3.はかりごと
閉ざされた扉の前に、一人取り残された私の気持ちを、誰か汲み取ってくれるのかしら。
しばらくその場から動けず、静かすぎる室内に視線を落とし、先ほどまでのやり取りだけがやけに鮮明に残った。
「……ふう」
小さく息を吸って、ゆっくり吐いた。
――落ち着いて。何も起きていない。
何度か言い聞かせていると、外から鍵の外れる音がした。最初から分かっていたかのようなタイミング。扉を開けても誰もいない緑の回廊を、ただひたすら馬車に向かって歩いた。
「……本当に、何なのよ」
振り返らない。
振り返る理由なんて、どこにもない。
御者だけが頭を下げ、私が乗り込んだのを確認して静かに扉を閉めた。揺れに合わせて、視線だけを窓の外へ流す。この出来事は、私だけが秘めてさえいれば公になることもない。
……あの距離。
……あの視線。
――僅かに触れた、唇。
「……っ」
思わず、ぎゅっと自分の手を握りしめて「やめて」と口にした。思い出す必要なんてない。あんなもの、ただの気まぐれだ。
……いや、違う。気まぐれですらない。拒絶しておいて、あんなことをする人だ。
「……最低。本当……何なのよ」
抑えていたものが、じわじわと滲み出してくる。ほんの少しも、期待なんてしてない。
期待なんて、していない。
するはずがない。
だって彼は――
「番いなんて、いらないって言ったじゃない……」
あんなにはっきり、拒絶したくせに。微かに残る唇の感触を消そうと、拳で唇を何度も何度も擦ってみた。ヒリヒリとした痛みの奥に、思い出す感触が、やっぱり消えてくれない……。
消そうとするほど、思い出してしまうのが腹立たしい。あんな顔をして。
「……意味、分からない」
ぽろり、と気付かないうちに……涙が一つ落ちた。こんなことで泣くなんて、馬鹿みたいだと、慌てて拭ったものの。誰に見られるわけでもない。誰かに慰めてもらうわけでもない。
「選ばれないなら、近づかない。望まれないなら、応えない。それだけよ。それだけ」
なのに、どうしてこんなに――
「……腹が立つのよ」
涙を拭いながら、吐き捨てた意味不明な感情。
ただ一つ分かるのは――
もう完全に、関係ない……とは言えなくなってしまったことだけが、どうしようもなく残っていた。
***
扉の閉まる音……それに、窓から見える馬車の走っていく姿――
静かに告げるノックの音に、一度は無視した。が、諦めないのか、出るまで叩かれる煩わしさを避けるため、仕方なくドアを開けた。
「……何故、彼女を連れてきた」
「エイキ様の態度が、あからさまだからです」
「望んでないと、何度も伝えた」
「両陛下は、大層お望みです」
僕の意見と天秤に掛けるのが、国か。
「それで、彼女に番いだと伝えたんですよね?」
「……お前は、馬鹿か。伝えるわけないだろう。頼むから、放っておいてくれ……」
「エイキ様。私も番いを探す一人です。この血筋が、番いを求めるのは必然。そこまでして拒むおつもりですか?」
静かな問いに、答える気はなかった。答えたところで、理解されるとも思えないから。
「……必要ないからだ」
「……そうですか」
納得したような、していないような声。それ以上の会話を拒むように、視線を逸らした。
「明日、国に帰る。これは絶対だ。もし準備が済んでなかったら、お前は明日から無職だ」
「……はぁ」
側近に、大層大きなため息を吐かれた。それでも、これ以上ここにいて心を乱されるくらいなら、手ぶらで国に帰る。
――願いが叶った翌日、多くの荷物が積み込まれた馬車が待っていた。
「本当に宜しいんですか?」
「……何度も言わせるな」
「帰り道ですが、陥没により迂回路を通るよう伝達が来ております」
「分かった」
例え時間が掛かったとしても、離れられるならそれで良い。
通学の時間帯と重なったのか、校舎と校門が見える道で足止めを食らった。制服姿の生徒たちが、次々と馬車の横を通り過ぎていく。
ふと、窓の奥に見えた髪色――
「……っ、」
これで、この痛みも忘れられる。胸を押さえて息を整えようとした時、横目に見た彼女に触れるその手が、やけに鮮明に目に入った。
湧き上がる感情の抑え方なんて——知らない。
勢いよく立ち上がった僕に、ソイルが「どうかされましたか?」と白々しく言う。
「く……」
「……く?」
「空気を吸ってくる」
「……はい?」
僅かに上擦ったような声に、ソイルの目が細められる。扉に手を掛けながら、何してんだ……と思ったりもする。
でも、最後に見たのがあの光景では……何とも後味が悪い。
一際大きい音で扉を閉めた僕は、フードを深めに被って、彼女のいた方向へ向かった。探すつもりなどないのに、敏感になる耳が拾う、微かな彼女の声――
「――で、昨日どこに行ってたんだよ。結局帰ってこなかったし」
「別に……どこだって良いでしょ」
「これでも心配してたんだぞ? なんか、元気もないし。大丈夫か――」
――パシッ!
伸びた手を弾いて、二人の間に割って入った。
「避けろ」
「で……殿下、どうしてこちらに……」
彼女の、ごくありふれた日常かもしれない。理解する必要もない。ただ一つ、はっきりしているのは……この距離が気に入らないだけ。
「……君は?」
流し目に映る男は、突然現れたのが王子と知ってか、たじろぎつつ姿勢を正した。
「失礼しました。僕は――」
「名乗りは結構」
興味はない。知りたいのは、名ではないのだ。
「彼女と、どういう関係だ」
小さく息を吐いた彼女が「ただの学友です」と口にした途端、冷たく冷えた心の一部に火が灯った気がした。視線を戻し、強引だと分かりながら彼女の手を取った。
……触れた瞬間、昨日の熱が蘇る。
「ちょっと、来い」
「……今ですか?」
「今、だ」
周囲の声など気にもせず、平静を装って彼女と視線を合わせた。
「で、ですが殿下……」
「行くぞ」
逃がさない距離に入れて、そのまま一歩踏み出した。振り払われるつもりもないし……離すつもりはない――




