8.違和感の限界
殿下が「受ける」と言った時――
それまで沈黙を貫いてたスウィーデン王妃が「エイキ」と名前を呼んだ。扇で口元を隠して、目を細めながら。
「その言葉に、責任は持てるのですね?」
「……持ちます」
母親、と言うよりも……例えるなら管理者のような視線で。
あの視線の意味を、案内された客間で考えてしまう。
「こちら、スウィーデン特産茶でございます」
「……ありがとう」
滞在中、身の回りの世話をしてくれる侍女が、香りの良いお茶を用意している。これからの予定が決まるまでの間、私はここに滞在するらしい……。学校も休んでばかりだ。
「ねぇ、聞いても良いかしら」
「はい。何でしょう」
「殿下……エイキ殿下って、どんな方?」
……そんなこと聞いてどうするのだろう。でも、誰彼構わず聞ける話でもない。
「そうですね……。エイキ殿下は、とても真面目な方です」
「真面目……」
「仕事も卒なく熟されますし、周囲の人望も厚いです。お母様である妃様を亡くされた後も、泣き言一つ言わず――」
「お母様が……亡くなられた?」
「はい。エイキ殿下が10歳になる少し前だったそうです」
「……そう」
関係……あるのかしら、あそこまで番いを拒む理由が。過去の出来事が関係してるなら……でも、踏み込むべきではないわね。
「ですが、さすが最強と謳われる黒豹の血をお待ちですから。きっと、番い様を正しく導いてくれるかと」
「え、えぇ……ありがとう。少しだけ、一人にしてもらえるかしら」
「かしこまりました」
……彼は、番いを求める獣人だ。人の姿でしか接したことがないから、忘れてた。身近にいない獣人という存在に、想像もつかない。
「黒豹……」
カップに手を伸ばした時、ふと胸の疼くような甘い香りに襲われ、思わず口を覆った。
「……っ、なに……?」
唇が触れるほど近付いた彼の、あの香りを感じて、覆った手を外せずにいる。
「もしかして……」
思わず立ち上がって、部屋を見渡しても殿下の姿は、あるはずもない。
「気のせい、よね?」
……若干震える指先。敏感になる感覚は、幾つもの違和感を思い出させた。インクの香り、人の感触、時折胸を疼かせるこの香り。その正体に、一つの可能性が、頭をよぎる――
「まさか……番い、だから……?」
***
自分の部屋にいれば良いのに、気付けば隣の部屋に入ってしまった。壁の向こうに彼女がいる……のか。
「ならいっそ、訪ねれば宜しいじゃありませんか」
「……それが出来ないから、ここにいるんだろ」
縁談を断る口実は、もうどこにも残っていない。彼女が答えなど求めるから……。
「恐れながら、しばらく滞在になるのですよ? コミュニケーションを取れなかったら、番い様が可哀想です」
「しかし……散々、拒絶してきたのに、今更どうしろと」
……全ては、話せない。口にして背負わせるつもりは毛頭ないし、二度と……繰り返したくない。
目をギュッと閉じて、思い出すな――そう念じた。
「お言葉ですが、相当無理されてますよね? 発情しても本能を拒絶し続けたせいで、一体何個の枕をダメにしたと思ってるんですか」
「それは……何度も謝ってる」
「彼女だって、例外ではありません。一度でも唇が触れれば、彼女は完全なる番いとして目覚めますから」
「……あ」
……唇が触れれば――
「そしたら、彼女もイチコロですね。って、どうかされました?」
近付き過ぎたあの時……微かだが、確かに触れた感触を……忘れるはずがない。と言うことは、彼女も――
ブワッ――!
溢れかえる甘い香りに、思わず息を止めた。
「……っ、なんだこれ」
「はい?」
抗えない香りが、まるで全身を包み込むようだ。息を吸うだけで、喉の奥が焼けるみたいに熱い……。理性が削られていく感覚に、ガクンッと膝の力が抜けた。
「……ソイル、離れろ」
異変を感じたのか、一歩下がったソイルが「まさか……」と言う。
壁を隔てた彼女の香りに、全てを持っていかれる。耐えるとか、そんな言葉では表現出来ない感覚を抱え、制止の声も聞こえないふりをして彼女の部屋に繋がるドアノブに手を掛けた。
「大丈夫か!? あ、開けるぞ」
返事も待たずに、開けた扉の先——
「……っ、リゼ!!」




