9.抗えない熱
汗ばむ額、火照る身体をどうにかしようと、桶に張られた水に手を触れた。少しはマシになればと思ったのに――
「……あっ、」
バランスを崩して水を正面から被ってしまった。それでも尚、襲いくる熱に、思わず「助けて……」と誰に言うでもなく溢れる……。
「……っ、リゼ!!」
呼ばれる声に胸を打たれ、名前を呼ばれるだけで苦しくなる。
「うっ……凄い香りだな……」
「殿下……ダメです。離れて」
「……それが出来たら、俺も楽なんだよ」
濡れた私を抱えて、ベッドに下ろした。そして、衝撃的な言葉を受ける。
「お前のそれは、発情だ」
「……発情……?」
薄い酸素を必死に得ながら、殿下を見つめた。あんなに拒絶されて、勝手なことばかりしてきたのに、彼の服を握りしめて「助けて……」と口にしてしまう。
「っ……くそ……」
押し殺した声で殿下が額を寄せ、触れられただけで、熱が弾けるみたいに広がった。
「……離れろと言ったはずだ」
「……言いました……でも……」
無理、と言葉にする前に、息が途切れる。近いのに……離れられない。
「……これ以上は、駄目だ」
いつだって、矛盾してる。その温度に、縋るみたいに目を閉じた瞬間――
「……んっ、」
唇が、深く重なった。解けるように……触れただけで、身体の奥を締め付けていた熱が、ゆっくりと溶けていく。
「……ふ……う」
楽になっていくのに……でも、消えない。むしろ、もっと欲しくなる……。
「……これで、少しはマシだろ」
「……はい……」
額を押し当てたまま、低く言う殿下の声が揺れている。私も、「はい」なんて返事しておいて、胸の奥が静まらない……じわじわ広がる水溜りのように。
「……っ、殿下……」
「それ以上、言うな!」
遮るように、強く抱き寄せられた。
「……これ以上は、抑えが効かない」
「でも……っ、」
無意識に、服を掴む指に力が入った。
「……リゼ?」
名前を呼ばれただけで跳ねる心、触れられた時にほどけていく熱……自分が自分でない感覚――
「……もう、無理です……」
殿下の胸元に顔を埋めて、縋りついた。恥ずかしいとか、そんな余裕はどこにもない。
ただ――
「……離れないで……」
それだけが、本音だった。
***
俺の抑えだって、とっくに効かなくて……。
「離れないで」
その言葉一つで、更に求めるようにキスをした。唇が触れる度、祈るように"耐えろ"と念じる、俺の気なんて彼女は知らない。本当は、こんな形で彼女を手に入れるべきじゃないのに。
初めての発情に身体が耐えきれなかったのか、それとも熱が解けたせいか。彼女は、暫くして眠りについた。
「……俺のせいだ。すまない……」
あの時に我慢していれば、こんな事にはならなかった。だけど……もう、知ってしまったこの熱を……なかった事には出来ない。
「リゼ……お前を傷付けたくないっ、」
――これ以上、触れたら終わる。
「……くそ……」
離れたくない。離れなければ、守れない。
このどうしようもない矛盾。
さっきまで縋りついてきた温もりが、まだ腕の中に残っている。呼吸を整えようとしても意味がないし、香りが消えることもない。
「――母さん……俺――」
ぽつりと零れた言葉は、誰にも届かないまま静かに夜に沈んだ。
――翌朝。
彼女より先に起きて、ベッドサイドに座った。安らかに眠る寝顔を見て安堵はしたが、昨夜のことを謝るべきか……非常に悩ましい。
そこへ、彼女の侍女がノックと共に入ってきた。まさか、俺がここにいるとは夢にも思わなかったんだろう。青ざめた顔で、慌てて扉を閉めようとするのを制止した。
「待て」
「……本当に申し訳――」
「別に構わない。もし……彼女に異変があれば教えてくれ」
「異……変とは、具体的に……」
「いつもと違う様子があれば、で構わない」
「かしこまりました」
「それと……」
“婚約が本心か聞いてほしい“
そう言いかけて「何でもない」と濁した。あれだけ拒んで、傷付けたのに……婚約を受けたのが、国同士の柵だとか意地なら、やはりこの婚約は受けるべきじゃないと思う。なのに、昨日のような発情を目覚めさせた責任は……俺にある。
結局、巻き込んでしまった。
「あっ、いたいた! エイキ様、どちらに――」
「……ソイル。一つ頼まれてくれないか?」
「その顔……今度は、どんな頼みです……か? 怖いんですけど」
「発情を消す方法を探してくれ」
「は?」
「俺じゃなく、彼女のだ」
何か悟ったソイルが視線を変えた。
「そんなに番い様が、もとい番いが嫌なんですか?」
「……逆だ」
「逆!!!」
ソイルに背を向け、「とにかく早急に調べろ」と告げ、逃げるように自室へ向かった。
まだ彼女の香りが、喉の奥に絡みついて離れない。
「……っ」
思わず壁に手をついた。理性で押さえ込んだはずの熱が、遅れてじわりと戻ってくる。
「……本気で、まずいな」




