2.明らかな矛盾
翌朝――
昨日の喧騒なんてすっかり忘れて、いつもと変わらず学園の支度をしている。
帰りの馬車で「残念だったな」なんてお父様は言ったけど、王子が誰を見初めようと私には関係のない話。
学園での話題は案の定、第二王子……だ。
昨日行ったのに、声を掛けられなかっただとか。
話したかったのに、途中で退席しただとか。
まだしばらく、ここに滞在する――だとか。
「リゼも行ったんでしょ?」
「行ったけど、途中で帰ったわ」
「そうなの?」
仲の良い、気心知れた友人のティニーが呆れた顔で私を覗き込んだ。招待客の中にティニーの姿がなかったのは、既に婚約者がいるから。
「声、掛けられたんでしょ?」
「……誰か言ってた?」
「王子が自ら声掛けたのって、リゼを含めて三人だったんですって」
「一人でいる可哀想な三人、ってことよ」
私の場合、デザートを頬張ってたから、可哀想な一人に含まれたのね。
「それで、何もなかったの?」
「あるわけないじゃない。それどころか、距離を取られたわ。あれは……間違いなく嫌われたわね」
瞳の奥に伺える明らかな拒絶を思い出して、心がザワッとした。
「私、別にこだわりとかないし。家の体裁で決められる運命に、従うだけよ」
……そうよ。それで良いの。それが、貴族に生まれた女子の、唯一出来る貢献でしょ?
「リゼ、それってまるで――」
「――リゼ・フランセス嬢は、こちらにおいでですか?」
ティニーを遮るように教室の扉が開いて、見知らぬスーツの男が私の名前を呼んだ。当然、教室中が一斉に私に視線を向け、あっさりと見つかってしまう。
「……わ、私ですが」
つかつか側まで歩いてきて、頭の先からつま先まで視線を動かして一言。
「お話がございます。先生に許可は得ていますので、こちらへ」
「はい? 名乗りもしない貴方について行かなければならない理由は?」
「……ここでは、少々……」
濁した言葉を汲むしかない状況に、小さくため息をついて立ち上がった。
「ありがとうございます。どうぞ」
全員の視線に見送られて、教室を出た私は、まさか校門から馬車に乗らされるとは聞いてない。
「どうぞ」
「……」
何も言わずに、言われるがまま乗り込んだ。これが事件だったら、なんて簡単な誘拐だろう。だけど……この馬車が、決して事件にはならないと分かる。
「――何故、スウィーデンの方が、私を?」
「さすが、聡明でいらっしゃる。ご安心ください。危害を加えるつもりはございません。ただ……」
「ただ?」
「殿下のご意向ですので」
その一言に、思考が止まった。
――嘘だわ。昨日、あれほどはっきりと距離を取った相手が、私を呼ぶはずないもの。
「……何かの間違いでは?」
「いいえ。むしろ、想定外と言うべきでしょうか」
「想定外……?」
それ以上何も言わず、馬車の軋む音だけが響いた。窓越しに見える離宮を通り過ぎて、緑の回廊をもっと奥へ進んで行く。
「到着しました。足元にお気をつけ下さい」
促されるまま、一層静かな建物の扉を開く。
「こちらへ」
「……はい」
外がこんなに明るく澄んでいるのに、一歩足を踏み入れた扉の向こうは、物音一つしない薄明かりの広い部屋。
人を招待した割に、何か言う前に閉ざされた扉の音に、思わず心臓が跳ねた。まるで、逃げ道を塞がれたようで、気味が悪い。
「あの……誰か――」
少し離れた場所から、ゆらっと揺れた人影が「……どうして」とポツリ囁いた。
***
番いはいない。だから、ウィルガリアにいる理由などない、そう伝えたのに——
「……どうして、ここにいる」
目の前に、想定外のリゼ・フランセスが不安そうな顔で、立っている。会わないと……決めたのに、勝手なことを。
「手違いがあったようだ」
気が緩むと表情に出てしまいそうで、平静を装って丁寧に対応した。
「……そうですか。それでは、私は下がります」
こちらに背を向けて、扉に手を掛けた。しかし、外から鍵がかけられているのか、いくら押し引きしてもビクともしない。
「ちょ、ちょっと。誰か、開けて下さい」
華奢な腕と小さな拳が、扉を打ち付ける。見ないふりをすれば、その内誰かが開けるだろう。こんな茶番も、懲りるはず。
関わらない。
関われない。
だけど……抗えない――
叩くのを止めない彼女の腕を、「止めるんだ」と掴んでしまった。昨日以上に近い距離で目が合い、秘めたる衝動がドクンッと音を立てた。
「……っ、」
「殿下?」
「は、離れてくれ……」
「……掴まれたままでは、離れることが出来ません」
彼女の言葉で、自分が掴む華奢な腕を慌てて離した。それなのに、手に残る熱と、鼻を撫でる甘い香りが脳を麻痺させる。
離れたはずの距離が――たった一歩の距離が、近い。
「……申し訳ございません」
彼女が距離を取るように、さらに一歩下がった。このまま、扉を出れば、それで終わるはず。そうすべきだと、分かっている。
「待て」
びくりと、彼女の肩が揺れ、自分でも理解できないままその一歩の距離を縮めた。
――違う。望んでない。止まれ……っ。
「……何でしょうか」
彼女の警戒を含んだ声は、むしろ当たり前で。どうかしてるのは、俺自身だ。頭では分かってる。冷静になろうと必死で。だけど、意に反して彼女に手が伸びてしまう――
「……何でもない」
少し動かせば、彼女の髪に触れてしまいそうな手。キメの細かい肌に、指先が触れかけて――
「……やめてください」
その一言で、ぴたりと現実に引き戻される。
「……嫌か?」
離す気のない距離で、そう問う。突いて出た、自分でも驚くほど低い声。問いかけているくせに、引けない行き場のない手。
「……嫌とか、そういう問題では」
「なら、何だ」
理性が強く警鐘を鳴らす。
“やめろ。引き返せなくなる“
「殿下……近いです」
吐息が触れてしまいそうなくらい、視界が彼女でいっぱいになる。冷静に見えて、赤らんだその反応が余計にまずい。
「……っ」
ぐっと歯を食いしばるのに、彼女の無防備な唇に思考が持っていかれる。あと少し近づけば。触れれば。この得体の知れない感覚の正体が、分かる気がして――
「……っ!」
ほんの少し唇を掠めて、顔を逸らし……拳を壁に叩きつけた。
「……ふざけるな。これは……こんなものは——」
乱れた呼吸のまま、距離を取った。
「……出ていけ」
それだけを絞り出して、奥の部屋へ入った僕は扉を強く閉めた。視界にいない彼女が、何をして、何を思うのか、確かめる術はない。最後に見た表情だけが、焼き付いて離れない。
――どうして、あんな顔を……。




