」
司会に指名され、澪はマイクを受け取った。
「劇的には変わっていません。いまも乱用はあるし、断定もある」
会場が静かになる。
「でも、ひとつだけ戻ってきたものがある。作品を読んでから怒る人、作品を読んでから好きだと言う人、その順番です」
帰り道、澪の端末には感想が流れ続けた。連載の読者、長編の読者、討論の視聴者。肯定と否定が同じ速度で混じる。
《開示が重い》
《開示が助かる》
《議論は置いておいて、あの第六章で泣いた》
泣いた、という一語が、通知欄の中で静かに光った。
数日後、長編の単行本化が決まり、発売日は秋に設定された。
装丁会議で編集者が提案した帯文は、どれも強すぎた。
《AI時代の文学宣言》
《純度論争の決定版》
「どっちも嫌です」澪は言った。
「じゃあ、何がいいですか」
澪は少し考えて、答える。
「『読む前に判断しないための小説』で」
編集者は笑い、メモに丸をつけた。
発売当日、神保町の書店棚には、確かにラベルが混在していた。
人間執筆。
共同生成。
不明(制作情報非開示)。
補助利用あり。
澪の本には、ラベルが二つ付いている。
《人間執筆》
《補助利用あり(校正・要約)》
棚の前で、老夫婦が背表紙を見比べている。隣ではスーツ姿の会社員が、ラベルを見ずに目次だけで選んでいる。制服姿の学生は、試し読みの最初の段落で立ち止まったまま動かない。
ラベルはある。
でも、手が伸びる瞬間を決めるのは、やっぱり文章の最初の温度だった。
夜、発売記念の小さなトーク会が開かれた。会場は三十席。半分は埋まり、半分は空いていた。ちょうどいいと澪は思う。
最後の質疑で、ひとりの中学生が手を挙げた。
「結局、いい作品って、どうやって決まるんですか」
澪はマイクを握ったまま、少し黙った。
簡単な答えはたぶん、嘘になる。
「私もまだ、毎回わからないです」
会場に小さな笑いが起きる。
「でも、これだけは言える。価値は、汗の量だけでは決まらない。道具の種類だけでも決まらない。誰かの生き方を、ほんの少しでも動かしたかどうかで決まる」
中学生は頷き、ノートに何かを書きつけた。
季節が一度巡るころ、澪は机に座り、連載の最終回に一文を追加した。
《制度は、正しさを完成させるためではなく、間違いを修正し続けるためにある。》
保存して、画面を閉じる。
窓の外では、終電の音が遠くで短く鳴った。
端末に通知が入る。
差出人は久世。
《次の討論会、一般参加で申し込みました。名前は本名で。》
澪は返信欄を開き、短く打つ。
《席、取っておきます。》
送信。
机の上の本を閉じる。
明日の棚にも、きっとラベルは並ぶ。
それでも読者は、最初の一行で迷い、選び、時々まちがえる。
その繰り返しに火を渡していくことだけが、いまの自分の仕事だと、澪は思った。
〈了〉
【人間執筆証明】
本作は人間によって執筆されました。
(ただし、この証明自体がAIによって生成された可能性は否定できない。)




